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牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

初詣  埼玉県久喜市天王院

2014-01-02 20:56:41 | 日記
 天王院
 埼玉県久喜市本町1-2



JR宇都宮線の久喜駅のメインストリートを歩いて約8分。中央公民館の向いにあります。境内の中に八雲神社が鎮座。道道にはいくつもの「ちょうちん祭り(7月に行われる天王祭)」の看板があり街あげての最も大きな行事になっていることが分ります。


 1月2日私が行ったときには初詣客は誰もいませんでした。境内横の八雲神社もひっそりとしたまま鎮座。街をあげてのお祭りがこの八雲神社の祭りということを、久喜の人たちは知っているのでしょうかと正直のところ思ってしまいました。
 しかし、久喜市教育委員会がきちんと説明してくれていますし、神社が寺院の中にあるという、神仏習合時代の名残を今に伝えている貴重な存在と思います。



迎春

2014-01-01 09:51:52 | 日記
 googleで「牛頭天王信仰」と検索すると、ウキペディア(インターネット百科事典)の記事の次に出てくるのが、このブログ。牛頭天王信仰を語る場合、このブログが注目されている証とみていいでしょう。開設者としてうれしい気持ちです。しかし、わたしは宗教者でも学者でもなく、表現活動に身を置く者ですから、なかなか更新できない現実の中にいます。もっとも、忙しいということは、牛頭天王のご利益と考えていますが・・・・。今年も企画・お呼ばれ等々、あわただしく動くことになりそうです。そういう中ですが
①中部・西日本の牛頭天王寺社巡り
②牛頭天王関係の古文書購読
③牛頭天王に関する研究者の文献紹介などしていきたい気持ちです。
 
 関東はすでに高濃度の放射能地帯と化しています。厳しい状況の中ではありますが、蘇民将来のごとく「貧しいながらも手を差し伸べる」態度を忘れず、牛頭天王信仰について調べていく所存です。

牛頭馬頭(ごずめず)と牛神と牛頭天王

2013-12-31 01:55:31 | 日記
 牛の産地や、古代・中世において牛の乳製品(蘇)などをつくっていた地域の中には、近世になって牛頭天王信仰がはやると、牛の守護神が牛頭天王と習合して、牛神を祀るとともに牛頭天王を祀るようになったところもあると思います。(以前紹介した神奈川の秦野市には旧牛頭天王社が多いのですが、朝廷に献上する蘇を生産していたとのこと)
 来年は午(うま)年。馬にも馬の守護神がいて、それが馬頭明王などと習合したと思われます。もっとも、古代中国の仏教では「牛頭馬頭」という閻魔大王の眷属がいたとのこと。地獄の役人です。地獄の役人が、民間の牛・馬の守護神と習合し、さらに「上級」の神様「天王」「明王」になったということで、牛馬の価値も高まったと思われます。

 わたしの生まれは東北ですが、子どもの頃、牛や馬は母屋に居ました。牛馬はすばらしい働き手でありましたし、財産だったから、人間と同じ場所で暮らしていたのです。隣が台所。牛馬に群がるハエが当然のことながら台所にやってきます。台所にはいくつもの「とりもち」のハエ取り紙が垂れていました。団塊世代以上の、農家出身の人には理解できる光景と思われます。
 東北では 朝食に納豆を食べることが多いのですが、その納豆のねばりけにハエが負け、羽をバタバタさせている、そのハエを一匹ずつ取って納豆を食べたものでした。
 深沢七郎と言う小説家は、子どもの頃の思い出として、牛馬よりも自分の価値のないことを知らされたことを記しています。地域によっては、子どもの死よりも牛馬の死を恐れたところもありましょう。財産を失うから。牛の守護神・馬の守護神は農民にとっては必要だったと思われます。

 牛神が牛頭天王と習合したり、馬神が馬頭明王や馬頭観音と習合したりして、牛馬そのものも大切にされたということはいいことだと思います。

 農民だったわたしの祖父は、わたしが子どもの頃、牛馬は殺されるとき涙を流すと話したこと がありました。「そういう牛馬をいただいているのだから感謝の念を忘れてはならない」と・・・・。感情の動物は人間だけではないのですし、原点、牛神・馬神への思いも忘れてはならないでしょう。

薬師如来と牛頭天王

2013-12-17 07:27:22 | 日記
 仏教では、「悟りの境地に達した仏様」を如来と言い、「その修行中の身」を菩薩と言い、「如来・菩薩を守ったり、仏教世界を守ったり、仏教を広めたりする神様」を天王といったり明王といったりするとのこと。極端に言ってしまえば、軍隊同様に「階級」があり、如来(元帥・将軍)・菩薩(将校)・天王明王(下士官)・眷属(けんぞく=兵隊)ということになりましょうか。
 さて、牛頭天王の本地は薬師如来ですから、「位」としては薬師様の方が「上」。どうせなら、「上」を信仰対象にした方がご利益があると考えそうなものですが、そうではなく、「下士官」の牛頭天王を、多くの武士階級も多くの一般庶民も選んだのです。

 東京都の多摩地区にそびえる高尾山。そこに「薬王院」という寺院があります。天狗で有名な寺院ですが、「薬王院」のホームページを見ますと、元々は薬師如来を本尊にしていたとのこと。南北朝時代になって、中興の祖が飯縄大権現を祀り、現在に至っているとのことです。飯縄大権現の本地は不動明王で、不動明王とその垂迹たる飯縄大権現(その眷属が天狗)を祀っていたというのが歴史的理解とみていいでしょう。

 牛頭天王信仰においても、高尾山「薬王院」においても、薬師如来ではなく、「下」の天王・明王が信仰対象になったという事。それが南北朝時代から・・・・・。これは偶然とは思われません。天皇権力の衰退が著しくなったのが南北朝時代から・・・・。後 醍醐天皇を最後に幕末まで天皇の個人名は歴史の表舞台から消えます。

 武士階級・一般庶民は「上」の薬師如来でなく、「下」の天王・明王をなぜ選んだかと言うことですが・・・・。奈良時代に建てられた国分寺の本尊は多くの場合薬師如来でした。国分寺は国司同等の力を持ち多くの荘園の経営者であり、朝廷権力の「手先機関」としても存在していたと思われます。地方の末端に存在していた豪族集団(武士階級)は、「監視される立場」「搾取される立場」であり、反抗的エネルギーを高めていったと思われます。戦場と化した場合は、当然国分寺は焼かれ薬師如来像も消えたことでしょう。
 台頭していった当時の武士階級は、権力側の仏様、しかも「静的」「理論的」な仏様よりも、「下々」の立場に立つ「行動的」「現実的」神様の方を選んだということでしょう。

 警察関係のドラマにおいては、管理職よりも刑事が主人公になる構図、軍隊もののテレビ映画において、将軍・将校よりも下士官が主人公になる構図によく似ていると言えるでしょうか。信仰の世界においても、「現実」を知り、「現実」に対応できる神様が重要になったということでしょう。たとえ「位」が「下」にあったとしても・・・・・。
 
 国家権力にこびへつらったり、金もうけにこだわったりして、「位」「地位」なんぞ気にしているようでは、まずもって歴史をつくることはできませんし、結果的に健康を損ない、多くの信用も失うでしょう。牛頭天王信仰・不動明王信仰などがそれを証明していると言えるかもしれません。

