自民党教育政策、複数見解教科書掲載見直しは考えることを奪う教育となる危険性

2013-05-22 04:25:36 | 政治

 ――狙いは「侵略」と言う言葉の抹消か?―― 

 2つの記事から見てみる。《自民 複数見解掲載は見直しを》NHK NEWS WEB/2013年5月16日 20時24分)

 自民党教育再生実行本部特別部会が、現在の教科書が見解が分かれる歴史上の出来事などを説明する際、複数の見解を紹介していることについて生徒らが混乱するため本文には掲載しないよう、教科書検定基準の見直しを求めていくことを確認したという。

 萩生田特別部会主査(元文部科学政務官)「例えば『南京事件』は、なかったという研究者もいれば、30万人の虐殺があったとする人もいる。学説上確定していないことが教科書の本文に幅広く出てくるのはおかしい。
 
 現在の教科書では見解が分かれる歴史上の出来事などを説明する際、複数の見解を紹介しているが、生徒らが混乱する。本文には掲載せず、参考資料での紹介にとどめるよう、教科書検定基準の見直しを求めていくべきではないか」(下線部分は解説文を会話体に直した)

 出席者から異論は出ず、特別部会の方針とすることを了承、党執行部に対して夏の参議院選挙の公約に盛り込むよう求めていくことにしたという。

 大いに結構毛だらけ、猫灰だらけ。

 《教科書記述、確定事実に限定 自民参院選政策集》MSN産経/2013.5.17 00:25)

 特別部会の正式名は「教科書検定の在り方特別部会」(主査・萩生田光一総裁特別補佐)として紹介している。

 記事解説1.〈一部の歴史教科書に見られる偏向的な記述を是正するため、夏の参院選の総合政策集「Jファイル」に「確定した事実以外は本文に記述しない」と明記する方針を決めた。〉――

 記事解説2.〈現行の教科書検定制度では、出所や出典を示せば、事実関係が不確かな南京事件の犠牲者数も通過させており、中国側が主張する誇大な「30万人説」も教科書記述として独り歩きしている。ただ、教科書執筆者の裁量を全面的に妨げるのは難しいため、政策集には「さまざまな意見を添付する」とし、参考資料などで複数説を併記することは認めることにした。〉――

 5月16日(2013年)の方針決定。

 さらに、〈教科書記述で中国や韓国などのアジア諸国に配慮するよう求める「近隣諸国条項」については、昨年の衆院選政権公約と同じく、参院選公約でも「見直す」と強調する。〉方針だという。

 上記「NHK NEWS WEB」では、複数見解紹介は生徒が混乱するためとし、ここでは「偏向的な記述の是正」を目的としている。

 要するに生徒が「偏向的な記述」に毒されないようにすることを目的としているということなのだろう。

 だが、何を以て「偏向」と言うのだろう。例えば日本の過去の戦争を侵略戦争と見做さない勢力にとって侵略戦争だとする立場を取る見解は「偏向」ということになり、後者の立場の人間からすると、前者の立場の人間の見解は「偏向」となる。

 だからと言って、教科書に「侵略戦争」という文字の記載をやめ、参考資料での紹介にとどめて詳しく教えることもやめたなら、どうなるのだろうか。

 侵略戦争であることを否定し、自存自衛の戦争だとする、あるいはアジア解放の戦争だとする勢力にとっては生徒の頭の中から侵略戦争という文字を消すことができて好都合だろうが、逆に考えの違いを奪い、戦前のようにゆくゆくは政治権力が望む考えで国民の考えを統一することになる危険性を抱えることになる。
 
 結果として考える習慣を奪うことになる。

 こういった経緯を許すのはただでさえ日本の暗記教育が考える習慣を持たせていないことから可能となる事態であろう。  

 日本の戦争に関わる見解は日本国内に限った異なる様々な見解だけではなく、アジアやアメリカに於いて定着している見解等を紹介、なぜ異なる見解が生じるのか、どの見解を自らの見解とするのか、生徒に考えさせることによって考える習慣が生まれ、考える習慣が自ずと考える人間を形成していく。

 「南京事件」を例に取ると、日本兵虐殺の中国側が主張する「30万人説」、日本側からの非存在説、あるいは数万人説と色々な見解があるが、事実の証明が困難な場合、被害者側は被害が深刻であったことを示したいがために過大に申告する傾向にあり、被害者側は自らの罪を小さく見せたいがために過小に申告する傾向にあることを教えて、その上で何事も自分自身の事実(=解釈)を持つべきだと、考える人間であることを求めるべきだろう。

 と言っても、判断できなければ、無理矢理に一つの見解で統一するのではなく、複数の見解を並立させて自分自身の事実(=解釈)とするのも、他に強制されるでもなく、支配されるのでもなく、自分自身の考えに立脚させているという点で自律的存在足り得ることになる。

 また、自分自身の事実(=解釈)を持ったとしても、その事実が終生常に絶対ではなく、様々な人生経験を経る中で事実の変更を迫られる場合もあることを教えて、常に柔軟な思考を求めなければならない。

 異なる見解があってこそ、生徒は考えることができる。考える人間を育む。一つの統一した見解のみでは、考える必要性を失わせる。

 考えない人間に自律的存在を望むことはできない。考えてこそ、自律的存在足り得る。

 安倍晋三の「侵略の定義は学問的に決まっていない」に対応させた「確定した事実以外は本文に記述しない」に思えて仕方がない。

 「侵略」と言う言葉の抹消である。

 どう見ても、日本の戦争の不都合な部分を隠そうとする意図が見え隠れする。

コメント
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