今まで学校教師を含めた指導者の児童・生徒・部活部員に対する体罰関係のブログ記事を何度か書いてきたが、かなりの部分、重なる文言があり、同じ繰返しとなるかもしれないが、思ったことを書いてみたいと思う。
元Jリーグ選手西脇良平(33歳)が自身が仲間と共に2006年に設立した小学生や中学生向けのサッカークラブNPO法人「FCアルマ大垣」所属の中学2年生(13歳)の男子に体罰を加え、両腕骨折の3カ月の重傷を負わせて傷害容疑で逮捕されたという事件を次の記事から見てみる。
他の記事が2009年には全日本少年サッカー大会岐阜県大会で初優勝に導いていると書いている。
《元Jリーグ選手“熱血指導”裏目か わが子を強く「親も容認」傾向》(MSN産経/2013.4.11 22:12)
記事。〈合宿の練習試合の合間に暴力が振るわれたことから、プレーや言動に対する体罰だった可能性が高い。なぜ行き過ぎた指導が行われたのか。〉――
他の記事によると、男子中学生の両腕を蹴り上げて、両腕骨折の重傷を負わせたと伝えている。西脇良平が身体を宙に浮かせる形で一度に両足を蹴り上げて男子生徒の右腕、左腕を同時に骨折させることは不可能だろうから、右腕か左腕かどちらかを先に蹴り上げ、そのあと右腕か左腕か、もう片方を蹴り上げて合わせて両腕の骨折ということであるはずだ。
片腕で終わらせていないところに執拗な念入りさ――悪質さを感じないでもない。男子中学生が練習試合中、ボールを両手で取る形になって、ハンドでもやらかしてしまい、それで両腕を体罰の攻撃対象としたのだろうか。
腕に痛い思いを焼きつければ、二度とハンドはしないだろうとばかりに。
さらに別の記事によると、男子生徒は午後の試合にも出場したという。西脇良平の指示によるのか、男子生徒が自分から進んで黙って出場したのか分からないが、どちらであっても、西脇良平の持つ、あるいは普段発揮している強制性はかなり強いものがあったことになる。
西脇容疑者(供述)「指導の一環だった」
要するに正しい指導だという認識を持っていて、その認識のもと足で選手の腕を蹴り上げた。
尾関孝昭岐阜県サッカー協会専務理事(55歳)「子供たちに厳しい言葉を浴びせることで有名だった。熱血さが裏目に出たのでは…」――
「厳しい言葉」、「浴びせる」、「有名」と言っている3つキーワードから解釈すると、選手を自分のところに呼んできつい言葉で叱るといった指導方法ではなく、遠い位置から日常的に激しい言葉をかけていた指導方法を窺うことができる。
問題は、「バカヤロー、何度言ったら分かるんだ。言われたことが何でできないんだ」とか、「お前、バカか、言われたことを言われた通りにやれっ」といった罵声を日常化させていなかったかである。
一般的には罵声の日常化から体罰へと発展する。罵声だけでは抑えきれなくなって。
勿論、自分のところに呼んで叱るにしても、遠いところから罵声を浴びせる指導と同じであったなら、単に距離の違いだけで終わることになる。
何度言っても改まらないプレーは改まらないプレーをしてしまうその選手に特有な場面を他の選手を交えた敵味方の攻防の形で設定して反復練習で、監督だけではなく、他の選手のアドバイスも受けながら身体と意識に覚えさせるしかないはずだ。
それを怒鳴ったり、罵声を浴びせたり、平手打ちやその他の体罰で改めさせようとすることに指導の合理性を見い出すことができるだろうか。
但し気をつけなければならないことは反復練習も過ぎると、疲労から反応が鈍くなって思うような動作ができなくなり、いわば動きにキレがなくなり、判断能力も鈍くなって、改まらないプレーの修正に逆にブレーキをかけることになるから、注意が必要となる。
岐阜県サッカー協会専務理事は「熱血さが裏目に出たのでは…」と言っているが、「熱血さ」とは怒鳴ったり、罵声を浴びせたり、体罰を加えたりの見た目の熱心さではなく、例えそういった指導方法によって好成績を上げることができたとしても、科学的な合理性を備えた指導方法かどうかを基準として測るべき価値観であろう。
人一倍熱心に指導しているすべてが熱血というわけではあるまい。
玉木正之スポーツ評論家「野球や柔道に比べ、サッカーは体罰が少ない世界。サッカー界全体の問題ではなく、個人の資質によるものではないか。
最近ではむしろ保護者が『厳しく指導してくれ』と要望し、コーチらにプレッシャーをかけるケースが多いと聞く。自分の子を強くするため、多少の暴力を容認する傾向が体罰を生む土壌となっているのではないか」――
記事題名を読んだとき、「FCアルマ大垣」所属選手の保護者が容認していた体罰指導かと思ったが、一般論として述べた“親容認”を記事題名に使ったことが分かった。
勿論、「FCアルマ大垣」所属選手の保護者の中にも体罰を含む厳しい指導求める親も存在するかもしれない。
だが、例えそれが指導者の助言からの才能の発展、あるいは才能の開花であっても、単に助言に言いなりになるのではなく、あれこれ試行錯誤の実践の末に自分自身の才能としていく形態の、自分で考え・判断する主体性と自己責任を介在させた内発的な自己達成と叱られたり、体罰を加えられたりして発奮して力を発揮する外発的な自己達成とでは人間的な能力の点でも運動能力の点でも、この二つの能力が相互影響し合う関係にある以上、どちらが身につくかは明らかに前者であって、後者との間に自ずと大きな違いが出るはずだ。
指導者側から言うと、指導相手自身の内発的な自己達成と外発的自己達成のいずれが本当の意味での能力を身につけさせることが可能かは外発的な自己達成が罵声や体罰の指導が一般的には延々と続くことが証明している。
今井文男東京学芸大教職大学院特命教授「元プロ選手が指導に当たる場合、『試合に勝ちたい』という自らの思いが先行、行き過ぎた指導に発展してしまうことがある」――
プロだった選手が指導・監督を引き受けると、プロだったという前歴に応じた成績を、あるいは選手時代の能力に応じた成績を上げ、それを当たり前としなければいけないという強迫観念に駆られて、指導しているチームがそれ相応の成績を上げなかったり、あるいはたった1試合のことであっても、負けたりすると認め難い気持が起こって、つい怒鳴ったり、殴ったりしてしまうケースもあるに違いない。
しかも2009年に全日本少年サッカー大会岐阜県大会で初優勝に導いている。当然、それが基準となって、上位大会への出場、さらには上位大会での上位進出、さらには優勝、その段階以下の成績は許されない・許さないという強迫観念に自らを追い込み、チームの選手にもプレッシャーをかけることになった可能性を疑うことができる。
だが、成績は監督の采配や指導者としての選手育成の能力も然ることながら、優秀な能力を持った選手に恵まれることが重要な条件となる。
この両者が相まって、成績を得ることができる。いくら選手育成の能力があろうと、集まった選手自身の総合能力の程度に応じて育成に限界が生じる。
他のチームから優秀な選手をスカウトしてチームの能力不足を補うことが可能なプロスポーツでない以上、育成に関わる限界の見極めが必要で、最初に見極めた能力以上に選手自身の主体性と自己責任に基づいた内発的な自己達成からの能力の底上げにこそ、目標を置いていたなら、選手の腕を蹴り上げて骨折させるといった事態は起きようがなかったはずだ。
例え優勝できなくても、あるいは下位成績で終わろうとも、内発的な自己達成は選手自身の人間的な能力を高めることを伴う
だが、そのような指導方法とはなっていなかった。
石井昌浩教育評論家「熱血コーチだからといって、暴力が許されるものではない。スポーツも教育の範疇(はんちゅう)だから、両腕骨折という結果の重大性からみると、明らかに教育から踏み外している。
刑事事件化により、本来の意味での熱血教師まで萎縮させることがあってはならない。事件化の判断には暴力なのか指導なのかの峻別(しゅんべつ)を慎重に行うべきだ」――
「本来の意味での熱血教師まで萎縮させることがあってはならない」と言っているが、どのような指導を以って「熱血」と言うのか、明らかにしなければならない。
児童・生徒・部活部員・選手が自分で考え・判断する主体性と自己責任に基づいた内発的な自己達成に期待し、そのような姿勢に導くことのできる言葉を駆使できる指導でなければ、私自身は熱血教師など要らないと思っている。