川村湊氏の『牛頭天王と蘇民将来伝説ー消された異神たち』を読んで

2013-12-16 11:09:39 | 日記
 わたしは、牛頭天王について、宗教者や宗教研究者・民俗学者・歴史学者といった人たちの文章をほとんど読んできていません。もともと、宗教学研究・民俗学研究・歴史学研究のためにこのブログを立ち上げたわけではなく、明治維新政府に「弾圧」された牛頭天王信仰が、「弾圧」に屈せず「天王様」「祇園様」として今なお庶民階級の間に残っているその現実を知りたいために立ち上げたのです。
 ただ、たまたま「古文書」の研究会に入っていたこともあって、古文書との関係からも牛頭天王信仰を見てきました。古文書のまま『ほき内伝』をインターネットに取り上げたのはわたしが最初でしょう。こうなると、歴史学に著しく近づき、実証的に、学術的に見るようになってしまいますが、そこはそこ、あくまでも、牛頭天王信仰を自分なりに想像しながら、宗教学・民俗学・歴史学などといった実証的学問とは別にしていきたいと思っています。
 基本的にわたしは美術・身体・ヴォイスの表現活動に身を置く者で、学問の世界を志すつもりはなく、一昨年・昨年・今年と、牛頭天王のご利益なのでしょうか、表現活動は充実しており、その上5本のテレビ・映画にも出演(ロケ)する機会にもめぐまれ、もう「てんてこまい」といった現実の中にいます。
 しかし、世の研究者たちが、牛頭天王についてどのように思い・考えているのか知っておくことも必要と感じ、今年は 時間を見つけて宗教学者・民俗学者・歴史学者たちの書物を読んでみることも、目標のひとつにしていました。しかし、もう12月。何人もの人から『牛頭天王と蘇民将来伝説ー消された異神たちー』(川村湊著・作品社)はぜひ読んでおくといいと言われてきていましたので、あわてて「対角線読み」で読み上げました。

 結論的なことから言いますと、この著者の川村湊さんとわたしの共通認識は
(1)天皇の個人名が歴史の表舞台から消え(後醍醐天皇最後に)、天皇権力の衰えに反比例するかのように、牛頭天王信仰が広まっていくということ。
(2)牛頭天王信仰は、ヒンドゥ教・仏教・占星術・古代の中国神(神農)などの「外来文 化」の影響を受けて成立していった、「反天皇」または「天皇制を超える」信仰であったということ。
(3)明治維新政府や「天皇制神道」側が(2)のことから牛頭天王信仰を目の敵にしたのは当然と言えば当然と考えられるということ。
(4)「牛頭天王」の文字は古代日本の文書にはほとんど現れていない。奈良国立博物館所蔵の平安時代末期に描かれたと思われる『辟邪絵』(牛頭天王が天刑星に食べられる絵)など限られているということ。

 この著書を読んで、わたしにとって、「有益」、または「面白い」情報と思った点。
①『牛頭天王島渡り祭文』の詳細について知ることができたという点。この祭文については、山本ひろ子という研究者も『異神』という著作に取り上げているいうことですが、読んでいないのでわかりません。
②千葉大学構内に牛頭天王の祠があるとのこと。川村湊さんは妙見信仰と牛頭天王信仰の共通点(「反天皇」・「星座信仰」)という点に触れ、妙見信仰の拠点、現在の千葉一帯においても、妙見信仰と習合して牛頭天王信仰が広がったと考える点。
③伊勢神宮外宮の『伊勢天文本神楽哥』の存在について。「てんわう(天王)」「はりやさいちょ(はりさいぢょ=牛頭天王の妃)の言葉がでてくるということ。
④武塔の神と朝鮮文化・朝鮮語との関係についてなどなど・・・・。

問題点と感じていること。
1.学問上の著作の場合、あくまでも、実証文献を出し、最後に「考察」(作者の分析・想像)を描く。事実と想像がごっちゃまぜだと理解しにくい。

2.蘇民将来について、蘇民符が長岡京跡から出土したとのことで、「蘇民信仰の古さが実証された」と考えるのは早急すぎると発見当時言われていました。遺跡に、後世のものが入り込んだのではという想像がなされていたから・・・・。こういう想像を除去するためには、「科学的に」当時の物か機器をもって「化学分析」することです。奈良の国立博物館蔵の『辟邪絵』についても同様で、平安末期の物でなく後世の物と主張する学者もいたようで、そうであるなら、紙質・文字の墨・文字の字形などの化学分析が必要。こういう分析結果について、知らないのはわたしだけとは思いませんので、「学」を云々する立場の人は分析結果について語りながら書いてもらいたい気持ちです。今後の考古学・民俗学・歴史学などは、「化学分析」なくしては成立しないと考えます。そういう分析方法をも取り入れたり、学生に教えたりする講座をもうけていない大学の歴史学・民俗学・考古学なんぞ「偏見の養成」と思われてもしかたないでしょう。

