安倍晋三の天皇の永遠性・悠久性を日本国家に見ている超保守的な国家観からの大学国旗掲揚・国歌斉唱の要請

2015-06-17 08:51:26 | 政治


 右翼文科相の下村博文が6月16日、国立大学の学長らを集めた会議に出席、入学式等での国旗掲揚と国歌斉唱を要請したという。

 《文科相 国旗・国歌で適切な判断を要請》NHK NEWS WEB/2014年6月16日 18時08分)    

 下村博文「国旗と国歌はどの国でも国家の象徴として扱われている。国旗掲揚や国歌斉唱が長年の慣行により広く国民の間に定着していることや、平成11年に国旗および国歌に関する法律が施行されたことを踏まえ、各国立大学で適切に判断いただけるようお願いしたい」 

 会議後の記者団に対しての発言。

 下村博文「最終的には各大学が判断されることであり、要請が大学の自治や学問の自由に抵触することは全くない。昔と比べると、国旗や国歌に対する国民の意識も変わってきたと思うので、時代の変化を各大学で適切に判断していただきたい」

 会議に出席していた大学関係者の発言。

 佐和隆光学長滋賀大学「国旗掲揚と国歌斉唱に関する要請にあたっては、国立大学が税金でまかなわれていることが要請の理由ともとれる発言がこれまでに聞かれたが、納税者に対して教育研究で貢献することが大学の責任だ。今回の要請に従う必要はないと思っている」

 山極壽一京都大学学長(国旗掲揚も国歌斉唱もしていない)「『適切に』ということだったので、大学の自治を尊重してくれていると考える。対応はまだ決められないが、これまでの伝統を踏まえて議論する」

 大城肇琉球大学学長「大学ができて65年になるが、日本に返還される前も国立大学になってからも国旗掲揚や国歌斉唱は行っていない。大学改革など優先して取り組まなければならない課題があり、今回の要請にどう対応するかの議論は棚上げにしておきたい」

 大学教育の在り方を研究している日本高等教育学会の会長の発言。

 金子元久筑波大学特命教授「国立大学は国の財政負担の上に成り立っており、『要請だけだ』と言っても、大学を萎縮させる効果を持つだろう。国立大学の法人化は、政府の直接の関与を受けず大学が自分で考えイノベーションを生ませることが精神だったはずだ。グローバル化のなかで外国人の学生や教員も増えているがそうした人たちにも国歌斉唱を求めるのは現実的ではなく、大学の自立性や国際化の観点から見て問題だと思う。

 大学の自治は守られるべきだという一辺倒でこうした動きに反対するのはもう無理だと思う。なぜ自立性が必要か、国立大学が社会に何を還元すべきか、もっと真剣に考えていかなければいけない」

 記事は下村博文のこの要請の発端として安倍晋三の今年2015年4月9日の参議院予算委員会での国会答弁を挙げている。《国会会議録検索システム》から、そのときの質疑を見てみる。 


 松沢成文次世代の党幹事長「最後に、国立大学法人における国旗掲揚、国歌斉唱について質問いたします。

 この表を見ていただきたいと思いますが、ここ二年間の国立大学法人の国旗・国歌の実施状況であります。国旗を掲揚しない大学が12から13あります。国歌斉唱に至ってはもうほとんどの国立大学が実施をしておりません。

 私学とは異なって、国立大学というのはほとんどが国からの運営交付金や補助金で運営されているわけです。私は、国民感情としても、国民の税金で賄われている国立大学なのだから、入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱はある意味で当然だと思っているんじゃないでしょうか。しかも、国立大というのは将来の国家を担うリーダーを育成する機関ですよね。国旗も掲揚せず、国歌も斉唱せずでは、国のリーダーとしてのアイデンティティーが育まれるんでしょうか。

 国は、小中高で学習指導要領の下に国旗・国歌を尊重するようしっかり教育しているはずです。それが最終段階の最高学府の大学では存在しない。終わり悪ければ全て悪しになっちゃいます。大学の自治や大学の学問の自由というのは尊重すべきですが、国立大学の入学式、卒業式に国旗・国歌があるのはむしろ当然の姿で、それが自治や自由を妨げるものではないはずです。

 まず、総理、この調査結果を見てどのようにお感じになりますか。感想を聞かせていただきたいと思います」

 安倍晋三「感想としては、大体、大学という性格上こういうことになっているのかなと思いますが、ただ一方、学習指導要領がある中学そして高校においてはしっかりと実施されていると同時に、今委員がおっしゃったように、税金によって賄われているということに鑑みれば、言わば新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないかと、私はこんな感想を持ったところでございます」

 松沢成文「文科大臣、これ、各国立大学に国旗掲揚、国歌斉唱をしっかり実施するよう指導をしてもいいんじゃないですか。これは設置者の意思として伝えるべきではないかと思いますが、大臣はいかがお考えでしょうか」

 下村博文君「国旗及び国歌に関する法律の制定から十五年経過いたしました。

 先ほど安倍総理からお話がありましたが、小中高等学校においては、学習指導要領に基づき、国旗・国歌の意義を理解させ、尊重させる態度を育てるとともに、入学式、卒業式においては国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導しているところでございます。

 大学ではこのような学習指導要領のようなものはないということで、入学式、卒業式における国旗や国歌の取扱いについては大学の教育研究活動の一環として行われていることに鑑み、各大学の自主的な判断に委ねられているという現状がございます。

