古稀からの手習い 水彩ブログ

人生の第4コーナー、水彩画で楽しみたいと思います

序破急(古代における日本・ユダヤの関係(後編))

2024-03-11 06:59:35 | 書道
序破急

と書きました。(縦半切1/2大)

下記補記の最後の要約で紹介させていただいている
クロード・レヴィ₌ストロース氏(世界的に有名な社会人類学者)の著書で知りました。
氏は日本文化にも造詣が深く、嬉しくなるような誉め言葉が一杯出てきます。
日本の雅楽についても、
「そのリズムにおいて、曲の中に『序・破・急』があり、
訴えたり憂いを帯びたりする感情をゆさぶる音楽になっています。」とされています。
webサイト幻冬舎ルネッサンス様によれば、
序破急は、もともとは雅楽を構成する三楽章のことを指す言葉で、
序・破・急のそれぞれが
「拍子にとらわれない自由な演奏」
「拍子に合わせたややゆるやかなテンポでの演奏」
「拍子に合わせた早いテンポの演奏」を指しており、
その後、能や浄瑠璃といった伝統芸能の構成にも導入されるようになった、と。

ご飯を炊くときの火加減“はじめチョロチョロ、なかパッパ”しか知らない自分が恥ずかしく・・・。

書道としては、ほんのちょっぴりですが、各字にそれ“らしい”雰囲気を。



[補記]
古代における日本・ユダヤの関係(後編)

今日も長くなります。お許しのほどを!


前回に引き続き、
今回も諸先生(以下のように略称)のご所論を紹介する形で進めます。

「日本とユダヤの古代史&世界史」(田中英道×茂木 誠共著)(ワニブックス)(以下、田中・茂木本と)
ユダヤ側として
ラビ・マーヴィン・トケイヤ―氏(以下、トケイヤ―氏と)
アビグドール・シャハン氏(以下、シャハン氏と)、
クロード・レヴィ₌ストロース氏(以下、ストロース氏と)


目次は下記の通りで、今回の後編は
〇古代日本・ユダヤの関り(主に田中・茂木本から)の
△徐福、秦氏、蘇我氏(第3波~第5波)からです。

目次
(〇 △ ☆  ◇の順です)

 〇三者(田中・茂木本、トケイヤー氏、シャハン氏)の論点の特徴

 〇古代日本・ユダヤの関り(主に田中・茂木本から)
△「5波にわたるユダヤ人の渡来」
△縄文時代の日本文明とユダヤ人の渡来(第1波)
☆縄文時代にあった「日高見国」
☆出エジプトと第1波、スサノオと出雲
☆神話の「出雲の国譲り」は天孫降臨や神武天皇即位より前に
  ☆縄文後期に寒波が到来、民族の大移動(東から西へ)
△日本の建国神話と失われた10支族(第2波)
 ☆シャハン氏が最も断定的
☆トケイヤー氏の所論
☆田中・茂木本、特に田中氏の説として
 ◇二つの天孫降臨
 ◇二人の神武天皇
△徐福、秦氏、蘇我氏(第3波~第5波)
 
☆徐福伝説(第3波)
◇徐福の渡来伝説
◇始皇帝にもユダヤの血が?

☆秦氏と巨大古墳時代(第4波)
 ◇渡来の経緯
◇秦氏が残したもの
◇トケイヤー氏の秦氏の見方
◇シャハン氏の秦氏の見方

☆キリスト教・ネストリウス派としての蘇我氏(第5波)

 〇ユダヤ人が日本に定着した(できた)理由と彼らの弱点と残された謎
△定着した(できた)理由
△彼らの弱点
△残された謎

 〇「世界における日本文化の位置」(ストロース氏の講演)(小要約に代えて)

表記の仕方:同一対象であっても呼び方が違う場合もありますが、原則的には引用する著作で


 前回記しましたが、ユダヤ人の渡来の波は次の通りです。

第1波  BC13世紀  出エジプト|縄文時代・日高見国・スサノオ
第2波 BC722年以降 アッシリア捕囚と失われた10支族|日本建国
第3波 BC3~2世紀  秦の始皇帝・徐福と3千人|秦氏各地に渡来
第4波  3~4世紀   弓月国から秦氏2万人|応神天皇が受入れ
第5波  431年以降 エフェソス公会議・ネストリウス派|蘇我氏
(「日本とユダヤの古代史&世界史」(田中英道×茂木 誠共著)p47から)

