2013年2月7日の衆議院予算委員会でのやりとり。
遠藤利明自民党議員「教育再生、まさに安倍内閣の大きな柱の一つであります。これまでも、臨教審とかいろいろな形で、教育改革国民会議、安倍総理になってからの教育再生会議等、いろいろな議論がありました。
総理、戦後教育、日本の教育というのは、今でも世界最高水準です。自信を持っていいんです。ただ、やはり中国やあるいは韓国やシンガポール、どんどん追いついてきているなと。何か停滞している感じがします。その原因は何だと思われますか」
安倍晋三「大変難しい質問ではございますが、6年前に教育基本法を改正いたしました。この改正教育基本法において、目的をしっかりと書いたんですね。教育の目標を書きました。教育の目的と目標を書き込んでいきました。
この教育の目標、目的の中には、例えば道徳心を培っていくということを書いた。これは古い教育基本法には書いていなかったことであります。そして、日本の文化と伝統を尊重しということも書き込んだ。これも書いていなかったことですね。そして郷土愛、愛国心を書いたのであります。
それはつまり、子供たちに、君は何者なんだということをしっかりと教えていくということであります。戦後の教育の問題点があったとすれば、それがすぽっと実は抜け落ちていたということにもあるのではないかと思います」――
哲学的思考に無縁な粗雑な頭の持主が、「君は何者なんだ」と言う哲学的言辞を尤もらしげにに持ち出す。滑稽な限りだが、「戦後の教育の問題点」は、「君は何者なんだ」ということを教えることが抜けていたことだと言っている。
テストの成績を問う教育に支配された日本の学校教育界で一体どこで誰が、「君は何者なんだ」と問う教育を行なっていると言うのだろうか。
道徳心と日本の文化と伝統、郷土愛と愛国心を教えれば、それが可能だと言うのだろうか。
だが、安倍晋三は可能だと考えている。
当然児童・生徒たちは道徳心と日本の文化と伝統、郷土愛と愛国心を教え込まれて、“自分は何者なんだ”を知ることを答としなければならない。
問題は安倍晋三がそう言うとき、教える内容が安倍晋三が国家権力者の立場から望ましいと考えている「道徳心」と「日本の文化と伝統」、「郷土愛と愛国心」だということである。
自分が考えていない価値観を頭に置くはずはない。
例えば2013年3月15日、TPP交渉参加決定の記者会見を首相官邸で行なって、次のように発言している。
安倍晋三「最も大切な国益とは何か。日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化。その中から生まれた世界に誇る国民皆保険制度を基礎とした社会保障制度。これらの国柄を私は断固として守ります」――
2013年5月17日の日本アカデメイアでの「成長戦略第2弾スピーチ」
安倍晋三「農業の素晴らしさは、成長産業というだけにはとどまりません。
棚田をはじめ中山間地域の農業は、田んぼの水をたたえることで、下流の洪水被害の防止など、多面的な機能を果たしており、単なる生産面での経済性だけで断じることはできない大きな価値を有しています。
そのため、このような多面的機能も評価した、新たな『直接支払制度』を創設することが必要と考えています。
息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統があります。
農業を中心とした、こうした日本の『国柄』は、世界に誇るべきものであり、断固として守っていくべきものです」云々――
「息を飲むほど美しい田園風景」、「朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」――「美しい田園風景」と「自助自立」の精神と伝統が「日本の『国柄』」だと言っている。
これが安倍晋三の日本の農村と日本の農村を中心とした日本という国に対する価値づけ、価値観となっている。こういった日本の農村の文化と日本の農村の伝統が中心となって、「日本の『国柄』」は成り立っているとしている。
このような考えは日本という国と日本人という人間は優秀だとする信念を基づかせている。ここには美しいばかりではない、素晴らしいばかりではないと合理的に判断する相対主義が存在しない。
それ故に一種の日本民族優越主義が潜んでいるとすることができる。
そして安倍晋三は自分自身が望ましいと考えるこういった価値観を教え込み、そのような価値観の理解に基づいて、「君は何者なんだ」と問い、児童・生徒に“自分は何者なんだ”ということを知らしめたい教育を理想として願っている。
