玄関の下駄箱の上に掲げた大神神社の赤御幣。
厄除け、開運の御幣ですから、年が改まると効力が薄れそうで、毎年節分ごろまでにお参りし新しく賜ってきます。
500円とワンコイン価格もうれしい。
年に2回ぐらいは三輪詣でに行きますが、その都度いろんな方を案内することも多く、そうした方がたいていこの大神神社を気に入り自分で行かれるようになります。
奈良県桜井市、あの天理教本部のすぐ近くです。
三輪そうめんでも有名な場所です。
明日香から天理へと続く古代の山の辺の道を歩かれる方も多いです。
何度もこのブログでは三輪詣でのことを記事にしていますが、
遠隔地の方はなかなか行くチャンスもないかと思われますので、今回は詳しくお伝えします。
電車で行ったことがありませんが、JR桜井線三輪駅で降りてすぐ、桜井駅からはバスも出ているようです。
車なら西名阪の天理で降りて南の桜井方面へ車で15分ほど走ると大きな鳥居が見えます。
JRの線路を越してさらに進むとつきあたりに、二の鳥居があります。
ここからうっそうとした木々に囲まれた参道を歩きます。
この道がたいそう心地よい、空気が違う気がします。
まず祓戸神社で穢れを落とし、手水舎で手を洗い口をすすぎ階段を上がります。
しめ縄奥に見えるのが拝殿です。
大神神社は後の三輪山がご神体なので本殿はなく、この拝殿越しに拝みます。
先だってアズキさんが祈祷で上がらせてもらった所です。
普通は祈祷してもらう時は左手にある祈祷殿で行われます。
私はこの祈祷殿しか上がったことがありません。
最低5000円からで、いつも満員、さぞかしこの神社は裕福だろうなと思われます。
1/24はたまたま信仰深い講員の方々の集まりがあったようでした。
祈祷殿前の斎庭で記念撮影をされていました。
この祈祷殿右手になでうさぎのテントがあります。
普段は祈祷殿中に置かれていますが、お正月は外に出て大勢の方がなでなでします。
この画像は、
2006年1/22 なでうさぎ
さらに左手にくすり道があり、ここから狭井神社へ行けます。
2006年7/2 大神神社
その狭い参道脇に小さな鳥居があり、磐座神社、少彦名が祀られています。
長年三輪さんへはお参りに行っても、あまり気にかからずスルーしてました。
去年ぐらいから目にとまるようになりご挨拶させてもらっています。
三輪山の山頂の奥津磐座に大物主が祀られ、その手前の中津磐座に大国主、さらに手前の辺津磐座に少彦名が祀られているのです。
お正月のしめ縄の記事にも書きましたが、
お正月にお迎えする、各家々に一年の実りと幸せをもたらす五穀豊穣の「年神様」とは、この大物主であることも不思議です。
みんなのご先祖さまとも言われていて、お正月になると、天あるいは高い山の上から降りて皆々のおうちに来てくださるのだと。
御年神(おとしがみ)
大年神と香用比売神(かがよひめのかみ)の間の子とされています。
大年神(おおとしがみ)
素戔鳴尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた子供が大年神(おおとしのかみ)とされています。
大国主命に協力して国土経営をされた農業神であり、稲作・五穀豊穣の神とされています。
大年神と御年神は、神話の系譜では親と子の関係とされていますが、「大」も「御」も神をたたえる語で意味に違いはなく、両神とも基本的に「年神(歳神)」ということなんだそうです。
三輪山に3神が祀られるいきさつは、古事記では以下のように書かれているそうです。
大国主は少彦名と力をあわせ、播磨や伊予・豊後などで国造りを行ってきたが、少彦名命は死んでしまう。
二人で協力して国造りを行ってきた少彦名神がなくなり、「いかにしてこの国を造ろう」と思い悩む大国主命。
そこへ、海を光して神が来て、「よく我が前を治めれば、共に国作りを行おう」
「自分を倭の青垣の東の山の上に奉れ」と言い大国主命の協力者となった。
この神は御諸(みもろ)の山(三輪山)に坐す神である。
古事記は大国主が筑紫から越までに日本海沿岸の国々を統一したことを伝えています。
その翌年か2年後に作られた播磨国風土記は、大国主と少彦名が播磨に進出したことを伝え、
さらに、伊予国風土記などをあわせて検討すると、瀬戸内海の国々をも統一。
そして最後に、大和・山城・近江・紀伊などを支配する大物主一族がこれに協力したと。
大国主と大物主の協力による国づくりが始まりました。
これは、出雲の荒神谷遺跡において、銅剣(銅槍)と銅矛・銅鐸が同時に埋められているのが発見されたことで立証されるそうだ。
出雲において「銅槍・銅矛の祭り」と「銅鐸の祭り」が同時に平和裏に廃止され、新たな祭りが始まったこと
つまり九州・中国地方の「銅槍・銅矛圏」と、近畿地方の「銅鐸圏」を統一する王と宗教が誕生したことを示しているのですって。
崇神天皇の時代、疫病の蔓延によって人民の半数が死ぬという事態が起こり、これは宮中にアマテラスと大物主を祀ることによる祟りだと。
古代、祖先霊は直系の血の繋がった子孫に祀られないと恐ろしい祟りをもたらすと考えられていたからです。
そこでこの2神を宮中から出し、その子孫を捜し出し、祖先の祭りを行わせるようになりました。
神託に従って大田田根子に大物主神を祭らせたご神意の日が、卯の年、卯の日だったので、「卯」をご神縁の日としことのほか大事にされています。
なでうさぎは江戸時代中期から大神神社に伝わるものと、なでうさぎ横の看板に書かれています。
崇神天皇は御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられますが、
和風諡号は、日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。
古事記では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)
磯城(間城)への「入り彦」つまりよそから入ってきた直縁でないということを示すとも考えられています。
よそ者が磯城国=葛城王朝の祖先霊である大物主を祀って恐ろしい祟りを受けたということです。
同時にアマテラスの御霊も宮中から出され、伊勢に祀ってから天皇家が一度も参拝していないのは、天皇家がアマテラスの子孫でないことを示しているという説もあります。