3.スサノヲノミコトについて、『古事記』におけるスサノヲは「荒々しい」「すさぶる(すさまじい)」神様。しかし、「本家」の出雲においては、『出雲風土記』をみればわかりますが、「おとなしい」「踊りの好きな」「農業の神様」。また、古代朝鮮語は日本語と著しく近い語で、「ス」は「素敵」「素晴らしい」の「ス」で「サ」は「砂鉄」を指すと唱えている学者もいるのです。この論に基づくと「スサノヲ」は「素晴らしい鉄器をつくるおとこ」となるでしょう。要するに「製鉄技術を持って農機具やかんがい工事の道具をつくることのできる人」という意味で、個人名ではなく「高度な技術者」を指すということ。こういう多方面の見解も取り入れて論を進めてもらいたい所です。

4.妙見信仰と牛頭天王信仰との「緊密性については着眼点は「面白い」とは思うけど、牛頭天王信仰を「天刑星の星座信仰」とするのは武士階級・庶民階級の共通認識になったとは思えないので、無理があると思います。むしろ、「蛇毒気神(だどくけのかみ)」が御子になったり今御前になったりしている古文書から、ヘビ信仰との緊密性を述べた方がいいと思われます。「正室はりさいめ」の父君は龍王であるところからも・・・・・。

5.共通認識(4)のことからも、学問的には「祇園信仰」と「牛頭天王信仰」を別にして考えた方がいいでしょう。もちろん近世においては「祇園信仰=牛頭天王信仰」ですが・・・・。


 芸の道も厳しいですが、学問の道も厳しい。想像でウダウダ言うだけでは済まないからです。多方面の文献・遺跡・科学的解析をとおして「実証性」を高め述べねばなりません。
 その上、今は放射能との闘いがあります。「真理」を探究するということは、身を挺する覚悟も出てきます。・・・・・・・
 民間人が検査した結果、東京の土壌放射能800ベクレル/kgを超えるとのこと。理科系大学や公的機関ではほとんど土壌そのものを測定していません。「真理」に触れたくないのかもしれません。21世紀科学技術が発達しているのにそれをつかい科学的に分析し、判断し、行動しようとしない大学や公的機関の実態があります。
 牛頭天王信仰をいろいろな角度からとらえ論じたり信仰したりするのは自由。その時、自由の「重み」も加わるということを忘れてはならないでしょう。
 牛頭天王信仰をとおして「弾圧」にもめげず信仰心を貫いてきた先人の思い・生活を想像しながら、過去を「悔い改め」、今を「偽りなく」生きる、このことが一番大切であり、牛頭天王が一番喜ぶ態度と思いますが、いかがでしょうか。


牛頭天王と牛頭明王

2013-11-26 19:14:54 | 日記

 ある会に出たとき、参加者にお坊さんがいて、これ幸いと、「明王」と「天王」の違いを聞きました。さずがお坊さん。すぐに返答。しかもわかりやすい。「明王とは仏教成立後の神様」で、「天王とは仏教前の古代ヒンドゥ教(バラモン教)などの神様」。いやぁ、説明とは、こういうように、簡単にわかりやすくしてもらいたいものと、つくづく思いました。

 すると「牛頭天王」という言い方はまちがいだったのかもしれません。「牛頭天王」は古代インドのヒンドゥ教の神様には見当たらないとのこと。仏教成立前の古代民間信仰に「牛頭神」がいたのかもしれません。そこで、わたしは良質栴檀の採れるガッツ(ゴズ)山脈の山の神と、中国仏教の牛頭馬頭(閻魔大王の眷属)・古代中国の牛神などとの習合によって、「牛頭天王」が生まれたと仮説を立てていますが・・・・。
 埼玉県飯能市の竹寺は発句でも有名な牛頭天王寺院。境内に中国の民間団体が寄贈した牛頭明王像があります。中国人には分かっていたと思われます。仏教成立後の神様ということを・・・・。だから「牛頭明王 」と称したのです。

