花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

戴いた命を生きるという事

2021-05-05 02:46:26 | Weblog

昔から、、、医師になる人は、、、心から、医療が天職と考える前に

      患者さんの病気に寄り添って、病魔と闘っていた病人を支えていたという

      医者として生まれてきたような、、、不思議な存在でした。

 

はた目には医師の家族はリッチで、

          贅沢で、家族は得ばかりしていると

                           誤解されていたようです。

 

医師本人は、「医師をすること」に、

                              自分が命を賜った何かを感じて、

                  それだけに生きてゆくような人が、、、父だった。

 

子供からはそのように言えても、、、

 

父の方から言うなれば、

                  一口にはいえない、、、

                             命の瀬戸際で、自分の役割に気付き

                           目の前の、、、消えそうな命と、

                                           無心に戦う時間が

                                       次から次へと、、

                            間断なしに続いただけの

          人生だったのかもしれませんが、、、

                         

 

家族は、嫉妬をされることが多かったのを、覚えています。

    一番ショックだったのは

       クラスには

          なんでも解決してしまう男子生徒が居ました。

   戦争未亡人のお母さんに育てられていました。

お母さんは、女手一つで

    息子達を守るのに必死だったのではないかと

       大人になってから、思い出すと納得がゆくのですが

  小学生だった私は、

      顔がこわばってしまう言葉を

           聴いてしまったのでした。

 一年生になって、

           クラスは先生のおかげで

     みんな仲良く交流していました。

放課後の帰り道は、

           皆が顔を覚えるまでの間

             その男子生徒と、私がクラスの世話役として

        校庭の外の出るまで、学友を見送るという

       二人でクラス委員を任命されました。

 

    放課後の道路で、

     その男の生徒と母親にすれ違いそうになりました。

  同じクラス委員になったばかりで、

        私の方から、、、親しみを感じて

     お母さんにも親しみを感じて、

         近づいていったとき

   その子も、、、笑顔で、

    私の所に駆け寄ってこようとしてくれました。

           

    そのとき、その子のお母さんが、

       近づこうとする息子の手を離さないまま

    小声で言ったことが、、、

    私にも聞こえてしまったのです。

         悪気が無いのは、、

       子供の私にも判りましたが

        ショックだったことが、忘れられません。

  

     子供たちは仲良くしていても、、、、

        大人達の考えは違っていました。

      

    なんと言ったとおもいますか?

 

      ≪--≫  (--)  (。。)

 

     「医者の子に、関わったらあかんで!!

        何かあったら、村に住めんようになるよ!」

 

      確かに、、、七か村に、、、

         一人しかいない医師かもしれない。

            かといって、、、私自身は

     「父の希少な存在」を振り回すような知恵は無かったから、、、

      何のことかわからなかった。

 

       せっかく走り寄ってくれそうな気配だったのに

       お母さんに引っ張られて、去っていった。

 

       ちいさくなる姿に向かって、、、

      「また学校で、ね~~~!!」

        「。。。」

       男の子は振り返りながら手を振ってくれた。

 

       私は、自分から話しかけなくなったのは

       この時からのような気がするのです。

 

    他の家の人のように、

                 運動会も、

                    入学式も、

                       学芸会も、、

                           参観日も

    父の姿は生涯一度も見たことはありません。

            

     終戦の頃の疎開地は、どこにも医師が居なくて

    東京から医師が来るというので、七カ村の住民は

      にわかに、医療施設の近くに集まってくるという

    健康への安心感を、医家に多くの人が求めているかを

    知ったのも、、、

    おばさんの、、、ショックな言葉からでした。 

 

  肝心の父の性格は、

       最後まで、、、

       私が解るレベルに到達することが無いうちに   

         19歳の時、、、過労で急逝してしまいました。

      疎開地を離れるまでの父の思いでは

              忙しく働いている姿と、、、

          青年に囲碁の手ほどきを頼まれて、

           青年がいつまでも待っていたのに

            患者さんが次々とくるので             

           やっと夜になって一段落すると、、

     患者さんに追いまくられて、、、

                             死んだふりを、、、しばしばしては

                    家族をびっくりさせました。

 

