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遠藤於菟・三井物産横浜ビルの設計家

2013-11-15 | 建築

昨日書いたギャラリーパリが居を構えている三井物産ビルの
設計は遠藤於菟(おと)さん。彼の座談会記事が書店・有隣
堂のPR誌「有鄰」(第487号)に掲載されてる。

「近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜」と題された座談会が結
構面白かったので、三井物産ビルのことを中心に紹介するね。


三井物産横浜ビル 正面は横浜税関

堀 当時の最高の建築教育機関は工部大学校から東京帝国大学
の建築学科しかないんです。 遠藤の時代ぐらいまでは各学年が
2人とか4人とか、そんなものです。 本格的な洋風建築の需要は、
日本では公共建築、官庁建築しかない時代です。


遠藤さんも明治27年に東京帝国大学を卒業して、28年に神奈川
県の技師に就職。横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)
などの設計・現場監督を通じて西洋建築を学び、10年後の明治
38年には独立して、横浜に事務所を構える。

堀 工部大学校が明治12年に最初の卒業生を出します。 これが
いわゆる第一世代で、辰野金吾は日本銀行や、東京駅をつくる


1896年(明治29)日本銀行 竣工
1914年(大正3年)東京駅 竣工

堀 突然三井物産ビルみたいな鉄筋コンクリートの作品ができる
わけではないんです。 横浜正金銀行や横浜銀行集会所で、それは
煉瓦造なんですが、日露戦争の後から明治の末ぐらいまでは模索
の時期で、新しい鉄筋コンクリート構造を採用したり、ヨーロッ
パの最新のスタイルを導入したり、いろいろ試行錯誤して、いく
つかの煉瓦造の建物をつくっています。

煉瓦造に順次鉄筋コンクリートを使いながら、明治38年から6年
ぐらいかけて、44年、初めて全鉄筋コンクリート建築がつくられ
る。 それが三井物産の横浜ビルです


横浜銀行集会所(明治38年築、現存せず)

日本人による西洋建築の黎明期やね。江戸末期から外国人建築家
に設計を頼んでいく一方、明治の後半には日本人建築家が設計で
きるようになっていったんだね。

設計家という概念も江戸時代にはなかった。棟梁がすべて仕切っ
っていたから。明治期になって輸入された考え方。

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