*テレ朝『スーパーモーニング』では最近、秋田の事件の鈴香容疑者が高校時代に受けた「いじめ問題」を連続して取り上げている。その事件はかつての、一部教師までもが参加した例の『お葬式ごっこ』と同じ時代に起きた。
番組は鈴香容疑者が「卒業文集」でクラス半数の同級生から「いじめ」そのものの書き込みをされた原因が、彼女の高校2年生のときのクラブ遠征費盗難事件にあることを突き止めた。数万円というその金を盗んだ彼女は周囲の者たちに食事を奢り、「そんなお金どうしたの?」と聞かれれば「おじさんから貰った」のだと答えていたが、やがて彼女の「犯行」が発覚して彼女は停学処分、学校に戻ったときにはいじめが待っていたというのである。不良グループの「パシリ」をしていたという彼女は金を盗んでまで仲間の歓心を買おうとしたというのだろうか。グループの方では彼女を仲間とは認知していなかったという元同窓生の証言も番組は紹介した。
尤も彼女へのいじめは小学校時代から続いていたようで、彼女の小学生時代のあだ名は「心霊写真」だったという。
高校側は事件を「犯罪」として処理せず、無論公的に彼女が部費を盗んだなどと明らかにしたわけでもなく、彼女の停学理由も一般生徒や父兄らには伏せられたままだったというから、要するに「臭いものには蓋」で通したわけであり、そうであるからには、復帰後の彼女に対しては細心の配慮がなされて然るべきだったが、学校は何ら有効な手立てを打たなかったため、結果として事件は隠微な形で徐々に滲み出すように露見し、ついには「卒業文集」の強烈ないじめの書き込みにまで誘導されて行ったというのが事の顛末である。
Bad news runs fast. 悪事千里を走る。私たちは本当にげすな存在であって、自分のことは棚に上げて、他人の不祥事は大好きな生き物である。
学校側は卒業文集のこの書き込みも(黙認したのか見落としたのか)そのままノーチェックで印刷に回してしまったのだから、彼らは教育の場でいったい何をしていたのだろうか?
陰惨で卑劣ないじめを放置しておいて、微積分がどうの日本史がどうのと日々御高説を垂れることのどこが教育だと言うのか?
いじめについての局側の取材に対して学校側は一貫して「古い話なのでわからない」と、まるで「古い話を蒸し返されては迷惑だ」と言わんばかりにそらっとぼけていたのである。
いじめ問題に対処するノウハウが当時のその学校には皆無だったのか。
(で、今は?)
「ムラ社会」に有り勝ちな一種「村八分」だったのか。
苛められる子らは、ムラ構成員全員の宥和を齎すために必要不可欠な贖罪羊なのか?
「死んでしまえ」「二度と秋田に戻って来るな」「東京には来ないでね」「今度会ったら殺す」 将来は「自殺」するか「殺人」「詐欺」を犯すだろう云々。これらの「集団リンチ」「私的制裁」とも言うべき書き込みをした連中にも取材は及び、彼らの言い分は「当時はそれが当たり前だった」などと概ね「遊び感覚」であって、既に自分が書き込んだことを忘れ去っていた者もいた。
私自身は幸いにも青少年期にそういういじめを受けたこともないし、逆に苛める側に加わったこともない。仮にもし私が同級生らに「自殺しろ」とか「殺してやる」とか毎日言われ続けたらどうしていただろう。気の弱い子が転校も適わぬまま「パシリ」などさせられ続けていたらその子の人生はそこで大きく躓くのではないか?