東京都小平市上鈴木稲荷神社境内須賀神社

2013-11-26 17:55:51 | 日記
上鈴木稲荷神社の境内社須賀神社
  東京都小平市上水本町2-6-14
 
 西武線恋ヶ窪駅か鷹の台駅を降りて国道17号線の方に向かい、上水本町2丁目信号を過ぎて、四つ角一つ手前の細い道を左に入ります。こじんまりした神社ですが、倉庫には御輿3台が並んでいて、2台は大きく、担ぎ手は相当の人数が必要と思われます。地域住民の祭りへの関心が高いようで、高齢化の中にあっても、組織を作り、毎年4月中旬「天王祭」を実施して御輿の渡御を行っているとのことです。東京都内の須賀神社を訪問して「天王祭」と称してお祭りをしている神社はほとんどなかったので、境内社とは言え「天王祭」「天王様」と称してお祭りをしている東京の須賀神社として注目したい気持ちです。
お神輿倉庫


埼玉県東松山市の八雲神社

2013-11-25 04:44:19 | 日記
埼玉県東松山市の八雲神社
 東松山市本町1-5-8



 東松山駅を降りて国道66号線の方に向かい、東松山駅入口信号と上沼公園信号の間(曹源寺向かい)に鎮座。こじんまりした境内ですが拝殿の彫刻が見事な社。また保存されている「大天王御輿」もみごとです。


 ただ、市のはずれに位置しているため、「天王様」に「御旅」していただき、東松山駅周辺にて、7月下旬の土・日曜日に盛大に夏祭り「天王様」をするとのことです。

埼玉県坂戸市の薬師堂・八坂神社

2013-11-24 21:02:56 | 日記
埼玉県坂戸市の薬師堂・八坂神社
 坂戸市元町18
 
 坂戸市の夏まつりについて坂戸市(ほームページ)では次のように説明しています。
「毎年7月中旬の土・日曜日に行われる八坂神社の祭礼で『天王様』とも呼ばれています。一丁目から四丁目・粟生田の5つの囃子は市指定無形民俗文化財に指定されており、保存団体をはじめとし、沿道の人たちが屋台(山車)を引き回し、演奏が行われます。神輿も参加し、夏の風物詩になっています。」
 ところが、駅近くには八坂神社はなく、日の出町信号・元町信号をすぎて、坂戸小学校向かいの薬師堂とその境内の八坂神社を見ました。薬師堂と八坂神社または八雲神社などの旧天王社とが並んで鎮座している場合は少ないので、よかったと思います。境内には稲荷社・馬頭観音石・馬頭尊石などもあります。

 寄進者の団体などを紹介してる板をみますと、多地域からの支援があることが分かります。この地は元町ですが、隣は薬師町です。元はそちらの方が鎮座地で、信仰の中心だったのかもしれません。
 さて、市の説明ですが・・・・。「八坂神社の祭礼」とありますが、坂戸神社に合祀されている「スサノヲノミコト=牛頭天王」を祀っているので「天王様」の祭りを行っているということなのです。ですから正しくは「坂戸神社の祭り」と思われます。


八雲神社の成立・管理の多様性

2013-10-30 22:56:46 | 日記
牛頭天王を祀っていた神社を大別すると
①八坂神社
②須賀神社
③八雲神社
④すさのを神社
⑤広峯神社
⑥津島神社
⑦牛頭天王社
⑧祇園神社
⑨氷川神社
⑩地名を名乗る社と
10の名前があがります。
 東京を例にとると⑤⑧を除いて鎮座していると考えられます。
①八坂神社:練馬の八坂神社・東村山の八坂神社など
②須賀神社:新宿区四谷の須賀神社・浅草橋の須賀神社など
③八雲神社:江戸川の八雲神社・赤羽の八雲神社など
④すさのを神社:北千住のすさのを神社など
⑥津島神社:参宮橋の津島神社・稲城市の津島神社など
⑦牛頭天王社:自性院牛頭天王堂など
⑨氷川神社:南沢氷川神社・沼袋氷川神社など
⑩地名:品川神社・荏原神社など