 文科省としては、国旗掲揚、国歌斉唱、長年の慣行により広く国民の間に定着していること、また平成11年の8月に国旗及び国歌に関する法律が施行されたことを踏まえて、各大学において適切な対応が取られるよう要請してまいりたいと思います」――  
 記事は松沢成文の国旗掲揚・国歌斉唱あるなしの発言を受けて文科省が調査した結果を伝えている。

 調査対象は全国86の国立大学。今年の入学式で国旗掲揚を実施すると答えたのは74校、国歌斉唱を実施すると答えたのは15校。

 上記「NHK NEWS WEB」記事はまた安倍晋三の国会答弁、「税金によって賄われているということに鑑みれば、言わば新教育基本法の方針にのっとって(国旗掲揚・国歌斉唱は)正しく実施されるべき」との発言を受けて反発の声が挙がり、〈教育学や憲法学が専門の大学教授らおよそ20人で作るグループが「政府の権力、権威に基づいて国旗国歌を強制することになり、学問の自由と大学の自治を揺るがしかねない」などとして、要請に反対する声明を4月に発表した。〉と伝えている。

 このグループの声明に賛同して署名した人数は先月末時点で約3250人、今月に入ってからも、弁護士やNPO関係者など約200人のグループが反対声明を出していると解説している。

 そもそも下村博文が「国旗と国歌はどの国でも国家の象徴として扱われている」と言っていること自体が余りにも頭の悪い単細胞的な思考で成り立たせていて、客観的な合理性のカケラさえも見ることができない。

 国家権力によって国家観は異なる。当然、国家権力が理想の国家像として思い描く国家の姿に応じて象徴の意味・内容も違ってくる。

 当然、「どの国でも」と、「国家の象徴」の中身を同じとすることはできない。

 戦後の日本は保守政党自民党によって政権がほぼ独占されてきた。その保守性は自民党が目指す憲法改正案の前文で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と、国民主権と言いながら、「戴く」という表現で主権者である国民の上に天皇を位置させ、国民を天皇の下に置いて上下関係で把えている。

 天皇と国民をこのように上下関係で位置づけた天皇論から判断すると、第1章「天皇」第1条の、〈天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。〉としている「天皇日本国元首」は、〈日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。〉としているものの、同じく上下関係からの「元首」ということになって、民主主義のルールを超えた、戦前に近い保守性を体質としていることになる。

 そして安倍晋三の保守性たるやその最右翼に位置し、民主主義の埒をはるかに超えている。

 その証拠としてブログで何度も例に挙げてきた安倍晋三の「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」という発言だが、その想い(=歴史認識)を皇室に持っているということは伝統と文化が持つ永遠性・悠久性を皇室の存在にも見ていることを意味するものであって、日本という国家に天皇の永遠性・悠久性を置いていることになる。

 このような戦前の日本国家に親近性を見せている国家観を持った安倍晋三に大学は「税金によって賄われているということに鑑みれば、言わば新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と国旗掲揚と国歌斉唱を迫られて、素直に従ったとしたら、自らの精神の自由を投げ捨て、安倍晋三の戦前日本国家に親近性を持った超保守的な国家観に寄り添うことになる。

 民主的な国家観を持った大学教育者の内、いや、大学教育者ではなくても、誰が寄り添うことなどできると言うのだろうか。

 国旗掲揚・国歌斉唱は「国を愛する心」(=愛国心)の象徴的表現とされているが、形式的表現でもある。一般的生活者は愛国心を動機づけとして社会活動をしているわけではない。当然、愛国心が社会に役立つ何かを具体的に生むわけではない。

 但し一般的生活者に国旗掲揚・国歌斉唱を通して日本という国家を意識させることはできる。安倍晋三は大学での国旗掲揚・国歌斉唱を認めさせるという合意を通じて日本国家を意識させると同時に国家権力の意志を大学に潜り込ませることができる。

 いわば国家権力の言うことを聞かせたという満足感を得ることができる。もし安倍晋三が民主的な国家観の持ち主だったなら、そのような満足感を求めはしないだろう。戦前日本国家に親近性を持ち、天皇の永遠性・悠久性を日本国家に見ている超保守的な国家観の持ち主だからこそ、それとは正反対の大学の民主的な国家観に対して自らの国家観を認めさせたい、あるいはあわよくば同調させたい衝動が働く。

 安倍晋三は大学が「税金によって賄われている」ことを根拠に国旗掲揚と国歌斉唱を認めさせて自らの国家観を押し通そうとしているが、大学が税金によって賄われていようとも、国がそういう制度を作ったということだけのことで、国民の税金は国家権力のカネではないし、単に配分の役を担っているに過ぎないのだから、大学は国家権力によって賄われているわけではない。

 また、税金によって賄われていても、大学はそれぞれが独立した教育機関であり、独立した教育機関としての主体性を自ずと備えていなければならないから、何に対してどう判断し、どう行うかの決定権は国家権力側にあるのではなく、常に大学側にある。

 それを税金によって賄われていることを根拠に自身の超保守的な国家観を隠して国家権力の思い通りに従わせようとするのは決して許されない独裁意志の押し付けとなる。

 安倍晋三は経済政策による支持率の高さを利用して、様々に自身の国家観を押し付けようとする行動に出ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする