安倍晋三は第1次安倍内閣時もそうだったが、今内閣に於いても、「美しい国」を小鳥の喧しい囀りのように囀っている。先頃4月28日の主権回復の日の式典式辞の題名そのものが「日本を良い美しい国にする責任」となっていて、その中で「美しい国に」ついて次のように触れている。
安倍晋三「私たちの世代は今、どれ程難題が待ち構えていようとも、そこから目を背けることなく、あのみ雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっと良い美しい国にしていく責任を負っています。より良い世界をつくるため進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が私たちにはあるのだと思います」――
「あのみ雪に耐えて色を変えない松のように」とは昭和天皇が敗戦後昭和21年の生活困難なときに詠んだとして前以て紹介していた歌、「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」のことである。
『美しい国へ』という著書も著(あらわ)している。余っ程日本を美しい国にしたいようだが、国とは人間の集団であり、人間は自己利害に応じて美醜様々の姿を取る。一人の人間の中でも美醜を兼ね備えていて、同じく利害に応じて美醜それぞれを使い分け、演じる。
いわば美しいばかりの人間は見かけ上は存在するかもしれないが、実質的には存在しない。ウソをつく利害に迫られれば、いくらでもウソをつくのが人間である。だから犯罪はなくならない。
政治家が権力闘争を勝ち抜くために使う権謀術数もウソを重要な武器の一つとしているはずだ。美しいばかりでは権力闘争を勝ち抜くことはできない。
不利が予想される選挙で当選するためにそれまで所属していた政党を捨てて対立政党の支援を望み、有利な選挙へと転換を図る損得計算も自己利害ばかりが目立って、決して美しいとは言えないはずだ。
世界のトヨタにしても、下請叩きの下請泣かせを相当にやらかしているはずだ。
厳密に「美しい国」を成り立たせるとしたら、美しいばかりの人間を掻き集めなければ成り立たない。利害に応じて美醜を使い分けるのが人間存在であるなら、「美しい国」を言うこと自体、認識能力の程度を窺うことができる。
要するに安倍晋三は人間行為を取り締まる法律の要らない国を夢見ていることになる。国民栄誉賞以下、美しい人間の美しい行為を褒賞する基準を定めた法律だけが残ることになる。何と言っても美しい人間ばかりが集まった美しい国ということだろうから。
あるいは格差も不公平も差別も存在しない国を夢見ていることになる。
「美しい国」と言うためには格差も不公平も差別も存在してはならない。存在したなら、「美しい国」とは言えない。
第1次安倍内閣では、「美しい国づくり」プロジェクトを推進し、〈安倍内閣では、皆さんとともに目指したい、新しい、私たちの国のかたちを、 活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」と考え、そして、この私たちの国の理念、目指すべき方向を〉と言って、次のように「美しい国」の目標を掲げている。
1 文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
2 自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国
3 未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
4 世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国 と考えています。
そして、〈「美しい国、日本」は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この「美しい国、日本」を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたいと考えています。〉と締めくくっている。
以上のことは安倍晋三は現在でも口にしているお題目である。
1の「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」は日本のこれらの要素をすべて善と把え、2の「自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国」は日本人的存在を善と把えている。
「大切にする」とは、大切にする対象を善と把えて、善を前提として可能となる行為であり、「悪しき文化、悪しき伝統、悪しき自然、悪しき歴史を排除し、善き文化、善き伝統、善き自然、善き歴史を大切にする国」と、善悪比較対照した客観性を持たせた上に利害に応じて美醜を使い分ける人間の現実の姿を反映させて取捨選択を求めているわけではない。
いわば安倍晋三が希求している「美しい国、日本」は最初から到達不可能な虚構の世界だということである。
後者にしても、規律を知る日本人ばかりではないこと、凛とした日本人ばかりではないことを窺わせる文言は存在しない。日本人的存在を善と把えているからこそ、「規律を知る、凛とした国」は言及可能となる。
このことは「『美しい国、日本』は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この『美しい国、日本』を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたい」と言っている文言にも現れている。
日本人的存在を善と把えているからこそ、「美しい国、日本」を日本人一人一人の中にあるとすることが可能となる。
とても安倍晋三という人間の中に「美しい国、日本」が存在しているとは到底思えない。
日本という国を善なる国家だと前提としたとき、あるいは日本人を善なる存在だと前提としたとき、いわば自国や自国民に対する客観性を欠いた、あるいは人間の現実の姿を欠いた肯定一辺倒の位置づけが日本国家の優越性、あるいは日本民族の優越性を日本人の意識の中に誘発しない保証はあるだろうか。
あるべき国家像は否定に対する、あらねばならないとする肯定でなければならないはずだ。あるいは否定を改めてあらねばならないとする肯定を目指す構造としなければならないはずだ。
常に否定的側面を避けることができない人間の現実の姿に目を向けないことで成り立たせ可能となる虚構を出発点とする国家建設となるからだ。
既にあるとした肯定を前提としてさらにあろうとする肯定を積み重ねる肯定の二重化は否定的要素を隠す肯定一辺倒となる。否定的要素を隠した肯定一辺倒とは優越性の表現そのものであろう。
このような優越性表現は金正日や金正恩が国家指導者として否定的要素の隠蔽と否定的要素に代わる自分たちの優越性一辺倒を様々な手段を使って印象づける国民洗脳の情報操作にも見ることができるはずだ。
安倍晋三は日本という国も日本人という存在も美しく彩ろうとしている。「美しい国、日本」と日本国家と日本人を美しく彩るとき、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」(『美しい国へ』)と言っていることと、あるいは「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。
この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた」(2012年9月2日日テレ放送「たかじんのそこまで言って委員会」)と言っていることとの整合性を取ることができる。
「美しくない国、日本」と言ったなら、「日本の伝統と文化、そのもの」のと言っている皇室の存在そのもの、安倍晋三が崇拝して止まない天皇の存在そのものを否定することになるからだ。
いわば安倍晋三は天皇を優越的存在とすることによって、日本という国と日本人の優越性を天皇に代表させている。天皇の優越的存在と見合う「美しい国、日本」であり、日本人と言うわけである。
安倍晋三の「美しい国、日本」は天皇と日本と日本人の優越性を前提とした国家像だと言うことである。
戦前の天皇絶対主義、日本民族優越主義と何ら変わらない思想を安倍晋三は自らの血としている。例え戦後生まれであっても、その結末を見たはずだが、今なお戦前の思想を引きずって、自らが求める国家像としている。
その危険性を考えなければならない。