・・後編の本論に入ります・・

△徐福、秦氏、蘇我氏(第3波~第5波)
☆徐福伝説(第3波)
◇徐福の渡来伝説
・2012年、亡母の供養で帰省した折、縁者(弟の嫁さん)の実家の近く(佐賀市諸富町)で
この徐福の記念碑を初めて見ました。
その後深追いはしませんでしたが、何となく記憶に残っていましたところ、
今回古代の日本とユダヤの関係を調べる中、「田中・茂木本」に
ユダヤ人渡来の第3波の中心人物として徐福が挙げられていました。
・中国では・司馬遷の歴史書「史記」などに記述があるが、日本の公式歴史書「記紀」には記載がなく、
「古史古伝」(江戸後期に国学者等が、それぞれの土地の記憶が濃厚な言い伝えを編纂したもの)には
多くの「徐福伝説」が残されているとのことです。

・先ず中国「史記」には、“徐福が[東方の三神山に長生不老の霊薬がある]と始皇帝に具申したところ、
始皇帝は徐福に、三千人の若い男女と技術者集団に、財宝と五穀の種を持たせ、
東方に向かって船出させた。
三神山には着かなかったが、[平原広沢](広い平地と湿地の土地)で王となり、秦には戻らなかった。”と。
徐福は始皇帝に仕えた方士(医術、占術、天文、祈禱など)であったとのことです。

・一方日本では、実在した痕跡は、北九州(佐賀、福岡)や対馬、済州島などが考えられるが、
滞在したという伝説は青森県から鹿児島県まで20か所以上と。
このように全国に何らかの伝承が残されているということは、徐福の来日というものが、
その後の秦氏の来日に重なり合っているに違いない、とは田中氏。
「徐福」という名前も個人名ではなく、「方士」の称号とも考えられる、と茂木氏。
・徐福伝説が残る個所のうち、富士吉田市の小室浅間神社宮司だった宮下家に伝わる「宮下文書」の中の
「富士文献」は徐福が編纂したと伝わっていると。
そしてこれを根拠に「富士王朝=高天原」説を唱える人たちもいる、とのこと。(茂木氏)
・また中国側の資料「義楚六帖」という仏教書には、
顕徳5(958)年に渡来していた日本人の僧・弘順大師から聞いた話として、
「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱と呼び、その子孫は秦氏である」と伝えている、と。
この『秦氏とある』ことからも徐福もユダヤ系だったとする説を補強する、と田中氏。
徐福たちは“米”を運ぶ役割をやっていたかもしれず、関連する水田の技術や酒の醸造法はのちの秦氏の業績にも重なる。

・尚この徐福の渡来伝説について、ユダヤ側のトケイヤー氏、シャハン氏の著書の、
大見出し、小見出しには見当たらない。

◇始皇帝にもユダヤの血が?
尚、始皇帝もユダヤの血が流れているという説がある。
中国の正史『史記』のなかに“・・・始皇帝の父・荘襄王が敵国で人質になっていた時、
これを助けて秦王に擁立したのが呂不韋という大商人。
彼は自分の愛人を荘襄王のお妃として差し出したが、
彼女はその時すでに呂不韋の子を宿していた・・・”とする一節があると。
その呂不韋の出自が問題で、
呂不韋のヘブライ語の読みがヘブライ語系の男性レヴィの読み方と同一とする説や、
彼は羌族(チベット高原に居住する少数民族で、イスラエル政府の調査機関が10支族の末裔だと主張)の出身、との説も。
⇒これらから始皇帝もユダヤ系だと考えられる、とする説である。

次の「秦氏」に入る前に、キリストの誕生と本格的なディアスポラ(離散)の決定的な始まりに関わる年表が掲載されています。
後述します“秦氏はどこから来たのか?”の由来に関わるものです。

[バビロン捕囚以降の、残った南王国ユダヤ人のその後(田中・茂木本から)