 
 八雲神社や須賀神社の中には「祇園社(現八坂神社)を勧請」した社があります。にも関わらず、名前を、「八雲神社」「須賀神社」にしたということ。「八坂神社」という名前にはしなかったのです。その理由はなんでしょうか。これは想像でしかありませんが、明治期の宮司・氏子たちの「意識」が大きく関係したのではないでしょうか。「仏教の神様のままであっていい」という「保守」の立場、祇園社本社から離れて「自主運営」したいという「革新」の立場が、違う名前をもたらしたと、わたしは考えるのですが・・・・・・・。
 埼玉の久喜の八雲神社のように天王院(曹洞宗寺院)の中にある社や、所沢の八雲神社のように牛頭天王寺院竹寺(天台宗)の牛頭天王を勧請したという神社もあります。八雲神社の場合、仏教色を残している神社や、地域で管理している神社や、個人宅で管理している神社もあり、成立・維持管理形態は多様です。しかし、氏子・地元の人たちは今でも「天王様」と呼んでいる場合が多いのです。天王様への期待・信仰の強さを感じます。

 須賀神社の場合、それなりの境内を持ち,拝殿・本殿をもった「神社建築としての体をなしている神社」であることが多く、「自主運営」という宮司の「意識」が強く働いたのではないかと、想像していますが・・・・・・・・。新宿区四谷の須賀神社も、浅草橋の須賀神社も、杉並区成田東の須賀神社もお祭りは「例大祭」であり、「天王祭」「天王様」という名前では行っていないようです。ただ世田谷区喜多見の須賀神社では「天王様」と称してお祭りを行っているようです。

東京都鶴川街道周辺の牛頭天王信仰④小野路の旧天王社

2013-10-29 07:58:40 | 日記
小野路城址(城山)の八雲神社
   町田市小野路町736



 小田急線唐木田駅から国道158号へ出て、多摩南野信号まで行き、国道156号を小野路(小野神社)の方向に進みます。「地域整備測量設計」の十字路を右に入り、「まちだフットバス・ならばい谷戸」の表示板のあるところまで行きます。そこからは車では無理。「フット」ですから「徒歩」で進んで行くと表示板がありますからそれを頼り行きます。
 
 途中「小町井戸」(小野小町がつかって病を治したという伝説がある)もあります。さらに前に進むと山頂の小野路城址にたどりつきます。

 山頂には小さなお社があり、「鎌倉八雲神社」「御嶽山神社」の木札が入っていました。「鎌倉八雲神社」というのは以前紹介した、鎌倉の古社、大町の八雲神社(旧牛頭天王社で、『佐竹天王』とも言われている神社)と思われます。この地にいつごろだれによって、祇園神・牛頭天王が勧請されたのか分かりません。
 東京の多摩地域には結構小野神社があります。平安初期小野篁(たかむら)の一族が勢力を持っていたことが分かります。平安中期・後期になると、板東平氏の流れをくむ畠山氏の勢力下となりました。分家は町田の小山田の地名をとって小山田氏を名乗り、現在の川崎市多摩区までを勢力下におき荘園をもったようです。鎌倉初期においては源頼朝の有力御家人として活躍。しかし、北条氏の陰謀により、本家畠山氏の滅亡後、小山田氏直系も滅亡しました。その後、鎌倉時代後期を経て、この地は上杉氏(扇谷家上杉)の勢力下になりました。小山田氏によって祇園神・牛頭天王が勧請されたのか、扇谷上杉氏によって勧請されたのか、江戸時代に入って牛頭天王信仰流行と共に勧請されたのか、分かりません。地形的には城にはもってこいの地。栃木県小山の祇園城のように南北朝期の豪族(武士階級)が城の守護神として祀ったとすれば、扇谷上杉氏かもしれません。

