百田尚樹の報道の自由否定発言に対する自身の弁明と谷垣貞一の釈明と松井大阪府知事の擁護発言の軽薄性

2015-06-29 08:56:11 | 政治


 6月27日、百田尚樹は福岡市中央区のホテルニューオータニ博多で開かれた福岡大学の同窓会で講演して、その中で再び世間を騒がせることになった2日前6月25日の「文化芸術懇話会」での「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」と発言した報道の自由否定を弁明している。

 百田尚樹「テレビとかラジオで不特定多数の人に向けて言うたら、軽口であろうと、冗談であろうと言い訳が通用しないところがある。ところが、内輪の会、私的な会合です。なおかつ、取材はシャットアウトでしゃべってる。飲み屋の席でしゃべっているようなもんです」(産経ニュース)   

 6月25日の「文化芸術懇話会」は開催場所は自民党党本部であるが、自民党主催ではなく、自民党若手国会議員約40人が出席した憲法改正を推進する勉強会主催の私的な会合だという。講演のテーマは集団的自衛権についてだそうだが、百田尚樹自身の集団的自衛権についての考え方を話したのだろう。

 問題発言は講演後の質疑応答の際だったと言うが、ときには軽口や冗談を言い交わすこともあるだろうし、講演そのものの中でも軽口や冗談を口にすることはあるはずだ。

 だが、百田尚樹はいくら若手と言っても多くの有権者からそれぞれに国政に関わる負託を受けた40人前後の国会議員の先生方を前に集団的自衛権について話す講師として立ちながら、“言い訳が通用する”「内輪の会、私的な会合」だと、会合自体の意味づけを軽くして、例えそれが講演中の発言ではなく、質疑応答中の発言であったとしても、“言い訳が通用する”ことを前提に喋ったことになる。

 つまり自分の講演を最初から軽い内容だとしていて、どうせ言い訳が通用するからと無責任に講師役を務めた。

 だから、講演の内容であろうと、質疑応答での自身の発言であろうと、「飲み屋の席でしゃべっているような」軽いものと自ら自己評価を下すことになった。

 こういった軽い無責任な話だから、「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」と言った発言は何も報道の自由を否定する発言でも何でもなく、福岡大学同窓会の講演後に報道陣に話しているように「野党が僕の発言をうまく利用している。汚い」と言うことになる。

 もし百田尚樹の弁明が全て事実とすると、自民党の錚々たる若手約40人の「文化芸術懇話会」は“言い訳が通用する”、「飲み屋の席でしゃべっている」ような講演内容でも罷り通る、その程度の懇話会ということになって、メンバーの質自体が低いということになる。

 つまり講師もメンバーも質が低い中で飛び出した「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」等々の発言ということになるが、それでもなお報道の自由否定発言であることに変わりはないし、自民党若手国会議員の質が低いということは新たな問題となる。

 百田尚樹は自身の発言に対する自己弁明がどういうことを意味することになるか、何を物語ることになるか、軽薄にも気づきもせず、考えもしなかった。

 だからと言って、自民党若手国会議員の質が低いという評価が百田尚樹の軽薄な弁明が生み出した評価に過ぎないというわけではない。

 昨日6月28日のNHK「日曜討論」での発言。

 谷垣自民党幹事長「大変軽率な議論でご迷惑も掛けた。自民党の姿勢に誤解も与えた誠にけしからん事件だ。言論・報道の自由は最大限尊重されるべきで、圧力をかけられると考えているなら、政治家としての認識が間違っている」(時事ドットコム

 谷垣が言うように単に「大変軽率な議論」で片付けることができるだろうか。民主主義が成熟していなければならない時代・世の中にあって出席議員の中から、「マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働きかけてほしい」とか、「沖縄は戦後、予算漬けだ。地元紙の牙城で歪んだ世論をどう正すか」といった、自由であるべき言論を自分たちの都合のいい方向にコントロールし、統制したい意志を働かす。

 この情報統制意志は権力の独裁的志向から発する。独裁的志向なくして作動することは決してない情報統制意志であって、例え一人二人の発言であったとしても、民主主義の時代に民主主義に敵対するようなこのような発言が飛び出すこと自体、「軽率」という評価では済ますことのできない非常に危険な兆候であって、その資質に危機感を持たなければならないはずだ。

 だが、谷垣は「大変軽率な議論」で片付けている。しかも後段の「言論・報道の自由は最大限尊重されるべきで、圧力をかけられると考えているなら、政治家としての認識が間違っている」としている、政治家としての本質的な資質を問う危機感とも矛盾する片付け方である。

 もし後段の危機感がホンモノであったなら、単に軽率の類いで片付けることはできないはずだから、そのような処理の仕方が身内庇いから出たものかどうか分からないが、身内庇いから出たものだとしたら尚更に口先だけの危機感ということになって、谷垣からは軽薄性しか窺うことができないことになる。

 橋下徹の分身とも言うべき大阪府知事(維新の党顧問)の松井一郎が6月26日、百田尚樹の報道の自由否定発言について大阪府庁で記者団に発言してる。

 松井一郎「「(メディアに)『圧力をかけよ』と言ったのは自民党。自民党を叩くのはいいが、講師として行った百田さんにも表現と言論の自由はある。

 ここぞとばかりに復讐だな。朝日(新聞)と毎日(新聞)は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか。圧力をかけて」(asahi.com
 
 「沖縄の二つの新聞は潰さないといけない」と報道機関の圧殺を意思表示したのは百田尚樹である。断るまでもなく報道機関の圧殺は自身の気に入らない報道の圧殺を意味し、そのように圧殺することで自身の気に入る情報で統制したい願望を裏付けとして意思表示されることになる。

 既に触れたように情報統制意志は権力の独裁的志向から発する。百田尚樹は安倍政権側に身を置くことで、その国家権力を纏うことができる立場に立つことができる。

 戦前、町内会の住民相手に「お国のためだ、天皇陛下のためだ」と国家権力者に成り代わってその権力を立場相応に身に纏って自身を独裁的地位に置き、好き勝手に権力遂行の快楽を味わった町内会の世話役が決して少なくない数で存在したことを忘れてはならない。

 だが、松井一郎は「百田尚樹にも表現と言論の自由はある」と、そのことが問題となった発言を無視することができる。百田尚樹が報道の自由否定発言をした「文化芸術懇話会」後、機会を把えて、“言い訳が通用する”「内輪の会、私的な会合」での「飲み屋の席でしゃべっているような」発言に過ぎないと軽薄そのものの自身の「表現と言論の自由」を十二分に発揮しているにも関わらず、「朝日(新聞)と毎日(新聞)は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか。圧力をかけて」と平気で事実誤認なことを言うことができる。

 百田尚樹の軽薄性と対応した松井一郎の軽薄性という相互性を取っているからこその百田尚樹擁護発言であり、事実誤認であろう。

 戦前という時代に国家権力によって報道の自由、言論・表現の自由を奪われて、国家の言葉しか言葉として通用しなかった苦い経験を経て民主主義の時代を迎えて70年という民主主義を育てていく時間を歩みながら、国会議員の集まりで名のある文化人が報道の自由を否定する発言を口にし、事もあろうか、国会議員そのものが自由であるべき言論を自分たちの都合のいい方向にコントロールし、統制したい独裁意志を露わにしたことは戦後70年の歩みに真っ向から逆行することとしてそれ相応の危機感を持たなければならないはずだが、持たない文化人、政治家が存在する。

 今後共、存在するに違いない。その筆頭に就ける名誉は勿論、安倍晋三に与えなければならない。

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