B.Ⅽ. 586年 バビロン捕囚
B.C. 538年 ペルシャ・ギリシャ統治時代:ユダヤ人帰還、第2神殿を再建
B.C 64年 ローマ統治時代 ユダヤ人による自治⇒ローマの属州へ
A.D. 33年  キリスト処刑
A.D.  66年~73年 第1次ユダヤ戦争(対ローマ軍)
A.D. 132年~135年 第2次ユダヤ戦争(対ローマ軍)
 ⇒敗北しユダヤ人の完全追放  本格的なディアスポラ(離散)の始まり
(その後1800年間にわたる)

A.D. 313年 ローマ皇帝によるミラノ勅令でキリスト教が公認される
A.D. 431年 エフェソス公会議で「ネストリウス派は異端」と公式に認定される

☆秦氏と巨大古墳時代(第4波)
◇渡来の経緯
・弓月国(シルクロード上にある都市国家、現在は中国の新疆ウィグル自治区に編入、西がカザフスタン、南がキルギス)から。
平安初期の古代氏族の名簿「新撰姓氏禄」の「諸藩」(渡来系)に、
リーダーたる弓月君は「秦の始皇帝の三世の孫」と書いてあり、したがって「秦氏」と呼ばれる。
仲哀天皇のときに移民受け入れを認めていたが新羅に邪魔され、
次代の応神天皇が新羅に出兵し、彼らを迎え入れる。
新羅に派遣されたのは葛城氏の軍勢で、同氏はユダヤ系とみられる渡来人・武内宿祢の子。

秦氏について三者(田中・茂木本、トケイヤー氏、シャハン氏)ともユダヤ系の人たちとしているが、
そのルーツについては三者違うようです。

・この弓月の国から応神天皇の時やってきた集団について、
田中氏は、第2次ユダヤ戦争で敗れ、エルサレムを追われた・・・本格的なディアスポラ(離散)が始まった時のユダヤの民
としています。
一方、トケイヤー氏は、この秦氏について
佐伯好郎教授の説として“異端と認定されたネストリウス派”と紹介しています。
これに対し田中氏は、応神天皇のご治世は西暦300年代のおわりで、
エフェソス公会議が開かれた431年より前に来ていたことになり
佐伯先生の説は誤りである、と。
シャハン氏は、単に10部族(北王国)の一部としています。

◇秦氏が残したもの
・渡来時期からみれば、秦氏が第4波、ネストリウス派(蘇我氏)が第5波であるが、
秦氏が主に活躍したのは蘇我一族が滅びたあと、大化の改新以降のようです。
それまで続いていたもろもろの争いごとが、
聖徳太子の神仏習合の精神や更に進んだ権現思想のもと、
天皇を中心とした政治を秦氏が支え、秦氏側も日本的な土壌や和の精神を受け入れ同化していった、と。
因みに権現思想は、もともと仏菩薩が衆生を救うために神に姿を変えて現れることをいっていたようですが、
ユダヤに似たとされる修験者(山伏 7~8世紀、奈良葛城山を中心に活動)は、
この権現思想を“あらゆる神や仏という概念は人間が作り上げ”た、とし、
自らも山岳信仰、民俗信仰、神道、仏教、密教の信仰を組み合わせた宗教で修行していたとのこと。
この権現思想は能の世界でも扱われています(演目:嵐山)。

・根拠を京都の太秦(うずまさ)に置き、平安京遷都事業の中心一族として活躍。
応神天皇や雄略天皇から秦氏に与えられていた平安京の土地を、
遷都事業では逆にこれを提供した。
大内裏(天皇在所)の土地も、能の元祖で触れた秦河勝が提供。
また平安京の造営に携わった名簿には秦氏を名乗る者が多数で、資金提供も秦氏から。
「エル サレム」の“エル”は“都”、“サレム(シャローム)”は“平和”、而して「平安京」

