一生

人生観と死生観

運命はあるか?その二

2008-11-08 15:15:10 | 哲学

11月8日  曇り 
 前回に続き運命の問題、それに強く関連すると思われる神や悪霊の存在の有無について考えてみたい。  これらはある意味で人生の最後の難しい問題であるが、またある意味ではなはだ単純な問題であるという結論にたどり着く。
 人は生まれた時から死ぬ時まで幸せしか知らずに過ごすものはまずいない。本人の周囲の小さなサークルの幸せは長く続かない。社会の動乱が大波のように押し寄せてそれをひっくり返し、もみくちゃにするのである。生きて行くことでさえやっと、という状態が幸せ人にやって来て、彼または彼女は途方に暮れる。それは太平洋戦争後に日本人が実体験したことであった。その中で必死になって生きる道を模索し、成功してよい境遇をつかむものも出た。
 池田勇人の高度成長路線に従って夢中で働いた日本人は国民全体としても豊かな生活を享受するに至った。それが破綻して貧富の格差拡大、ワーキング・プアー層の増加を嘆く今日の世相まで二、三十年、長く見積もっての三、四十年のことではないか。
 しかしわれわれが運命あるいは運不運を考える時、国民や社会全体の問題から入るのでなく、まず個人の問題として捕えるのが普通である。個人としてラッキーな人、逆に個人として不幸な人はいる。どうして彼はそんなに苦しまねばならないのか、わきから見て理不尽に思える人がいるのは事実だ。家族の中で父親が自殺し、子どもは経済的に窮迫するだけでなく、遺伝や心理の圧迫に苦しむことが報告されている。 こうした時運命があると思えば、そしてそれが乗越えられるべき課題と前向きに捕えることが出来れば、その人は救われる。運命をどうにもならない宿命のように捕え、自ら努力を放棄するものは破滅するほかない。前者の捕え方はたとえばキリスト教徒のあるものが告白しているように、母親が精神病にかかり、一家がどん底に沈んだ中で、神に救いを求め、まったく立ち直った人の場合である。何か人生には普通でない境遇の人に一発逆転させる要素があるのである。それは神のあわれみによるとその人は直観する。神はこうした人を放置しないのである。〔続く〕