浜ちゃんの小豆島写真日記 二代目

特に変わったことのない日常ですが

お遍路さん

2008年06月09日 19時43分10秒 | Weblog
 6月9日 月曜日 

 今日も梅雨の中休みで鬱陶しい、収穫した少しばかりの玉葱を乾燥する為竿にかける。
 ガラコさんよりコメントを戴いている件仁付き小豊島で聞きましたが若い方でばかりで、御父さんの名前、佐長さんをご存知の方は居りませんでした。又お住まいだったと言われる目島でもご存知の人はいませんでした。
 目島では何とゆう家だったでしょうか。
 四海少学校、四海公民館、土庄教育委員会、香川県総合事務所、等で調べましたが校長の名は分かりますが教員の名は分かりませんでした。
 四海中学校をご卒業との事ですが昭和何年か解れば同級生からでも解るとおもいます、小さい時お遍路さんにお菓子を貰ったそうですが、ご記憶のとうりお遍路さんは小江より峠を越えて長勝寺へ来ます。

 借りきりバスで小豆島八十八ヶ所を巡拝しているお遍路さんが長勝寺の参拝を済ませて山門を出るところです。

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6 コメント

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お手数かけました。 (がらこ)
2008-06-12 20:17:48
父は私が5才頃まで小豆島にいましたので、最後が小豊島、竹内さんというお宅に下宿していましたがもうとっくに代替わりで知っている方はいないはずです。盆踊りをしや事や夜になれば浜辺で夕涼みをしたことが懐かしく思う出されます。目島は私自身が小さすぎて覚えていません。でも15年ほど前にそこのお宅にお邪魔しておばあちゃんにお目にかかりました。長浜は、その頃すでに止めておられましたが父の下宿はお風呂屋さんでした。娘さんと一緒に風呂屋番台後で遊びました。私は四海中学は入学も卒業もしていません。いろいろお手数をおかけしました。狭い狭い海峡のことがずっと気になっていましたのでお尋ねしたのです。ありがとうございました。
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追伸 (がらこ)
2008-06-12 20:28:02
なお、父は生きておりましたらとっくに100才を過ぎている年齢です。知って下さっている方や当時の生徒さんご本人がもう相当のお歳のはずです・・・私自身が還暦過ぎたくらいですからね。
小豊島は子ども達を連れて学校の船で訪れました。下宿のおばあちゃんはとっくにおられず、おばさんと親しく話しをさせて頂きました。それも20年以上前のことです。土を掘ればアメリカが出てくると父に言われて一生懸命穴を掘ったそこの女の子も亡くなっていました。
今回はいろいろお話を伺えてとても嬉しい気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
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がらこさんへ ()
2008-06-14 22:13:53
調べましたら風呂屋へ下宿されて居られたことを風呂屋の娘さんもご存知でしたが、番台後で遊んだのは風呂屋の兄さんの子供だそうです。
又四海中学校で先生をしておられた岡先生が2~3年ご一緒だったそうです。
佐長さん(さなが)で尋ねたのでわかりませんでした。
さいきさんでご存知の方は4、5人いました。
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ありがとうございます (がらこ)
2008-06-16 19:13:38
こんなに調べて下さるお手数をかけることになるとは考えもせずに投稿してしまいました。すみませんでした。あの狭い狭い海峡は夢だったのか本当に通ったのか、今も真っ青な海と山の緑が目に浮かびます。小豆島は私にとってずっと思い出の島です。月見草が綺麗に咲いていました。目島から見る海は荒涼としていました。高松側ではなかったからですね。今は全く別の海みたいですが・・・本当にありがとうございました。
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がらこさんへ ()
2008-06-16 21:35:27
ご遠慮する事はありません、私の生きがいと思いブログを始めました。
私も調べていると色々と勉強になりボケ防止にもなり喜んで致します。
思い出す事があればお知らせ下さいできる事はいたします。
今後とも宜しくお願いします。
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良いブログ (がらこ)
2008-06-21 20:00:12
良いブログを発見してとても楽しい毎日です。どんな絵がのっているか、どんなコメントがあるか楽しみです。私が小豆島にいた頃、バスは家の軒すれすれに走っていましたし、小豆島から長浜に向かう峠を切り通しと呼んでいたと思いますが、その道を両親に手を引かれて通った記憶もあります。狭い狭い海峡は多分艀に乗り換えて高松行きの船で通ったのですね。土庄から高松としか考えていませんでしたで。。。。寒霞渓は鎖のある路を両親とえっちらおっちら上りました。頂上も鬱蒼としていましたっけ。今車で頂上に着いてみると面影は無いですね。なにせ60年前ですから。。。セピア色も消えそうです。
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