・巨大古墳:共に宮内庁が「応神天皇稜」、「仁徳天皇稜」と
比定(確定ではない)している誉田山古墳や大仙稜古墳などの巨大古墳群は、秦氏の業績。
古墳は全国約16万基、兵庫県が最多。
「石」を使った建築・土木、そして運搬の技術力による『大建設の時代』。
合わせて治水事業もなされ、水を水田に引き込みこみ、米の生産も大量に。
他国との交易も栄え、日本が世界と繋がるようになったのも秦氏によるところが大。

・ユダヤ教の痕跡を色濃く残した諸神社の創建
・八幡神社:応神天皇へのお礼のため、のちに秦氏により創建される。
全国規模で、現在全神社(8万~11万社中)最多の神社数(4万社)。
「八幡」は“ヤ”(八で多いの意)“ハタ”(秦)とも読めるし、「ヤハウェ」とも近い。

・稲荷神社:鳥居の朱色はユダヤのお祭りである“過越(すぎこし)”に由来、とする説がある。
 “いなり”のシンボルが狐になるのは神仏習合以降で、それ以前は穀物神の稲魂“イナリ神”。
“INRI”(キリスト磔刑の十字架の上に掲げられた罪状書きの頭文字)という説もあり、この場合はイエスを祀っていることになる、と。
 ・京都の伏見稲荷大社(全国の総本社)の祝詞には次のことが書かれている
“それ神は、唯一にして御形なし、虚にして霊有り”・・・旧約聖書のヤハウェと同じ。

・八坂神社:スサノオが主祭神。
祇園祭の船の形をした山車(だし)は旧約聖書の“ノアの箱舟”を模したもので、
実施する時期も、ノアの箱舟がアララト山にたどり着いた(救われた)7月17日。
ギオンとシオンもダブる。

・酒の醸造も秦氏といわれ、醸造祖神である松尾大社(神社の中で4番目に位置づけ)や
太秦にある秦酒公(はたのさけのきみ)を祀った大酒神社(祭神は他に、何と、始皇帝と弓月の君)などがある。
秦酒公は、雄略天皇に訴えて、各地に分散してしまっていた秦氏の民を束ね直すことを許され、
そのお礼として秦酒公が贈った絹などが朝廷にうず高く積まれたことから
「うつまさ(禹豆麻佐)」の姓を天皇から賜り、太秦(うずまさ)の地名の由来にも。

・能:以下、本項は主に「能の起源と秦氏」(田中英道・大倉源次郎(能楽 小鼓方)共著)によります。
世阿弥の「風姿花伝」には「能の元祖は秦河勝であり、自分はその末裔である」
と明確に書かれているのは前述の通りです。
 ・能の構図は、宗教、宗派を超えて人間の今までの過ちを救っていく物語となっており、
日本という国の形を造り上げるのに貢献している。
 ・能楽の演目は、五番立(ごばんだて)と呼ばれる①神②男③女④狂⑤鬼に分類されるが
「翁」(天下泰平、国土安穏を祈り五穀豊穣を寿ぐ)はどこにも属さず、
神事的なものなので“能にして能にあらず”ともいわれている、と。
 ・演目の中には、
イザナギの国造りを扱ったもの(淡路)や
アマテラスの天岩戸隠れを扱ったもの(絵馬)、
あるいは前述した「権現思想」を強調したもの(嵐山)、
渡来系ユダヤ人とされるナガスネヒコ(神武東征時の最強の難敵)の怨霊を扱った鬼の形相が凄いもの(土蜘蛛)
などがあるようです。
(私もyoutubeで確認しました)

・機織り・着物
 ・弥生時代の服装は、バスタオルみたいな四角い布に穴を開けて首を通し、腰で縛る貫頭式だったのから
古墳の周囲に並べられたのは長袖、長ズボンに。
いわば、ファッションの大変革と。


◇トケイヤー氏の秦氏の見方
・佐伯好郎氏(クリスチャン)の研究によればとし、
4世紀(記紀では2世紀末)、ペルシャ領内の弓月国から日本に渡来したユダヤ人景教徒(または古代キリスト教徒)とする。
(景教徒はネストリウス派キリスト教徒で、イエスは神として祀るべきだが、
マリアは人間だから祀るべからず、と。)
・太秦を根拠(広隆寺が秦氏の寺・・・仏教の寺でなく、景教の寺)に平安遷都で活躍
・神社の中で全国最多の八幡神社の創設
・八坂神社における祇園祭の祭りの内容と実施日
・アブラハム小辻氏(米国モンマス大学教授)のことを紹介
 小辻家は下鴨神社(ト氏によると、8世紀秦氏の一族長を記念して建立、
皇室と最も深い関わりのある神社)の宮司を初代からつとめていたが、
同氏はのちにユダヤ教に改宗した、と。