私だったら恐らく「座して死を待つ」ことなどさらさらなく、合法・非合法のあらゆる手段を駆使して卑劣な連中に一矢報いることを選んでいただろう。結果私自身がそこで破滅してしまった可能性も大いにあったと思う。
「いじめる側には苛められた者の受けた痛みや傷はついに伝わることはないのだ」と仮に今私が言えば「いや、苛められた経験のある子が何かの拍子に一転していじめを加える側に身を置くのである」といった反論が出るだろう。その辺が苛め問題の入り組んだ構造である。誰でもそんな苛めは受けたくない。義侠心やヒューマニズムで苛めを受けている子を庇ったりすれば今度は苛めの鉾先がその子にではなく「ええかっこしい」の自分に向けられてしまいかねないという、誰一人救われる者のいない酷い話である。「我が身可愛さ」が先に立ち、決して本意でなく苛めに加わってしまった者たちの寝覚めはさぞ悪かったろうと思う。忌まわしい過去を忘れ去り消し去ることによってしか彼らは救われないのではないか。
部外者が「勇気をもって道理を通せ」などと鼓舞してみたところで、当事者にしてみれば「そんな勇気は犬にくれてやる!」と叫びたいかも知れない。
企業や官庁の「内部告発」にしても同様の心理が働くのだとすれば「閉じられた社会」では畢竟何でもありということだろうか。
寄らば大樹の陰。
戦後日本人は腑抜けにされてしまい、小泉・ポチの「米軍は解放軍だ!」発言に顕著なように「忠米」一本でここまでやって来た。我が国に原爆を2発も見舞ってくれた極悪非道な殺戮者たちを礼賛して已まないこのお調子者を、我々が「野太鼓」だと呼んでどこに差し障りがあるだろう。
善悪は二の次にして取敢えずは大勢に従いながら様子を見よう。
弱い奴の味方なんてしていると自分まで弱者扱いされてしまうからな・・。w
============
日銀福井、オリックスの宮内、村上、ホリエモン、竹中然り、頭目は勿論小泉・ポチと、彼らはみんな仲間内でやっている言わば「勝ち組連合」であって「みんなで稼げば怖くない」と吹きまくっている連中なのである。
福井なんぞは東大卒のエリート官僚にはポンと1,000万円の「応援」をするが、中小零細の今にも倒産しそうな「何の工夫もない」工場のおっちゃんには1円も出す気はないのである。
福井は地方都市の所謂「シャッター商店街」を一度でも歩いたことはあるのか。竹中の地元=和歌山、小泉の地元=横須賀、ホリエモンの地元=佐賀・・地方都市は今ことごとく疲弊し切っている。雀の涙程の僅かな資金の遣り繰りがつかず人も雇えず仕方なしに店を閉めている商店が如何に多いか、あのアホはわかっているのだろうか?
苛めと拝金主義と忠米には通底する思想がある。「長いものには巻かれろ」という処世術は今やどこか不見識で不純な汚臭が付き纏うように思う。
最後に話を鈴香容疑者の窃盗事件に戻して大胆に極言してしまうけれど、たかが数万円の窃盗など(!)時間を置いて振返ったときには「あれは単なる出来心だったんだよね」と笑い話にしてしまうこともあるいは可能かも知れないが、いじめにはそういうお気軽な言い訳は許されないし許されるべきではないと私は思っている。
「いじめという基本的人権をターゲットにした人格攻撃はれっきとした集団犯罪である」という厳然たる意識(テーゼ)をもって関連法を整備すべきと思うが如何?
番組は鈴香容疑者が「卒業文集」でクラス半数の同級生から「いじめ」そのものの書き込みをされた原因が、彼女の高校2年生のときのクラブ遠征費盗難事件にあることを突き止めた。数万円というその金を盗んだ彼女は周囲の者たちに食事を奢り、「そんなお金どうしたの?」と聞かれれば「おじさんから貰った」のだと答えていたが、やがて彼女の「犯行」が発覚して彼女は停学処分、学校に戻ったときにはいじめが待っていたというのである。不良グループの「パシリ」をしていたという彼女は金を盗んでまで仲間の歓心を買おうとしたというのだろうか。グループの方では彼女を仲間とは認知していなかったという元同窓生の証言も番組は紹介した。
尤も彼女へのいじめは小学校時代から続いていたようで、彼女の小学生時代のあだ名は「心霊写真」だったという。
高校側は事件を「犯罪」として処理せず、無論公的に彼女が部費を盗んだなどと明らかにしたわけでもなく、彼女の停学理由も一般生徒や父兄らには伏せられたままだったというから、要するに「臭いものには蓋」で通したわけであり、そうであるからには、復帰後の彼女に対しては細心の配慮がなされて然るべきだったが、学校は何ら有効な手立てを打たなかったため、結果として事件は隠微な形で徐々に滲み出すように露見し、ついには「卒業文集」の強烈ないじめの書き込みにまで誘導されて行ったというのが事の顛末である。
Bad news runs fast. 悪事千里を走る。私たちは本当にげすな存在であって、自分のことは棚に上げて、他人の不祥事は大好きな生き物である。
学校側は卒業文集のこの書き込みも(黙認したのか見落としたのか)そのままノーチェックで印刷に回してしまったのだから、彼らは教育の場でいったい何をしていたのだろうか?
陰惨で卑劣ないじめを放置しておいて、微積分がどうの日本史がどうのと日々御高説を垂れることのどこが教育だと言うのか?
いじめについての局側の取材に対して学校側は一貫して「古い話なのでわからない」と、まるで「古い話を蒸し返されては迷惑だ」と言わんばかりにそらっとぼけていたのである。
いじめ問題に対処するノウハウが当時のその学校には皆無だったのか。
(で、今は?)
「ムラ社会」に有り勝ちな一種「村八分」だったのか。
苛められる子らは、ムラ構成員全員の宥和を齎すために必要不可欠な贖罪羊なのか?
