書の題材にと、久々に島崎藤村の詩集を開きました。
多くの詩人がそうであるように、その情念、表現力、リズム感など、その感性に驚きます。
そのうちの一つ『初恋』を書にしてみました。(半切1/2大)
まだあげ初(そ)めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
薄くれないの秋の実に 人こひ初めしはじめなり
後ろから2行目の原文“紅”を“くれない”としたほか、原文のままです。
こういう漢字と仮名が一緒になった文語体で七五調の定型詩、
「こぼれ松葉を・・・」(佐藤春夫詩 海辺の恋 )(2018.10.1)の時も悩みましたが、
これを書としてどう表現するかは結構難しいものです。
たとえば文字群の塊り(ひいては余白)の構成をもっと自由で大胆なものにしたり、
各行の流れなどももっと自在にしたり、
あるいは相田みつをさん流の表現にする案もあるのでしょうが、
今の自分にはとても出来ません。
そんな中、小さな工夫ではありますが、
同じ仮名字が何度も出てくる“し”や“の”、
あるいは漢字で複数回出てくる“初”、“前”、“花”や“林檎”は
それぞれ違う字形で書いてみました。
“花”、“思ひ”、やさしく”、“秋の実”とかは、それらしい雰囲気の工夫を試みましたが、
こちらは“所詮かなわぬ・・・”(三橋美智也)の話であります。
この試みのもっと根源的な誤りは、傘寿目前の翁がこういう詩を選んだことのようです。
お許し、お笑いあれ。
真ん中の盛り上がりも控えめに表現されたのかと思います。
字形の違いは説明を読むまで分かりませんでした。
若い人が年寄りの心情を理解するのは難しいかもしれませんが、その逆は全く問題ありませんし、老化防止には良いかも知れません。
ブログ作者の御性格でしょうか、柔らく優しい文字の並びにやすらぎを覚えます。
文字への思い、工夫の数々に改めて驚きを感じました。