◇シャハン氏の秦氏の見方
・該当する集団は10部族の一部とする。
・もともと「ハタイ(秦氏)」は「罪びと」と呼ばれていたが、のちに中国全土にその呼び方が拡がった、とし、
始皇帝の実の父は呂不韋という秦氏の商人であることも述べている。
秦氏の応神天皇やその後の天皇の厚遇にも触れ、
日本書紀によれば、として秦氏側の次のような天皇への感謝の言葉(和歌)があると紹介している。
ウズマサハ カミトモカミモ キコエクル トコヨノカミヲ ウチキタマスモ
日本語では意味が分からないが、ヘブライ語では
旅路の力(ウゾ・マサ)が来られた 欠けたるところのない至高の神、至高の神が来られた その栄光はいかほどか 急げ、来られるのだから その名はなんぞ さあ急げ    となる、と。

☆キリスト教・ネストリウス派としての蘇我氏(第5波)
・エフェソス公会議とネストリウス派の流れ
431年開かれたエフェソス公会議(公会議はキリスト教の教義を統一する会議 エフェソスは場所名)で、ネストリウス派は異端であると認定される。
一方、2世紀のユダヤ戦争を起こしローマ帝国に弾圧されたユダヤ教徒の一部が東方へ広がる過程で、
キリスト教(ネストリウス派)に改宗したグループが、
シルクロード、弓月国、満州、朝鮮半島経由で日本に来たのが蘇我氏一族、とされる。
蘇我氏の名前「我 蘇り」はネストリウス派を名乗っているようなもの。
蘇我一族の狙いは、日本で自らの宗派のキリスト教を広めようとすることだった、と。
また聖徳太子が「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれるのは、
太子の母が馬小屋の前で産気づいて生まれた逸話からで、
これは福音書のイエス・キリストの出生エピソードそっくり。
蘇我氏は「聖徳太子を日本のキリスト」にしたかった。
しかし、太子は、元々天皇の皇太子で心は神道、仏教も深く学んでおり、
太子は結局、崇峻天皇を殺した蘇我馬子に暗殺されたのではないか、との田中氏。

・尚、トケイヤー氏は、蘇我氏について、大見出し、小見出しとも見当たらない。
シャハン氏も、大見出し、小見出しとも見当たらないが、
蘇我氏を、大化の改新前の仏教の提唱者として、また当時の内戦の当事者として触れている。



〇ユダヤ人が日本に定着した(できた)理由と彼らの弱点(主に田中・茂木本)と残された謎
△定着した(できた)理由
・渡来したユダヤ人はもともと太陽信仰の民で、東の国、太陽の国の日本は憧れの地だったから。
・もともと帰る国も土地もない彼らに、土地を与えてもらった。
・日本では、世界各国から受けた迫害を受けることなく受容してもらった。
・ユダヤ人にしみ込んでいる処世術・・・少数だけどその国の王や政府をサポートし、
その権力に寄り添う形で力を発揮し、利益を得る・・・正に日本でもピッタリ。
・様々な面での能力の高さ・・・国家レベルのマネージメントから、もろもろの技術能力。
・そして、もともと多神教を受け入れる素地があったから。

△彼らの弱点
・日本に定着したものについては“日本は良かった、素晴らしかった”かもしれないが、
日本には来なかった外国のユダヤ人、それもユダヤ教を唯一絶対の神とする敬虔なユダヤ教徒から見たら
“彼ら日本へ行ったユダヤ人同胞は俺たちを裏切った、ヤハウェを捨てたのか”となる。
・したがって日本に来たユダヤ人については、世界に向かって語れない、
本音は語りたいが建前上語れない・・・という状態になっている、と田中氏。