「死んでしまえ」「二度と秋田に戻って来るな」「東京には来ないでね」「今度会ったら殺す」 将来は「自殺」するか「殺人」「詐欺」を犯すだろう云々。これらの「集団リンチ」「私的制裁」とも言うべき書き込みをした連中にも取材は及び、彼らの言い分は「当時はそれが当たり前だった」などと概ね「遊び感覚」であって、既に自分が書き込んだことを忘れ去っていた者もいた。
私自身は幸いにも青少年期にそういういじめを受けたこともないし、逆に苛める側に加わったこともない。仮にもし私が同級生らに「自殺しろ」とか「殺してやる」とか毎日言われ続けたらどうしていただろう。気の弱い子が転校も適わぬまま「パシリ」などさせられ続けていたらその子の人生はそこで大きく躓くのではないか?
私だったら恐らく「座して死を待つ」ことなどさらさらなく、合法・非合法のあらゆる手段を駆使して卑劣な連中に一矢報いることを選んでいただろう。結果私自身がそこで破滅してしまった可能性も大いにあったと思う。
「いじめる側には苛められた者の受けた痛みや傷はついに伝わることはないのだ」と仮に今私が言えば「いや、苛められた経験のある子が何かの拍子に一転していじめを加える側に身を置くのである」といった反論が出るだろう。その辺が苛め問題の入り組んだ構造である。誰でもそんな苛めは受けたくない。義侠心やヒューマニズムで苛めを受けている子を庇ったりすれば今度は苛めの鉾先がその子にではなく「ええかっこしい」の自分に向けられてしまいかねないという、誰一人救われる者のいない酷い話である。「我が身可愛さ」が先に立ち、決して本意でなく苛めに加わってしまった者たちの寝覚めはさぞ悪かったろうと思う。忌まわしい過去を忘れ去り消し去ることによってしか彼らは救われないのではないか。
部外者が「勇気をもって道理を通せ」などと鼓舞してみたところで、当事者にしてみれば「そんな勇気は犬にくれてやる!」と叫びたいかも知れない。
企業や官庁の「内部告発」にしても同様の心理が働くのだとすれば「閉じられた社会」では畢竟何でもありということだろうか。
寄らば大樹の陰。
戦後日本人は腑抜けにされてしまい、小泉・ポチの「米軍は解放軍だ!」発言に顕著なように「忠米」一本でここまでやって来た。我が国に原爆を2発も見舞ってくれた極悪非道な殺戮者たちを礼賛して已まないこのお調子者を、我々が「野太鼓」だと呼んでどこに差し障りがあるだろう。
善悪は二の次にして取敢えずは大勢に従いながら様子を見よう。
弱い奴の味方なんてしていると自分まで弱者扱いされてしまうからな・・。w
============
日銀福井、オリックスの宮内、村上、ホリエモン、竹中然り、頭目は勿論小泉・ポチと、彼らはみんな仲間内でやっている言わば「勝ち組連合」であって「みんなで稼げば怖くない」と吹きまくっている連中なのである。
福井なんぞは東大卒のエリート官僚にはポンと1,000万円の「応援」をするが、中小零細の今にも倒産しそうな「何の工夫もない」工場のおっちゃんには1円も出す気はないのである。
福井は地方都市の所謂「シャッター商店街」を一度でも歩いたことはあるのか。竹中の地元=和歌山、小泉の地元=横須賀、ホリエモンの地元=佐賀・・地方都市は今ことごとく疲弊し切っている。雀の涙程の僅かな資金の遣り繰りがつかず人も雇えず仕方なしに店を閉めている商店が如何に多いか、あのアホはわかっているのだろうか?
苛めと拝金主義と忠米には通底する思想がある。「長いものには巻かれろ」という処世術は今やどこか不見識で不純な汚臭が付き纏うように思う。
最後に話を鈴香容疑者の窃盗事件に戻して大胆に極言してしまうけれど、たかが数万円の窃盗など(!)時間を置いて振返ったときには「あれは単なる出来心だったんだよね」と笑い話にしてしまうこともあるいは可能かも知れないが、いじめにはそういうお気軽な言い訳は許されないし許されるべきではないと私は思っている。
「いじめという基本的人権をターゲットにした人格攻撃はれっきとした集団犯罪である」という厳然たる意識(テーゼ)をもって関連法を整備すべきと思うが如何?
いじめに関する意識皆でを高めよう!
いじめに関する意識を皆で高めようと思いつき、関連記事で共鳴する内容のものにTBさせて頂きました。。
今後共、宜しくお願い致します。
文中でも指摘しましたが、拝金主義・長いものには巻かれろという奴隷根性(?)等現在のこの国を蝕んでいる病魔と無縁とは到底思われません。