安倍晋三はバカだから自分では気づかない4月10日衆院予算委の道徳教育無効論と犯罪貧困起因説

2013-05-02 10:38:27 | 政治

 4月10日(2013年)の衆院予算委で山内康一みんなの党議員が道徳教育の効果について安倍晋三と下村博文に問い質している。山内議員の質問に下村が答弁に立ったり安倍晋三が答弁に立ったりしているが、この記事では安倍晋三の自らは気づかない道徳教育不要論を記述するために、下村の答弁は抜かして山内議員と安倍晋三のみの答弁を取り上げる。

 山内議員が各年代ごとの『凶悪犯の少年の検挙人員』と銘打ったボードを出して、年代が下がるに連れて検挙人員が減っている事実を指摘して、教育再生の必要性との関係で追及している。

 『凶悪犯の少年の検挙人員』

        昭和33年  昭和47年  平成3年  平成24年

 凶悪犯 計   7495    2848    1152    836       

  殺人      359     147      76       46

 山内康一「まあ、道徳水準とかは測ることは難しいと思います。そういう調査はやっていないと思いますし、実際、道徳のレベルを統計で取るということは難しいと思います。

 他方で、何らかの別のデータを用いて道徳水準を間接的に評価をする、あるいは傍証として考えることはできるかなあ、と思います。それで一つのデータとしてお見せしたいと思います。

 凶悪犯の少年の検挙人数というデータを用意させて頂きました。よく教育再生を訴える人というのはですね、大体青少年の凶悪犯罪は増えていることを主張する方が非常に多いです。教育が荒廃しているから、青少年の犯罪が増えていると、そういう主張をする方が大変多いわけでです。

 そこで、少年の凶悪犯の検挙人数データを見て頂きたいと思います。ここで言う凶悪犯の定義は殺人、強盗、放火、強姦、凶悪な犯罪です。それから少年の定義は14歳以上、20歳未満となっております。

 こんな中でですね、例えば昭和33年と平成24年を比べるとですね、凶悪犯罪は非常に減っている。少なくなっているというのが明らかだと思います。

 あるいは殺人のデータを見ると、当初から比べると、今の方が8分の1です。確かに人口が当時と違うということがありますが、仮に人口で補正したとしても、恐らく凶悪な少年犯罪というのは昔の方が随分多かった。

 ということは、事実としてあると思います。そういった意味では少年犯罪の凶悪化を理由に教育再生を訴えるというのは、あんまり裏付けとしては弱いのかなあと、いうふうに思います。

 そして実際ですね、この、実は昭和47年、これはですね、ちょうど安倍総理と下村大臣が少年だった頃、平成3年に私が少年だった頃ということですが、当時、33年に比べると47年が大分減ってますし、今、平成24年はもっと減っているということであります。

 こういったデータを見て、総理と大臣、どのような感想をお持ちになるでしょうか」

 安倍晋三「これはですね、犯罪発生率等はですね、その時代の時代背景なんですが、この段階でまだ貧しかったんですね。

 私は日本はね、そういう中に於いて、えー、子どもたちが犯罪に走らざるを得ないという、そういう経済的な状況といいうのがかなりあったわけでありまして、基本的にはそういう分析がなされております。

 これは少年犯罪だけではなくて、一般の犯罪も物凄く多いですから、昭和20年代までそれはそういうことなんですが、あとは先程ですね、道徳教育をお話しをされたんですが、ではなぜ明治時代に教育勅語を出して、そして修身教育を行ったのかと言えば、それは伊藤博文がヨーロッパを回ってくる中に於いてですね、育家の役割が極めて多いということに気づいたわけですね。

 そしてそれは子どもたちは神様を見ていると。神と自分の関係に於いて罪を犯してはならないと、こういうことだったわけです。ございますが、日本に於いてはお天道さま(おてんとうさま)が見ているということであったわけでございますが、しかし教会が果たす役割をどうすればいいかということを考えた中に於いてですね、教育勅語を当時の陛下が出され、そして修身というものが生まれたということですね。

 その歴史をやはり知る必要があるのですね。では、日本ではどこを(どこで)果たしているのかいうことを考えて頂きたいと、こう思うわけでございますし、そしてですね、私は子どもとのきに、まあ、様々なことを学んだわけでありますが、まあ、ウソをついていはいけないということについてですね、学校で、まあ、例えばジョージ・ワシントンの桜の木、の話も、乃木大将の話なんかも私の地元でよく話をする話なんですが、そういうことが記憶として残って、そういうことをしてはならないな、と、いうことが果たして山内さん、いけないんですか。

 そういうことをしっかりやっていくということが私は大切なのかなあと、こう思っているわけでございますし、そして同時にですね、犯罪の場合は、顕在化しているかどうかということも、まあ、あるわけでございまして、これが一概にですね、いわば、モラルティに於いて、向上していたから、こういう結果になっているということではなくて、この犯罪の多くはですね、大体ね、経済的な理由による、これは。

 少年が強盗に入るとか、え、そういう犯罪なんですね、殆どね。貧しい時代の出来事だったということも認識して頂いた方がいいだろうと、このふうに思います」――

 安倍晋三は先ず前段で、「そういう経済的な状況といいうのがかなりあったわけでありまして」と言って、時代を遡るに連れて少年犯罪が多かったことも、一般の犯罪が多かったことも、その多くが時代的な貧しさが主たる理由となって起因していると主張している。

