秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

母子像が不動明王とは、これいかに

2013-02-08 | 古代史のミステリー
久美浜温泉湯元館に泊まった翌朝、温泉つかって朝食までまだ時間があった。
近辺を散歩することにした。

湯元館すぐ横を流れる佐濃谷川


不動橋を渡ると、

対岸に平屋の湯元館が見えます。

ほんのすぐ近くに祠が見えました。



鳥居がないけど、階段を上がると境内らしき広場があり、
奥に祠二つが並んでます。
なんか不思議な空間ですが、気味が悪いとか怖い感じはなかった。





右手

水無月大神宝と書かれてあるように見えます。
中をのぞいてみると、家庭で神様を祀るサイズの祠が中央に置かれてました。

いったい水無月とは何なんでしょう?
舞鶴や、与謝野町、養父市などに水無月神社がありました。
久美浜にも矢田八幡神社があり、境内摂社に水無月神社で祭神月読命だそうです。

左手

大聖不動明王、と書かれてあるように見えます。

中をのぞくと石像三つ、中央に童と母親の母子像。


なんで母子像が不動明王なんだろうと、ものすごく気になりました。


不動明王って、だいたいは後ろに火炎をしょってて怖い顔して睨んでおられます。

宿に戻ると玄関で現地のおじいさんに出会いました。
散歩ですかと声かけてくださったのですが、
先の記事で、湯元館の歴史を語ってくださった方です。


すぐ近くにあるあの祠は何ですかとお尋ねしました。
あれは昔から稲荷神社と言われてるが、地元のものはまず行かないと答えられました。

そうかぁ~ 稲荷 …
ということは、秦氏?


久美浜温泉湯元館の最寄り駅は、北近畿タンゴ鉄道『丹後神野』駅

田道間守(タジマモリ)が垂仁天皇の命を受けて
常世の国に不老長寿の妙薬「香具の実」を探しに出かけ、
帰り着いたのはこの久美浜の箱石といわれる。

その函石浜(はこいしはま)遺跡からは、王莽(おう もう)の貨泉が出土しています。

中国新代(西暦8~23年)西暦14年に鋳造された銅銭の貨幣です。


中央あたり、平田というバス停前に湯元館がありました。

その函石浜は湯元館からすぐ近くです。


久美浜湾には4つの河川が流れていて、
そのうちの佐濃川・川上谷川の流域に谷が形成され、遺跡・古墳もこの流域に集中しているそうだ。

丹後神野駅の次の木津(きつ)温泉駅は、
田道間守が持ち帰った橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」になったともいわれています。

そして木津温泉は京都府内で最も古い温泉で別名「しらさぎ温泉」
奈良時代の僧行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承も残っています。




田道間守は当時但馬の国主で、その勢力は広く山陰、山陽にまで及んだ。
ひいおじいさん?が天日槍(アメノヒボコ)という系図で新羅王家に遡るとか。

*追記
新羅建国はWikiによれば4世紀後半、
その前の三国時代この地域は辰韓の斯蘆国だったようです。


時の天皇、垂仁天皇は、池や水路を整備して農業を振興したり、
はにわを作って殉死をやめさせる等、仁徳の高い天皇で人々から敬慕されたという。

その垂仁天皇に、常世の国の非時香葉(ときじくのかぐのこのみ)を所望された田道間守。
十年後にやっと持ち帰ることができたとき、天皇は身罷られていたのだった。

天皇の墓の前に香葉を献げ、ついに墓前で殉死を遂げるという伝説が残る。
奈良の尼ヶ辻にある垂仁天皇陵の水壕の中にぽつんと浮かぶ嶋が、田道間守を祀った陪塚とされています。

そしてこの殉死を悼み、御所に植えられる「右近の橘」「左近の桜」とあがめられるようになった。

さらに興味深いことに、
田道間守の兄弟の女である気永足姫命(きながらたらひめのみこ)は、
仲哀天皇の皇后(=神功皇后)の母に当たらせられるというのをネット検索で見た。
気永足姫命…息長足姫命と同じなのかな?
神功皇后のお父さんは、息長宿禰王(=気長宿禰王おきながのすくねのみこ)
お母さんは、天之日矛の後裔・葛城之高額比売と古事記には書かれているそうだ。


母子石像といえば、フェニキア人がピンときたので検索したら


BC500年 エトルリアの母子像がヒットした。

ミステリーは深まるばかり…。


コメントを投稿