東京都鶴川街道周辺の牛頭天王信仰③稲城大橋の旧天王社

2013-10-28 05:39:59 | 日記
稲城市の下新田の津島神社と押立の島守神社
下新田の津島神社
  東京都稲城市東長沼730

 JR南武線の稲城長沼駅下車。稲城大橋方向に進みます。「ニチイホーム稲城」と「松本病院」のある十字路を右に曲がり「松本病院」を右に見ながら行き、最初の路地を左に入ります。小川を渡ってすぐ左側に鎮座。川沿いです。
小川の流れと周囲の梨畑を見ながらの参拝。のどかです。小さいながらも、氏子は多く、毎年7月中旬「天王さま」のお祭りをしているとのことです。




押立の島守神社
 東京都稲城市押立678
 稲城大橋を多摩川を渡る手前まで行きます。「飯山燃料住宅整備」のある十字路を右に入ると見えてきます。「旧天王社」ということですが「天王祭」「天王さま」としてのお祭りはしていないようです。
 主祭神は天照皇大神・秋葉大神・素盞鳴尊の三神。
 江戸時代までは多摩川は大変よく氾濫していたようで、その氾濫を鎮めるためにスサノヲノミコト(牛頭天王)が勧請されたと思われます。


東京都鶴川街道周辺の牛頭天王信仰②東長沼の八坂神社

2013-10-28 05:29:14 | 日記
稲城市東長沼の八坂神社
 稲城市東長沼1989

  JR南武線の稲城長沼駅か京王線稲城駅か、どちらか下車。稲城市役所を目指します。鶴川街道沿いの稲城市役所西信号と稲城市役所入口信号の間に鎮座。
 拝殿の中に、さらに秋葉社・八坂神社・牛頭天王社の三社がありました。こじんまりとした神社ですが、今もなお牛頭天王を守ってるのでうれしく思いました。お祭りは「例大祭」と称して7月中旬に行っているとのことです。



東京都鶴川街道周辺の牛頭天王信仰①広袴町の神明社

2013-10-27 22:49:33 | 日記
町田市広袴町の神明神社
     町田市広袴町444


 小田急線鶴川駅を降りて鶴川東口信号方向に出て、国道139号線(鶴川街道)を広袴中央信号まで行き右折。広袴会館を過ぎて、行き止まりの手前の十字路を右折すると、「神明社」表示の石塔が見えてきます。そこを上って100mくらい行くと鎮座しています。徒歩ですと駅から40分から50分かかると思われます。
 神明神社ですから天照大神を祀っている神社ですが、他に、牛頭天王社・山王社・第六天社・金山社・観音菩薩などを合祀。おそらく、付近の村々にあった神社・菩薩をこの地に合祀したと思われます。神社の奥の祠群の文字は「天王社」のみ判別できました。
 多くの木々に囲まれ昔ながらの神社の雰囲気を出しています。由緒書もあり、牛頭天王についても説明してあります。境内はきれいで好感のもてる神社です。






由緒書の一部。

飯田線上伊那郡宮田の牛頭天王信仰

2013-09-04 15:00:31 | 日記

上伊那郡宮田(みやだ)の津島神社
 長野県上伊那郡宮田村3314番地

飯田線宮田駅徒歩5分。飯田方面に向かって左に(宮田小学校方)下車。白心寺のある通りに出て、白心寺を過ぎた所の道を左に曲がり、駐在所を過ぎると、通りの向こうに鳥居が見えてきます。
毎年7月に「祇園祭」を行っています。由緒書にもそのことについて詳しく述べられています。ただ、「京都の八坂神社の牛頭天王を勧請した」のであれば、八坂神社になるはず。何故に宮田村においては津島神社なのでしょうか?調べると、「祇園信仰」と「牛頭天王信仰」の違いなどについてわかるかもしれません。

 
境内社として恵比寿神社があります。


飯田線の水田風景。