 このことを逆説すると、時代を下るに連れて犯罪が減少してきたのは国民の多くが豊かになってきたことが起因しているということになる。

 いわば犯罪貧困説を主張した。

 と言うことなら、現在なおなくならない少年の犯罪にしても、一般の大人たちの犯罪にしても、貧困が原因ということになる。今の社会の貧困の代表者は非正規雇用者や失業者、母子家庭生活者等々で、大変失礼な話になるが、安倍晋三の犯罪貧困起因説に従うと、犯罪の多くは彼らが代表していることになる。

 但し彼らの生活を引き上げる政策を実行し、貧困撲滅の効果あらしめれば、犯罪はなおのこと減ることになる。

 と言うことは、少なくとも少年犯罪に関しては有効な対策は学校教育にあるのではなく、政治に於ける経済対策にあることになり、道徳教育は無効ということになる。

 安倍晋三は答弁の前段で道徳教育無効論を展開したのである。勿論、本人はバカだから、そんなことを展開したとは気づいてはいない。

 イジメも度重なって習慣化すると、相手に対する支配を強めることになって過度なイジメ行為に走ることになり、暴力と区別がつかない犯罪化に至るケースが少なくないはずだ。

 当然、イジメに関しても道徳教育は無効となる。

 だが、安倍晋三は前段で犯罪貧困説・道徳教育無効論を展開しながら、中段で道徳教育必要論を展開する矛盾を犯している。勿論、本人はその矛盾に気づいていない。

 西洋に於いては神との関係で自己を見つめ、自らを省みて行動することが犯罪抑止につながっている。日本に於いては「お天道さまが見ている」からとお天道さまとの関係で自己を見つめ、自らを省みて行動することが犯罪抑止につながっているとしている。

 問題は西洋人それぞれば持つ神の有効性であり、日本人それぞれが持つお天道さまの有効性だが、バカに出来上がっているから、そんなことは考えもせずに有効性を絶対前提として答弁を進めている。

 だとすると、安倍晋三が描いている明治時代は西洋に於いても日本に於いても犯罪が存在しない世界となる。

 しかも人間が神との関係で自己を見つめ、自らを省みて行動する西洋の規範の育みは教会の役割であり、それと同じ役割がお天道さまが有効だと言うなら、お天道さまに任せておけばいいものを教会の役割に代わるものとして教育勅語、修身教育を持ち出して、一旦は道徳教育無効論を打ち出しながら、ジョージ・ワシントンの桜の木の話や乃木大将の話を持ち出して、道徳教育必要論を展開する矛盾を犯している。

 自らのこの論理的矛盾にも勿論のこと、安倍晋三は頭のいいことにさらさら気づいていない。

 そして再び後段になって、山内康一がボードで示した『凶悪犯の少年の検挙人員』が年代を下るに連れて少なくなっているのは「これが一概にですね、いわば、モラルティに於いて、向上していたから、こういう結果になっているということではなくて、この犯罪の多くはですね、大体ね、経済的な理由による、これは。

 少年が強盗に入るとか、え、そういう犯罪なんですね、殆どね。貧しい時代の出来事だったということも認識して頂いた方がいいだろうと、このふうに思います」と言って、犯罪貧困説を再度主張している。

 いわば最近の少年犯罪の検挙人員の減少はモラルティの向上が原因ではなく、あくまでも経済的理由――過去に於いては貧困の広範囲状況に応じ、現在に於いては貧困の減少状況に応じているとしている。

 と言うことは道徳教育はモラルティの向上には何ら関与していなかったことになる。

 この原理は明治時代に於いても同じ働きをしていたはずだから(明治の一般庶民はまだ貧しかったはずだから)、教育勅語も修身教育も少年犯罪に何ら有効ではなかったことになる。

 教育勅語や修身教育が無効であったことは、『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)に明治・大正・昭和50年代までの藩閥大物政治家に始まってその他政治家、陸軍を舞台とした陸軍高官、海軍を舞台とした海軍高官、官僚、豪商、財閥、県知事、教師等が相互に絡んだ汚職、贈収賄、スキャンダル等々がゴマンと列記されていることが証明している。

 だが、大人たちの上記犯罪は貧困が原因ではない。それぞれが余りある程のカネを持っていたはずだ。カネを持っていながら、なおカネに卑しい犯罪を犯す。

 このような経緯からすると、安倍晋三の犯罪貧困説は怪しくなる。

 確かに貧困が犯罪に走らせるケースは否定できないだろう。だが、子どもたちが例え貧しくても、自らが持つ可能性に気づいて、あるいは見い出して、その可能性を膨らまして確かな形としていくことを自らの情熱とすることができたなら、あるいは日々の生き甲斐とすることができたなら、イジメや犯罪に走る考えさえ浮かばないだろう。

 いくらどのような道徳教育を施そうとも、ウソをつくな、カネをゴマ化すな、イジメという方法で他人を攻撃するなと口うるさく言い諭しても、自らの可能性が何であるか分からずに学校生活を無為に過ごしていたなら、イジメ等歪んだ行為を自らの可能性とし、そのような歪んだ可能性を自己実現の手段としたとしても不思議はない。

 本質的には道徳教育の問題でもなく、貧困の問題でもなく、可能性の問題であるはずだ。

 お笑いタレントを目指す若者が下積み時代、一日カップラーメン一つの食生活しか許されない貧困を味わいながら、その貧困に負けないのは、中には負けて犯罪に走る若者も存在するだろうが、自らの可能性を信じて、いつの日かの自己達成を夢みて挑戦することに日々充実感を得ているからだろう。

 貧しい時代の子どもたちも社会に役立つ何らかの可能性を自らに見い出していたなら、易々と犯罪に走ることはしなかったはずだ。

 道徳教育にカネや時間を費やすことよりも、テストの能力と部活運動能力に恵まれていない子どもたちの可能性を見つけてやることに時間とカネを費やすべきだ。

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