安倍晋三の靖国参拝が自身では戦前日本国家の正当化だと気づかない罰当たりな腐った脳ミソ

2013-12-27 09:39:35 | 政治



 ――靖国参拝は安倍晋三が国家主義者・軍国主義者であることの現れ――
 
 安倍晋三が第2次安倍政権発足1年後の昨日12月26日(2013年)、第1次・第2次を通して初めて靖国神社を参拝した。2005年5月2日、小泉内閣時代の自民党幹事長代理だった安倍晋三はワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」での講演で、中国が小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることについて、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と発言しているように靖国神社参拝は日本のリーダーの務めだと信念していながら、首相として今日まで参拝欲求を抑えに抑えてきた関係から、参拝後の抑えた欲求からの解放、カタルシスには相当なものがあったに違いない。

 但し丸きりのバカでない限り参拝に対する中・韓・米の反応に懸念も持つだろうから、懸念が強いる緊張に相殺されて折角のカタルシスも幾分かは損なわなければならないことになるに違いない。

 参拝後の対記者団発言を参拝日の夕方7時からの「NHK総合テレビ」で流していた。録画し、文字に起こしてみた。出だしの発言のみで安倍参拝の意味するところを露見させているばかりか、その発言を含めて全編、参拝正当化の詭弁を散りばめた安倍思想となっている。

 安倍晋三「本日靖国神社に参拝を致しました。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、そしてみ霊安らかなれと手を合わせて、参りました。

 そして同時に靖国神社の境内にあります鎮霊社にもお参りをして参りました。鎮霊社には靖国神社に祀られていない、すべての戦場に斃れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて全ての戦場で斃れた人々の慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りを致しました。全ての戦争に於いて命を落とされた人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことの無い時代を創るとの決意を込めて不戦の誓いを致しました」

 記者「今日は12月26日、安倍政権発足から丁度1年。なぜこの日を選んで参拝されたのでしょうか」

 安倍晋三「残念ながら靖国神社参拝自体が政治問題、外交問題化しているわけでありますが、その中に於いて政権が発足して1年、この1年の安倍政権の歩みを報告し、二度と再び、戦争の惨禍によって人々が苦しむことの無い時代を創るとの誓いを、この決意をお伝えするためにこの日を選びました」

 記者「中国、韓国を初めとしてですね、海外から安部総理が靖国神社を参拝することについて根強い批判の声が出ているが、これはどのように説明していかれるのでしょうか」

 安倍晋三「あの、靖国神社の参拝ですね、いわゆる戦犯を崇拝する行為であると、ま、誤解に基づく批判がありますが、私は1年間のこの歩みをご英霊に対してご報告をする。そして二度と戦争の惨禍の中で人々の苦しむことが無い時代を創っていくという決意をお伝えするために参拝を致しました。

 もとより中国、あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける、そんな考えは毛頭ございません。それは靖国神社に参拝をしてこられた歴代の総理大臣と全く同じ考えであります。母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りをし、そしてリーダーとして手を合わせる、このことは世界共通のリーダーの姿勢ではないでしょうか。それ以外のものでは全くないということをですね、これから理解をして頂くための努力を重ねていきたいと考えています。

 また、日本は戦後、自由と民主主義を守って参りました。そしてその下に平和国家としての歩みをひたすら歩んできた。この基本姿勢は一貫しています。この点に於いて一点の曇りもございません。これからも謙虚に、礼儀正しく誠意を持って説明をし、そして対話を、対話を求めていきたい思います」

 記者「中国、韓国のリーダーに対してですね、直接説明したいという考えはありますか」

 安倍晋三「あの、是非ですね、この気持ちを直接説明したいと思います。戦後、多くの首相は靖国神社に参拝しています。吉田茂総理もそうでありました。近年でも中曽根総理、あるいはその前の大平総理もそうでした。そしてまた、えー、橋本総理も、小泉総理もそうでしたが、全ての靖国に参拝した総理は中国、韓国と友好関係をさらに築いていきたい、そう願っていました。日中関係、そして日韓関係は大切な関係であり、この関係を確固たるものにしていくことこそ日本の国益だと、そう、皆さん信念として持っておられた。えー、そのことも含めてですね、説明させて頂く機会があれば、本当に有り難いと思っています」