         夜中になって、祖父と囲碁を始めて

        9目おいて、、、祖父が、「那智黒の石」

                おまけに祖父が先手で

           白いハマグリの石に

           最後の一手でいつも祖父の負けでした。

    一手で負けた祖父は、、、「もう一回!」

    朝方まで勝負を迫り、、、父は、一手で勝つのですが

     祖父が、、、止めるまで、、、相手になるので

      深夜になるころ、、、

       母が、囲碁を辞めさせることで

       碁石が音を立てて、仕舞われるのでした。

          

      たまの休みも、父は寝不足でした。

     年中、、何処にも行かず、、、

                               診療している、

、、      

当時の健康保険は、世の中を救った抗生物質の出現で

、神は患者さんを見捨てなかった!!、、、と

    多くの感染症も、伝染病も、化膿も治癒に向かいました。

 

しかし、、、

     高価薬だった時代でもあり、

厚生省は、健康保険と言う制度を設けて、

医学的見地はともかくとして、、、

      遣う薬の量を制限してきました。

 

「外科」と言う標榜をしていたため、

抗生剤が必用でしたので、自腹で

        薬はある期間中、飲み切らないと

             途中でやめると、

     いろいろな医療上の可能が起きたりするのを防ぐため

    自腹を切ることで一定の期間を飲み切ってもらえるという為、、、

      治りきらないうちに、薬を辞めると

        病原菌が強くなってしまい、

          治癒しきらないうちに、次の感染症にかかたりすると

         いつまでも、治らないで、

       医師のセイにされてしまう事もあるようです。

         治りきるまで、一定の間、

     高価薬は代金は医師の自腹を切るという事になっていました。

      手術の後の薬代は医師が負担していた時代です。

         国は、貧乏だったのでしょうね。

          高価薬は払える所から代金をいただくという

          暗黙の、医療と言うよりは、

            暗黙の、寄付と背中合わせの時代でした。

 

            戦後の日本は貧乏でした。

 

医療費も、払えない患者さんがいっぱいでした。

入院しても、完治して退院の決算前に、姿は居なくなってしまっていたㇼ、、、

父は、まるで、、、慈善事業のように、、、

患者さんを追いかけてまで支払ってもらう事は

一度もありませんでした。

、、、患者さんを我儘にしてしまうことになるのでしょうね!?

 民衆は、、、医師にかかって

          薬をだしてもらい

   「なぜ?医療費を支払うときに、

        医者はもうかっているとおもうのだろううか?」

 

      故なき嫉妬や、お金持ちだという誤解や、

      故なき、困った存在に成ったりしました。

     

 

   「医療チームの皆に

       患者さんが頭を下げて集まるのは

      医療チームのスタッフや、    

       医師に頭を下げているんではないのだよ、、、」

  患者さんは、「自分の命」に頭を下げているだけだから、、、

 

     お父さんを、神様と間違わないでね!(^^)Y

 

        母も、父も、、、この言葉を時々、、、言っていました。

  子供たちが、他人の子供たちから、このような言葉を聴く前に

      言葉の予防注射を受けました。

終戦で、いろんな国に、借金が出来た日本は、支払いの為に

   お金の動いている施設からは税金がとれるので

戦後の医師への税金は、納税すると、

来月の為に購入しなければいけない薬も、医療道具も、手術の為の備品も

支払いが遅くなり、、、あたかも、、、お金があるのに、支払ってくれない、、、と

誤解する外交の人もいました。、、

、商売っ気のない人が

    開業は、必要品の購入に追われて、

      支払いが遅れたリすると、

    支払いが滞て、薬の問屋さんンは、、、困ったのではないでしょうかね?

