本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

Sigrid&Ingegerd.

2015-04-29 11:46:40 | 世界
 SigridもIngegerdも私が中学生時代に海外文通していた相手の名前である。どちらも私と同年の女性で、Sigrid Wagnerはドイツ人、Ingegerd Selmamnはスウェーデン人だった。明け方甲子園球場の観覧席で古本屋のおじさんに漫画本を売る交渉をしている夢を見ていて、夢から覚めるとすぐ、何故かこの二人のことを思い出したわけである。
 お名前の読みだが、正確な読み方は今も判らない。ドイツ語もスウェーデン語も知らないからだが、Sigridはジーグリート、Ingegerdはイネール辺りではないかと当時は勝手に見当をつけていた。イネールというのはスウェーデン出身の往年の米女優『イングリッド・バーグマン』というのは実は『英語読み』で北方系特有の『修飾文字』までをも発音しているのだと、これは当時の英語教師の教えを受けてのことである。

 当時は金の続く限り世界中あちこちの同年代の男女と英語で文通していた(勿論航空便だ)が、このお二人との交際が一番長続きした。お互いの写真やプレゼントの交換もして我ながら「よくやったもんだ♪」と今でも感心するが、高校に入ってからは『大学入試の勉強がある』などと勝手に理由付けして、私の方からコレスポンデンスを「I must stop!」だと一方的に打ち切った。今想えば「勿体ないことをしたなぁ!」としか思えない。

 ドイツの女の子はこちらが恐縮するくらい几帳面な手紙を毎回くれた。当時ビートルズが上陸したハンブルグの人だったから、ドイツで売り出されたビートルズのドーナツ盤を(但し船便で)何枚も贈ってくれた。手紙の遣り取りだけはエアメールだったが、それも航空便専用のトレーシングペーパーのような薄い便箋を使ってやっていた。プレゼントの交換は重量が嵩むため、我々の小遣いでは負担がかかり過ぎたからである。それらドーナツ盤は日本ではまだ発売もされていなかった曲が豪華なカップリングで収まったものだったが、彼女が「ビートルズを知っているか?欲しかったら送るけど欲しいか?」と訊いて来たので私は一も二もなく「欲しい!」と応えたのだった。あれらは今考えても歴史的価値の高いものだったが田舎を出るとき餞別代わりに友人に上げてしまった。私は他にもニューロックのLPレコードを(これは京都を出るときだが)喫茶店の雇われマスターに何枚も置き土産であげてしまったことがある。レコードを上げるのだったらもっと親しい人、世話になった人もいたのだが、なぜだかそのマスターにしたのである。
 要は『モノには拘泥しない、こだわらない』人間を自作自演するタイプだったのである。

 私からは彼女にこけし人形や扇子をやはり船便で送ったが、彼女からはドーナツ盤5~6枚と雑誌の切り抜きを貰ったことくらいしか覚えていない。ビートルズが強烈過ぎたからである。

 「兄は日本のガールフレンドに会うため船で働きながら日本へ行ったのに、貴方はなぜ私に会いに来てくれないのか?!」と詰問されたこともあった。私が返答に窮した辺りから我々の間に一種の隙間風が吹くようになったのだと思う。几帳面に清書された返信をコンスタントに返してくれた彼女があるとき、半年程返事をくれなかったときがあった。ドイツ国内南部を友人と旅行していたのだと彼女は書いて来た。相手が男か女かも書いて無かった。彼女の全身像の写真も添えられていた。「誰が撮ったんだ!?」と私は疑った。しかもその文面はそれまで見たことも無かった程乱雑に書かれていたのである。(乱雑とは言っても「彼女にしてみれば」という意味だ。)

 あっ、男が出来たんだ!?

 と私は直感し嫉妬に狂ったのではないか。そしてこれが私が文通を辞めた本当の原因だったのではないかと、今は推定している。こうして彼女との付き合いは文通が終わったときに停止してそのまま途絶えたが・・・。

 一方《ナンバー2(失礼!)》だったスウェーデンの👩女性とはどうだったかと言うと、彼女との文通で覚えているのは彼女が贈ってくれた彩色された小さな手作りの人形以外では、御自身とのプレゼントの交換ではなく、彼女のお父さんが切手の収集家だというので、矢鱈沢山の日本の未使用記念切手を送って上げたことである。お父さんが送ってくれた切手は使用済みの切手ばかりだったが、それもあるとき友人に上げてしまった。
 
 ところが彼女との文通を打ち切ったその後十年近く経ってから、偶然?私たちは再会(⇦初対面だったが)を果たすことになった。彼女が当時私の勤務していた京都の『凱旋門』というサパークラブ迄会いに来てくれたからである。

 この経緯も以前何処かに書いている。彼女は当時フランスで秘書をしていて、南仏ニースの海岸で水死した日本人ボーイフレンドの霊を弔うため来日し、九州の彼の生家へ行く途中京都へ寄ったのである。
 彼女から私に宛てられた手紙はまず私の昔の実家へ送られたが、当然私はもうそこには住んでいないから次には私の東京の実家に転送され、そこにも住んではいないため最後に当時の京都の職場に送られて来たのである。私は厨房で働いていたからそこの主任(お爺さんだった)に頼んで事情を話し「一時外出したい」と申し出たが、主任は「水臭いやないか。ここへ呼んだらええやないか♪」と言われて(渋々?)彼女ともう一人彼女を日本で接待している日本人の男性の二人を2Fのラウンジへ招待したのである。と言っても二人に出したのはコーヒー一杯ずつだけで、話もろくにしなかった。彼女を連れて来た男とは(彼らはフランスでの共通の仲間だったが案内人は「突然押し掛けられて困っちゃいますよ♪」と彼女の面前で笑って嘆いて見せた)互いにウマが合わなかったからだ。
 東京の弁護士の息子だという彼はスナックの従業員たちを何の理由もなく下に観ている傾向が顕著で、「おフランスに遊びに行ったのがそんなに偉いのか?!」と言ってやりたいくらいの「にやけ切った」ボンボンだった。「彼女が今はこんな人間関係の中に居るのか」と思って私の方が寧ろ引いてしまったのである。

 彼女のボーイフレンドがコートダジュールでヨットに乗っていて溺れて亡くなったことを、私はこれも偶然だが一般新聞の小さなコラムで目にしたことがある。勿論それが彼らと付き合いのあった人間であった事などは彼らから手紙を貰って初めて知ったわけだ。
 あ、そう言えばその弁護士のドラ息子は別れ際、私と彼女を並ばせて写真を撮ってくれたのはいいが、その写真をすぐ送ってくれると言っていながらそのまま梨の礫だった。写真は一向に来なかったから、結果彼らとの付き合いもそれっきりになってしまった。
 私は彼が約束を守ることを前提としていたから、彼女のフランスでの住所は敢えて訊かなかったのである。迂闊と言えばその通りだった。

 というわけで、出逢いもあれば別れもあるのが我々の長くて短い人生なのサ♪という一席でした。お後がよろしいようで。テケテンテン・・・♪
画像



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。