ミャンマー訪問中の安倍晋三が5月25日、拉致問題について日本テレビの単独インタビューに応じている。《日朝首脳会談、拉致全面解決が条件~首相》(日テレNEWS24/2013年5月26日 1:10)
北朝鮮の金正恩第1書記との拉致解決に向けた首脳会談の可能性について。
安倍晋三「首脳会談のような重要な外交的決断をする上においては、しっかりと結論が出ると、拉致問題についても、もちろん、核問題やミサイル問題も、ある程度の展望があるということでなければ、そもそも行うべきではないと思っている」
記者「拉致問題で展望が開けそうであれば自ら北朝鮮を訪れることもあるのか」
安倍晋三「話し合うための話し合いは意味がない。金第1書記との首脳会談を行うとすれば、会談で拉致問題の全面解決という結論が得られることが条件となる」
記者「核・ミサイル問題と切り離して拉致問題の解決を先行させる可能性は」
安倍晋三「平壌宣言にあるとおり、拉致・核・ミサイル問題を包括的に解決して日朝関係を正常化するという基本線を変えるつもりはない」――
一部解説を会話体に直す。
これが一国の首相でございますと言える程の外交センスというものなのだろうか。「首脳会談のような重要な外交的決断をする上においては、しっかりと結論が出ると、拉致問題についても、もちろん、核問題やミサイル問題も、ある程度の展望があるということでなければ、そもそも行うべきではないと思っている」と言っている。
「結論が出る」状況、「ある程度の展望がある」という状況をつくり出すのが自らの支配下に置いた外交集団の役目であり、外交集団がそのような状況をつくり出すことができるかどうかは偏に彼らに対する一国の首相の外交上の創造性と主導性の発揮如何にかかっているはずである。
いわば待ってつくることができる状況ではないはずだが、発言は状況が熟すのを待つニュアンスとなっている。これでは何のために一国の首相の座についているのか意味を失う。何のために国民の生命・財産を守ると言っているのか、その言葉の力を疑う。
外国に拉致されている国民の生命・財産を守るについては国内に於けると同じように自身の方から守る策を講じなければならないはずだ。
当然、自らの外交上の創造性と主導性の発揮に恃(たの)まなければならないはずだが、発言からは、情けない限りだが、力強い創造性と主導性は一切窺うことができない。
大体が安倍晋三はそういった状況をつくり出すために指示して飯島参与を訪朝させたはずだ。だが、失敗してつくり出すことができなかった。
その結論が、安倍晋三は盛んに再チャレンジという言葉を使うが、解決の結論と展望を望むことができなければ首脳会談はできない、行うべきではないと、常々言っている再チャレンジの精神とは正反対の状況を待つ姿勢に転じた。飯島訪朝が失敗したために羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く類いの消極性への転進としか言い様がない。
何というい外交センスなのだろうか。一国のリーダーが担うべき国家運営の創造性と主導性の放棄でしかない。
いずれにしても安倍晋三は首脳会談開催の条件として解決に向けた結論と展望の可能性を条件とした。記者はこのことに応じたはずだ。「拉致問題で展望が開けそうであれば自ら北朝鮮を訪れることもあるのか」と展望の可能性を条件とした場合の結論を得るべき訪朝の可能性を質した。
そうである以上、直ちに「勿論」と答えるべきを、いわば結論と展望の可能性を前にして「話し合うための話し合いは意味がない」などと、記者が提示した可能性とは無関係な意味不明の全く以ってトンチンカンな、カッコーをつけるだけのことを言っている。
この頭の程度も凄い。
そしてやはり、「金第1書記との首脳会談を行うとすれば、会談で拉致問題の全面解決という結論が得られることが条件となる」と、自らの外交上の創造性と主導性に賭けて外交集団を駆使し、そういった状況を招き寄せるべく努めるのではなく、自分が望む状況が熟すのを待つニュアンスの、一国のリーダーにあるまじき消極的な姿勢を示している。
飯島訪朝の失敗は余程の羹となったようだが、同時に安倍晋三の外交センスの低劣性を世に曝すこととなった。