安倍晋三にしろ百田尚樹にしろ、その他同類は新聞・テレビを洗脳の道具と把え、国民を愚か者扱いしている

2015-06-28 06:49:22 | 政治


 安倍シンパ自民党若手国会議員約40人出席の自民党本部で開催、憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」であった報道圧力に関する発言を6月26日付け「asahi.com」から拾ってみる。  

 大西英男衆院議員「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番。政治家には言えないことで、安倍晋三首相も言えないことだが、不買運動じゃないが、日本を過つ企業に広告料を支払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」

 井上貴博衆院議員 「福岡の青年会議所理事長の時、マスコミをたたいたことがある。日本全体でやらなきゃいけないことだが、スポンサーにならないことが一番(マスコミは)こたえることが分かった」 

 長尾敬衆院議員「沖縄の特殊なメディア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。先生なら沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていくために、どのようなアクションを起こすか。左翼勢力に完全に乗っ取られている」

 百田尚樹「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚ますか。あってはいけないことだが、沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」――

 要するにどれもがマスコミは自民党が進める政治に反対する記事を書いて国民を洗脳して、自民党政治に反対の立場を取らせているという趣旨の発言となっている。

 だから、そのことを正したいという強い思いが「マスコミを懲らしめる」という権力志向的な願望を持つことになり、「日本全体でマスコミを叩かなければならない」という同じく権力志向的な発想となり、「沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていく」という、これも権力志向的な使命感を持たせることになり、「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん」、あるいは「沖縄県人の目を覚まさなければならない」という、これまた権力志向的な危機感となって現れることになる。

 報道と国民の間に洗脳というプロセスを見ていなければ、このような権力志向的な発言とはならない。あるいは洗脳される国民が存在しているということを頭に置いていなければ、このような権力志向的な発想に向かうことはないはずだ。

 これらの発言からすると、彼らが自民党政治に反対する国民は皆マスコミに洗脳されていると考えていたとしても、不思議はない。言論の自由・表現の自由に些かも軸足を置いていない国家権力側に立った者の強い報道圧力志向は国民が洗脳されているという思いなくして作動させることはないはずだからだ。

 自民党政治に反対する新聞・テレビは国民を日々洗脳し、そのような新聞・テレビに国民が日々洗脳されているとする認識の裏を返すと、国民を正しく理解する能力に欠ける生きもの扱いをしていることになる。

 いわば愚か者扱いをしている。この愚民視は当然、自民党政治に反対するマスコミは全部潰して、自民党政治に賛成するマスコミだけにすれば、そのようなマスコミに洗脳されて国民を自民党政治に賛成させることができるという思いに裏打ちされていることになる。

 少なくとも無意識下にはそういった思いがあると見なければ、自民党政治に反対するマスコミ叩きの発想は考えにくい。

 百田尚樹が6月27日に自身のツイッターに「本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞」と投稿したとマスコミが伝えていたが、この3紙の言論そのもの・表現そのものに国民が単に影響を受けているだけとしているなら、潰れて欲しい=この世に存在しないで欲しいという存在抹殺の欲求まで起こすはずはないから、国民を洗脳しているコントロール体と見ているからこその存在抹殺欲求であるはずだ。

 もし新聞が主張するそれぞれの言論・表現を選択するのは国民であり、国民が誰に指図されることなく自らの選択に任せることも国民に保障された言論の自由であり、表現の自由であるとする基本的人権に則した考えに立っていたなら、潰れて欲しいとか、潰したいといった存在抹殺意志は芽生えさせようがないし、国民が日々洗脳されていると見る愚か者扱い、愚民視することもない。

 2014年12月の総選挙前の11月20日に安倍晋三の指示を受けてのことだろう、安倍晋三最側近の自民党筆頭副幹事長の萩生田光一と報道局長の福井照連名で在京テレビ各局に番組報道の公平・公正・中立を求める文書を送ったことがマスコミの安倍政権批判が国民を洗脳する道具となっていると見ていることが動機となっていたからではないとしても、マスコミのどの言論・どの表現をどう選択するかは国民自身に任せることができないことを動機としていたことは明らかで、この任せることができないということの国民それぞれに対する主体性軽視は国民を愚か者と見ているからこその反応であろう。

 国家権力が国民を愚か者扱いし、愚民視すること程危険なことはない。国民との関係に於いて国家権力を絶対正しい、絶対正義だと置いていることになるからだ。

 絶対正しい、絶対正義だとしていなければ、報道はテレビ各局の言論の自由・表現の自由に任せて、在京テレビ各局に番組報道の公平・公正・中立を求める文書など送ることなどできなかっただろう。

 少しでも自己を絶対正しい、絶対正義だとするような国家権力は気をつけなければならない。戦前の国家権力と国民の関係を見れば明らかなことであり、安倍政権にその体質があることは様々な報道介入が証明している。

 「文化芸術懇話会」の面々にしても、全員がそうではなかったろうが、百田尚樹を含めて自己を正しい、絶対正義だとし、国民を愚か者扱い、愚民視していた。

 彼らの中から将来、国家の指導者として頭角を現す者が出る可能性を考えるべきだろう。

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