お金があるのに、、、払いが遅いと、、思ったKもしれませんね。

  医療施設の開業は、商売っ気の無い父をストレスに浸らせていたかもしれません。

従業員への支払い、、、

看護婦さんの不足、、

   貧乏な人ほど、病気になりやすく

     治療費が戴けない患者はサンには、、そのままと言う事が普通だった戦後でした。

それでも、戦後の疎開地では、

   食事にも事欠く人が多く

      診療所の近くの商店のおばさんは

        3人のお子さんを道連れに

             自分で命を絶ってしまい

                村中がしょんぼりしたこともありました。

 

   疎開地では、、住みを焼いていた叔父さんが、

                 家族全員で、あの世に旅立ってしまい

               子供心に、、、我が家は贅沢したことも無く

                   娯楽は、田舎芝居と

                時々かかる映画しかなかったのですが

               食べるのに困るという事は無かったので

              妬まれても仕方がない、、、当時の戦後では

             私は、医者の娘と言う事で

            嫉妬の目で見られることは、、、

       仕方のない、、、時代が、、、そうさせたのでしょうね。

         終戦が原因の、貧困の時代でした。

                

 

物ごころつく前に

自我が出た時に

まるで、私自身が、片手を握ったまま生まれたように、

右手に、火傷が有りました。

指が掌にくっついて

右手で使えるのは親指と

掌で引っ張られてクの字に曲がった人差し指だけでした。

掌には肉団子の様な柔軟性のある肉弾ががくっついていました。

 

私は幼かったので、ウサギに耳が在るように

私の手には肉団子がくっついているという

   そういう生き物が、、自分だと思っていました。

 

なぜ??悩まなかったのかって???。。。

 

この写真は、疎開でにわかに人口が爆発的に増えてしまった無医村に

医者が居る、、、と言う事で、診療所のお客さんになった人たちの一部です。

戦争が終わって13年目の南紀の村に住んでいらっしゃった

、、、父の所に来ていた患者さんです。

幼いころの小学校は戦後

「団塊の世代へのプレリュードの様な時代に生まれた私のクラス」は

疎開地の山村とは思えない人数の多いクラスでした。

それでも40人は居ませんでした。

一年生全員で写真を撮影したのが、懐かしい思い出となって残っています。

 

この村で私の母は生まれて、

7歳で生母を、、、感染症の「死の病」と、当時は恐れられていた結核で失いました。

私にとっての、、お婆ちゃんにあたる人ですが、、、

私がお婆ちゃんと呼んでいた人は、、、

お爺ちゃんの、

アメリカで亡くなった

実兄の奥さんだという事が解ったのは、、、

13歳になって、この村を離れるときに知りました。

私たち家族が、13年間の「無医村の御奉公」を終えて

東京に引き上げる日が来たとき

お爺ちゃんは、一緒に東京に向かって

父の故郷に同行しましたが

お婆ちゃんは、村に残り、

和歌山県庁に勤めていた、甥っ子夫婦を養子に迎えて

御爺ちゃんの持っていた山とか、洋館とか、田畑を引き継いで

村の財産になるもんは、和歌山県のモノなので

和歌山に生きる甥っ子に相続させたいという事で

お爺ちゃんは

「自分には、公務員の一生だったので、恩給と言う物がある」からと

家も,ヤマも田畑も、一族の集落に置いて、

娘夫婦である、私の父母と一緒に上京しました。

お婆ちゃんは、東京の開業の時にも

当時の金額で、50万円を居爺ちゃんの娘にあたる、私の母に

出世払いで好いからと、、、旦那さんに、貸してくれたそうです。

 

当時の50万円は大金です。

戦後の焼け野原の東京に、陣地と呼ばれていた、、、

バラック小屋の立ち並ぶ江戸川べりに近いお寺の跡に

40歳なかばをすぎて、、、

男子3人,女子1人、舅、と母の7人家族と

 

舅が和歌山から連れてきた、母の弟家族6人、

 

戦後、学徒出陣んで帰国できたあと、

28歳で、早稲田の理工学部に入学した父の弟夫婦の

 

大所帯のほかに、

    大学生の書生さんが2人、

      住み込みの准看護婦さんと、

       台所を専門に働いている、、、女のひとが3人と

お寺のあとを、開業の医療施設に替えてゆく、

住み込みの大工さんが一人

   実に腕一本が、職人さんの輝く技術で

 いつの間にか、患者さんが来る、、施設を、、、作り上げたのでした。

        

                    つづく

    


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