 記者「そして最後に2年後、3年後、今後もですね、靖国神社に定期的に参拝されたいというお考えでしょうか。

 安倍晋三「今後のことについてですね、この場で、えー、お話しをすることは差し控えさせて頂きたいと思います。えー、私は『第1次安倍政権の任期中に靖国神社に参拝できなかったことは痛恨の極みだ』と、このように申し上げて参りました。それは総裁選に於いても、あるいは衆議院選挙のときに於いても、そう述べて参りました。その上で私は総裁に選出をされ、そして総理大臣となったわけでございます。えー、私はこれからもですね、私の参拝の意味について理解をして頂くための努力を重ねていきたいと思います」

 記者「多くの戦犯の方が祀られておりますが、戦争指導者の責任についてどうお考えでしょうか」

 安倍晋三「それは、えー、今までも累次国会で述べてきたとおり、であります。我々は過去の反省の上に立って、えー、戦後しっかりと人権を、基本的人権を守り、そして民主主義、自由な日本をつくって参りました。そして今や、その中に於いて世界の平和に貢献しているわけでございます。今後もその歩みにはいささかも変わりはないということは重ねて申し上げておきたいと思います。

 どうもありがとうございました」 

 安倍晋三は出だしで、「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し」と言っているが、ブルッキングス研究所での発言に見るとおり、多くは「国のために戦った方」とか、「国のために戦い尊い命を犠牲にされた」といった言葉の使い方をして、戦争指導者や将兵の命の犠牲の対象を「国家」としていたが、ここでは対象を「日本」としている。

 但し参拝同日に首相官邸HPに載せた「安倍内閣総理大臣の談話~恒久平和への誓い~」は、「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」となっていて、戦争指導者や将兵の命の犠牲の対象を「国家」に置く使い分けとなっている。 

 対象を「国のために」とすると、戦前の日本国家が天皇を頂点に置いた国家主義国家・全体主義国家であったから、そのような国家を対象とした犠牲となって、正義と言えなくなるが、対象を「日本」に置いた場合、犠牲の対象を自然や文化、歴史、生活、風俗・習慣まで含めることになって、国家主義国家・全体主義国家を対象とすることよりも正義の意味を強めることができる。

 しかし犠牲の対象の実態は天皇や国家の名の下に戦争に邁進させた国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家であったことは間違いのない事実なのだから、戦前の日本国家を直裁的に指すことになる「国のために」よりも、そのような国家の姿をカモフラージュできる言葉として「日本のために」を咄嗟に用いたのか、自然と口をついて出たのか、いずれであるにせよ、あくまでも安倍晋三という人間の中では対象を戦前の日本国家に置いているはずだから、「日本のために」とするのは犠牲の対象を「国家」であることから遠ざけ、曖昧化する詭弁に過ぎない。

 要するに「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊」と言おうと、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」と言おうと、戦争指導者や将兵の命の犠牲の対象は国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家に違いないのだから、彼らの犠牲行為に対する顕彰を成り立たせるためには国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家そのものの正当化によって初めて可能となるのであって、そのような関係に置くことによって初めて、戦争指導者や将兵の犠牲行為と国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家を「お国のために尊い命を犠牲にした」と響き合う相互的存在とすることができるはずである。

 もし国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家を否定した場合、戦争指導者は戦争の加害者に位置づけられ、一般将兵は戦争の犠牲者に位置づけられることになって、「二度と戦争は起こしません」の不戦の誓いは可能となっても、戦争指導者にしても将兵にしても、顕彰の対象足り得ない。

 なぜあんなバカげた戦争を起こし、外国を含めて多くの兵士や一般人を犠牲にしたのだろうと、戦争を総括することになっただろう。だが、戦前の日本国家を正当化している限り、総括は不可能となる。総括によるあからさまな正当化は客観的判断能力を疑われるだけではなく、世界に通用しないからだ。

 安倍晋三は靖国神社を参拝し、戦争犠牲者を英霊と祭り上げることによって国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家を正当化しているのである。

 このことは2013年4月23日の参議院予算委員会での安倍晋三の発言、「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」と日本の戦前の侵略戦争を否定していることによっても証明することができる。

 当然、以下の安倍晋三の対記者団発言は戦前の日本国家正当化の文脈で読み解かなければ、正確な意味を把握することはできない。

 諸外国の戦死者を祀ってある靖国神社内の鎮霊社も参拝したと言っているが、あくまでも主目的は英霊の慰霊を口実とした戦前の日本国家正当化であるのだから、外国の戦死者も慰霊したとすることで批判を和らげるための詭弁に過ぎない。

 「二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことの無い時代を創るとの決意を込めて不戦の誓いを致しました」にしても、国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家正当化を前提とした「不戦の誓い」であることに留意しなければならない。