だが、日本の農村が「息を飲むほど美しい田園風景」を常に描いていたとしても、「日本には、朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」が厳然として存在していたとしても、そこで生活をするすべての人間がそういった「美しい田園風景」、美しい「伝統」に対応した美しい生活を送っていたわけではない。あるいはそのような生活を送ることができているわけではない。
人間は「美しい田園風景」や美しい「伝統」に反して幸不幸、美醜、善悪、多用な姿を取る。
江戸時代、日本人口のたかだか1割の武士が8割の農民に過酷な年貢を課す搾取の制度によって格差社会を構成していた。勿論、武士社会に於いても食える武士と満足に食えない武士との格差が存在する格差社会となっていたが、その格差社会は農村にも反映していて、土地持ちの百姓と土地を持たない、土地持ちの百姓から土地を借りて小作する満足に食えない百姓との格差社会を構成していた。
小作人にしても僅かな収穫の中から四公六民とか五公五民の過酷な年貢を年々支払わなければならない。年貢を支払うことのできない小作人が土地を捨て、「走り百姓」とか「走り者」となって江戸や大阪という大都会に食を求めて流れていくことが恒常的な風景となった。
だが、都会に出たからといって満足に職にありつくことができずに浮浪人化し、都市の治安悪化と農村の荒廃を招き、幕府は寛政の改革期には「旧里帰農令」、天保の改革では「人返しの法」を設けて帰村させる策を講じたが、「走り百姓」とか「走り者」と名づけた逃げ百姓はなくならなかったという。
この農村の食えない現象は人身売買からも証明できる。農村は売買する人身の一大供給地であり、女の子は主に遊郭に、男の子は商家の丁稚や職人の弟子として売られた。
この農村を一大供給地とする人身売買は明治・大正と続き、昭和になっても続き、戦後も一時期まで続いた。
2011年12月31日当ブログ記事――《江戸人の小柄な体・栄養失調・伝染病は北朝鮮と同様の特権階級(=武士)による統治の質の反映-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に武士階級が如何に搾取者の位置に立っていたか、次のように書いた。
〈「江戸時代においてはわが国民の8割以上が農民であった」彼らの「生活は、大土地所有者である封建領主およびその家臣らの、全国民の1割ぐらいに相当する人々(武士)を支えるために営まれていた。飢饉の年には木の根・草の根を掘り起こし、犬猫牛馬を食い、人の死骸を食い、生きている人を殺して食い、何万何十万という餓死者を出したときでさえも、武士には餓死する者がなかったという」(『近世農民生活史』児玉幸多著・吉川弘文館)〉――
上位社会と下位社会は相互に反映し合う。豪農と貧農の格差を抱えた農村社会と食える武士と満足に食えない武士の格差を抱えた武士社会は年貢を核として相互に反映し合っていた。
当然、武士社会に於いても農村社会に於いても人間は美しいばかりではない、幸不幸、美醜、善悪、多用な姿を取ることになり、そういった人間の姿を反映させた武士社会の姿、農村社会の姿を描くことになる。
現在、格差社会と言っていることは経済的格差の状況や生活上の格差の状況に置かれた人間が無視できない状態で存在し、その姿を反映させて成り立っている社会であることを言うのと同じであろう。
現在の農村社会も高齢化、少子化、後継者不足、人口減少、耕作放棄地等々、「美しい田園風景」や「朝早く起きて、汗を流し田畑を耕し、水を分かち合いながら、五穀豊穣を祈る伝統」だけでは解決できない幾多の問題を抱えている。
いわば美しいだけの農村ではない。
だが、安倍晋三は日本及び日本人を優秀だと見せる美しいだけの文化と伝統のみを切り取って、それを自らの価値観とし、そのような価値観を土台として与えた「君は何者なんだ」、“自分は何者なんだ”という安倍晋三自身が意図した“何者像”を形成させる教育を日本の教育にしようと希望している。
このような“何者像”は日本だけではなく、世界を含めて知り得た文化・伝統の中から自から考えて実像とするものを学び取って、自身がこうあるべきとした価値観の体現によって問うことになる人間像とは無縁である。
このような人間像の形成には自ずと相対化の力学が働く。思考や価値感の相対化が合理的判断能力の育成へとつながっていく。相対化のない、日本という国、日本人という人間を優秀だとする価値感を主として反映させて形成する“何者像”は合理的判断を介在させていない点で柔軟な思考性を欠きやすく、日本優越民族に彩られた思い込みや独断へと発展していきかねない。
安倍晋三の単細胞に満ちた美しいだけの日本、美しいだけの日本人で描く日本の美し文化と伝統を望ましい価値感としてインプとさせようとする「君は何者なんだ」と問う教育が如何に危険か、一歩間違うと日本民族優越主義へと足を踏み込みかねない危険性を書いた。
小賢しさしか感じ取ることができない。