石川 博雄(記憶の作り方)Hiroo Ishikawa (How to make the memory)

オイラと妻とチクワ(11歳めす猫)ムギ(9歳おす猫)マメカン(7歳おす猫)二人と三匹のその日暮らしアレコレ

PS(楽しかった)

2010-01-22 | 独り言

http://www.emi-ichikawa.com/

 上記の友人のブログでの交流は楽しかったなぁ・・・

 

写真は複写ですから、心情も感情も何も人間が持っている心の動きは写らない。

でも時々写ったような錯覚をする写真が出来上がるときがある。

あくまでも錯覚ですよ。  錯覚です。

原則的に絶対写らない。

写真の友人のブログをのぞいたら、心が写らないならアナタはどうして写真を撮っているの?

と問うてあったので、反論ではないが、オイラの写真に対する基本的な考え方。

 客観的にみて写真は、感情やら心情は写らないと思う。

街の写真を撮れば、そこには記録となる過去の街が印画紙に再現されて街の記憶となる。

シャッターを切った写真家の感情や思い込みなどは、自分が内臓しているだけで、写真から第三者が読み取ることは出来ない。

もし心が写っていたとしても消費される時間の中で残酷にすりつぶされて消えてゆくだろう

でも写真はコミニケーションのきっかけにはなる。

写真が遠い昔や遠い土地へ一瞬にして連れていってくれる。

じゃぁオイラは何故 写真を撮っているかということですが、正直言って分からない。

目的もなく、写真を撮っている、どうしてなんでしょうね不思議です。

写真は人生ですという抽象的な哲学的なごまかしの言葉で喋れば、一番いいのでしょうが?

正直にいって分からない。

何でも写真に撮りたいと感情はわきあがってくるのです。

腹が減ったからご飯を食べると一緒ですね。

何でも撮りたい全てのものを撮りたい。

版画家 清宮質文が「作品が見ている人の心の中にオバケが出てくるような作品を作りたい」と言った。

オイラは、このオバケという言葉が好きだ。

ザワザワとして心をぐっとつかんでくれるオバケが出てくるような作品を作りたい。

言葉だけなら なんでも言えるぞ!

そうなんです。でもこういう議論は好きです。

この記事についてブログを書く
« Closed | トップ | 1月23日(土) »
最新の画像もっと見る

独り言」カテゴリの最新記事