 戦前の日本国家の侵略戦争を侵略と認めない「不戦の誓い」とは胡散臭い反戦の臭いしか嗅ぐことができない。

 「二度と再び、戦争の惨禍によって人々が苦しむことの無い時代を創るとの誓いを、この決意をお伝えするためにこの日を選びました」と政権発足1年後の日を参拝の機会と挙げていることも戦前の日本国家正当化を前提とした言葉であると同時に一方に於いて、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」(『この国を守る決意』) と、国家が戦争をした場合の命の犠牲を求めているのである。

 どれだけ本心からの言葉であるか、疑わなければならない。

 安倍晋三は「もとより中国、あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける、そんな考えは毛頭ございません」と言い、靖国参拝をした歴代首相が「日中関係、そして日韓関係は大切な関係であり、この関係を確固たるものにしていくことこそ日本の国益だと、そう、皆さん信念として持っておられた」と言って、自身の参拝をも同一戦場にあると正当化しているが、国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家を正当化し、正当化ゆえにその侵略戦争を否定する象徴的儀式としての靖国参拝が「中国、あるいは韓国の人々の気持ちを傷つける」行為に当たらないと考える判断能力は罰当たりにも既に腐っているとしか言い様がないし、中国と韓国とのどのような友好関係も戦前の日本国家の正当化の上に立った関係構築としかならない。

 安倍晋三「日本は戦後、自由と民主主義を守って参りました。そしてその下に平和国家としての歩みをひたすら歩んできた。この基本姿勢は一貫しています」

 安倍晋三の頭にある戦後の「自由と民主主義」、あるいは戦後日本の「平和国家」はやはり戦前の日本国家正当化を前提とした「自由と民主主義」であり、「平和国家」なのである。

 いわば安倍晋三の思考は常に正当化している戦前の日本国家を戦後の「自由と民主主義」及び「平和国家」の土台に置いているということである。

 この構図は安倍晋三の思考の中では当然、戦前の日本国家を土台とした「自由と民主主義」及び「平和国家」の姿を取った戦後日本を目指す志向性を基本的な形として内包していることになる。

 また、「我々は過去の反省の上に立って、戦後しっかりと人権を、基本的人権を守り、そして民主主義、自由な日本をつくって参りました」という言葉も同じ構図を取っていることになり、「過去の反省の上に立って」は参拝を正当化するための詭弁――マヤカシの言葉となる。

 このような構図を取った考えを危険な思想ではないと言うことができるだろうか。

 靖国神社参拝に対する予想される外国の批判に対して「いわゆる戦犯を崇拝する行為であると、ま、誤解に基づく批判がありますが」と言い、「これからも謙虚に、礼儀正しく誠意を持って説明をし、そして対話を、対話を求めていきたい思います」と発言しているが(参拝後の同日午後に出演した自民党インターネット番組でも、同じ趣旨のことをほぼ同じ文言で繰返している)、安倍晋三の靖国参拝は戦犯崇拝といった把え方ではなく、戦犯の顕彰(=正当化)と響き合わせた国家主義国家・全体主義国家であった戦前の日本国家の正当化であることは日本の戦争の侵略否定の歴史認識から言っても間違いなく、その前提に立った思考に囚われている以上、当然のこととして「礼儀正しく、誠意を持って説明し、対話を求めていきたい」という姿勢は成り立たない。

 発言全体を通して、自身の靖国参拝が戦前日本国家の正当化だと気づかない罰当たりな腐った脳ミソが振り撒いている独り善がりな言葉の羅列としか評価することができない。

 このような戦前型思考人間が戦後日本の民主主義国家・平和国家のリーダーとなることができた。支持する国民が多くいたからに他ならない。

 この靖国参拝が安倍第2次内閣の終わりの始まりであることを願う。

 安倍内閣の新藤総務省が同日、同じNHK番組で安倍晋三の靖国神社参拝を擁護し、正当化していた。 

 新藤「総理大臣と言えども、あの、私的参拝なんですね。個人の私的行為であります。心の自由のことでありますから、総理がそこをご判断されたなら、それは、それを受け止めるということだと思いますし、いつどんなときでも、自由にですね、自分の気持に従って、あの、参拝されればいいと思います」

 公用車でSPを引き連れ、玉串料は私費で収めたものの、「内閣総理大臣 安倍晋三」名で献花と記帳を行い、首相官邸HPに参拝の談話まで載せていて、「私的参拝」と言う。「心の自由」だと言う。

 安倍晋三の発言といい、罰当たりなウソ・偽りが跳梁跋扈しているとしか言い様がない。

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