△残された謎
三種の神器や天皇稜の内部調査、あるいは四国剣山周辺などなど、まだまだ謎は多いようです。
素人なりには、
解明された方がいいのもあるだろうが、謎のままがいいのもあっていいのではないかと。

〇「世界における日本文化の位置」(小要約に代えて)
(1988.3クロード・レヴィ₌ストロース氏の国際日本文化研究―センター(京都市)での講演から抜粋 順序も筆者変更)
[ 同氏は、両親がユダヤ人で当時フランス在住の世界的に有名な社会人類学者、民族学者。神話の研究では不滅の業績を残す。
知の巨人とも。1970年代から80年代にかけ5回ほど来日)。(1908~2009年)]

・・・
(日本文化の特異性)
・・・日本の伝統音楽の音色で、ノイズ(雑音)を西洋音楽では処理されてしまうが、
日本ではこのノイズを利用して間をとったり、リズムにとり入れたりします。
またリズムにおいても、曲の中に序・破・急があり、
訴えたり憂いを帯びたりする感情をゆさぶる音楽になっています。
浮世絵は子供の頃から接してきましたが、線描と色面それぞれを活かした技法はすばらしい。
労働についても、西洋では自我から出発するので、初めに理想を思い描きそれに近づけるように形つくりますが、
日本では、元々あるものを応用したり、活かして作ります。
対象を支配するのではなく、それを活かして引き出そうとします。

日本の精神性とくに自我の考え方で西洋とは根本的に違います。
西洋では、まず自我から出発し回りを取り込んでゆく遠心的なものですが、
日本では、自分と遠いところから出発し、自我は終着点となる求心的なものです。 

日本神話も素晴らしい。
日本の神話は、
他の地域(古代エジプト、古代ギリシャ、古代のその他の欧州、アジア、アメリカなど)に点在したストーリーを
全部日本に集めてきています。
しかも内容が綿密で、構成が豊かで、ストーリーの前後も繋がっています。
日本の神話から現実の歴史への移行がなめらかです。
西洋では、神話の遺跡は無く、神話と歴史に断絶がありますが、
日本では高天原や天岩戸に見るように、雄大な自然と歴史がつながっています。
神話から歴史への移行が自然で巧妙です。
神話を厳密な意味での歴史の導入部にしようとする編纂者たちの意図が分かります。

・・・このように日本文化は東洋に対しても西洋に対しても一線を画しています。
遠い過去に日本はアジアから多くのものを受け取りました。
もっと後になると、日本はヨーロッパから、さらに最近では米国から多くのものを受け取りました。
けれどもそれらをすべて入念に濾過し、その最上部分だけを上手に同化したので、
現在まで日本文化はその独自性を失っていません。
にもかかわらず、アジアやヨーロッパや米国は、
根本から変形された自分自身の姿を日本に見出すことができます。
何故なら今日、日本文化は
東洋には社会的健康の模範を、
西洋には精神的健康の模範を
提供しているからです。
今度は借り手になったこれらの国々に、日本は教訓を与えなければならないのです。





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2 コメント

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Unknown (mori)
2024-03-11 07:31:42
序破急、言われてみれば成程ですね。
心の奥に響く音階とリズムの変化ですね。
ユダヤとの関係、驚くばかりですが、通信・交通の未熟な古代からこの様に文化・習慣の交流があったと言うことでしょうね。
最終的には「日本文化の特異性」「日本神話は素晴らしい」に行きつくのかと思います。
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Unknown (サガミの介)
2024-03-11 08:15:52
いつものように優しく美しい「書」を見せていただき古代史の蘊蓄に文化の癒しをいただきました。
著名な複数の専門家が説かれる学説を作者の視点で纏めていただけたのは有難いです。
ユダヤ人と日本人の風貌は違い過ぎてユダヤ同根説は信じられなかったのですが、スサノオノミコトの八岐大蛇退治や蘇我馬子など複数の絵から異人(西欧人)の雰囲気があるのも経年同化説を加味すれば納得できます。
いずれにしても深い洞察による解説、特に日本人の吸収力と創造力で独自の文化を発展させた実績で、世界に模範を示し、教導すべきであるとの結論は感銘を受けました。
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