私は、、、19歳だった、
54歳の父が、煙になって空に昇ってゆくのを見て、
突然の現実を受容できなかった。
涙が止まらなかった。
なくなる前日にMTさんの手術を成功して
麻酔が切れるまで、起きているからと、、、言って
それっきり、、、、
本人も死んだのに気が付かないのではないかと思うほど
早朝、ゆったりとした表情で、眠っていた。
5時前だったと思います。
父が外科医、兄が内科医、親子のコンビで
患者さんは毎日毎日
待合室にいっぱいだった。
母は、突然のことに忙しく手配しながら
「お父さん、、、ずるいよ~~~
子供たちは、まだ大学生と、高校生なんだからね、、、
起きなさいよ、、、私だけに押し付けて、、、」
しばらく、天下泰平な顔で昇天してしまった父に
母は、、、文句を言っていた。
婦長さんの正看護婦さんが
父の足元に正座して、いつまでも、、、父を見守っていてくれました。
初七日。。。49日、、、100日、、、
水栽培中だったサフランが、たった一日で球根から花に化けた。
信じられない勢いで花が咲いた。
父とそっくりの容貌をしている叔父さんが
大勢集まってくださった患者さんたちを、バスの前までいざないながら
火葬場まで、どうしてもついてゆきたいと
涙ながらに、帰らない患者さんのために
母が、、、バスを用意しましたからと、
挨拶をしながら、
「大先生の後は、若先生が、継ぎますので、、、、」と。
早稲田を父に親代わりになって卒業まで応援してもらった叔父さんは
長男よりも、父のすべてに全力で、走り回ってくれました。
父は54歳で、、、惜しまれて突然、、、死んでしまいましたが、、、
戦争に行っていた身体は、帰還したとき
細い骨と皮の姿が、軍服を着て映っていたから、
急に、、、椅子に座って、
診療所から出ない生活が、
運動不足のコレステロールの血管に
なっていたのかもしれません。
育ち盛りの男の子3人と、娘が一人、
3人とも、医者の父のおかげで私大に通っていた。
ストレスも多かったことだろう。
弟だけが高校生で、医学部希望の詰襟の高校生だった。
父が、、、突然、、、いなくなった弟は
本当に頑張ったと思いました。
千葉大学の医学部から
合格の、電話を受け取ったのは
偶然ですが、、、私でした。
「合格だって、、、!」
父が死んでからの受験は、
確実な国立を一つだけしか
受験していなかっただけに
受話器をお用途に渡すと、、、
「はいはい、、、ハイ、、、ハイ、、、」
ハイばっかり言ったあと受話器を置くと、、、
「お姉ちゃん!まさか、、、誰かのいたずら電話じゃないよね、、、!」
「千葉大からだよ!間違いないよ!、、、
電話を取ったとき、、、確かに千葉大の医学部って言ったよ!」
弟は、、、初めに電話を取ったのがお姉ちゃんで
千葉大まで、一緒に来てくれという、
いたずらだったら、、、許さないと言わんばかりの不安顔だった。
「本当だってば、、、!合格だよ!合格!」
結局、、私も千葉大まで同行することになり、
「ま、、、!、、、いいか!、、、すごくお目出度いことだし!」
千葉大につくと、弟は、一人で駆け出した、、、にこにこしながら帰ってきた。
「本当だった!、、、受験ナンバーがしっかり、確認できた、」
兄弟で、大学の合格を確認しにいた思い出は、、、今となっては懐かしい。
きっと、亡き父が、自分は体が無いので、私に乗っかって
合格を喜びについてきたのかもしれません。
父は、早逝しましたが
自分がやり残したことを、弟にしっかりとバトンを渡してゆきました。
国立がんセンターで
団塊の世代の一人として
医学の分野で、なみなみならない努力を続けてきてことは
遠く北海道に嫁いだ姉の私にも
新聞や、TVや、外国の雑誌を媒介に伝わってきて、
孤独な北海道に、弟だけは
すぐそばにいるような、近しさで過ごしました。
友人と、突然泊まりに来てくれたり、、、
奥さんと子供を連れて遊びに来てくれたり、、、
学会で、ロイトンのホテルで講演をしたり、、、
同じ母のお腹から産まれたとは思えないような活躍に
私は、日本にCTを普及させたコロンブスと、、、勝手に愛称で呼びました。
「柳田邦夫さんの、がん回廊の朝」をはじめ
弟が出ている単行本は全部買いました。
父の写真と一緒にしまってあります。
先日、、、茶の間の国会討論で
阿部首相が「民主党に変わった政権のことを、、○○▽×、、ウンヌン!」
野党が「取り消しなさい!、、、」
まるで、、、国会劇場のようなワンシーンに
苦笑しながらTVを見ていましたが、
国立がんセンターで、活躍していた弟も、
政権交代のさなかに定年が近づいてきて、、、
理解できない、激動の政権交代の津波の中で
50年間、しっかりと記録し続けたことも、研究も
独立法人になったときに、研究は国家予算が必要な分野なので
継続は考えられなくなったと
悩んでいました。
私には、高度な分野だけに、
推測することすらわからない次元の高さですが
すべてを捨てる前に、
びっしりと整理してフアイルにしてあったものを、
題目だけでもメモっておきたいと、
思ったぐらいです。
時代の移り変わりというのは、、、無情なものですね。
CTの時代が来るまでに、自分のことも、家庭も
すべて振り返るまのなかった研究が
今日の、
世界に羽ばたくがんセンターになった
黎明期の勇者が
先代の苦労も知らないで
「余は、、、生まれながらの将軍だ!、、とばかり、、、」
弟が定年した後のがんセンターで、
時代の波を受け継いでゆくのを
喜びとも、、世代交代の、、、仕方のない無情ともつかぬ感情で
自分が、家庭という孤島のような船底で
雪を掻きながら過ごしてしまったけれど。
柏の国立がんセンターが建設される頃、
いろいろの分野の方々と、会議会議で
その活躍は、体力勝負の限界まで頑張っていた若き日の弟が
亡き父の可愛がっていた「戦争を知らない団塊の世代の一人であり、、、!」
このパワーが、戦後の日本を復活していったと、
弟を通して、、、団塊の世代に感謝がわいてくるのです。
その当時、、、私は、、、意味も分からないままに
弟が、、、プレシジションというCTに全身全霊を打ち込んで
話してくれたことを思い出します。
そのころ、薬学会の「薬史学会のヨーロッパの学会に参加しました。」
ウエルカムミュージアムの医学の歴史的な展示室に
初期のころのCTが展示されており、
写真に撮ってきたことを思い出します。
弟の啓蒙のおかげで、家庭を放り出して
世界の医療施設を見学して回った時期がありました。
医学の歴史は、
先人の苦労が、
貴重なこととして病院にも保存されていました。
ノーベル賞をとられた教授の写真も、賞の入った額も、
実験室丸ごとが「歴史の保存」になっていたのは
パリの病院でした。
イギリスでは「ペニシリンを発見した時のシャーレ」が
アオカビとともに、
セントメリーズホスピタルのロビーに展示されて
エリザベス女王陛下のお写真と文章が並べられて
物事の黎明期の苦労した時代の先人の頑張りを
あとから続く世代も、大切にしていました。
国立がんセンターの、50年史のHPを見ていると、
ちょうど、、、阿部首相の発言した政権交代の時の
民主党になった時だったと記憶しているのですが、、、?
がんセンターも、激動の津波が押し寄せたような
独立法人、、、そしてまた、、、国立へと、、、
私は、患者だったこともあり、
CTはじめ、ペットの開発初めに、患者として
斬新な多くの画像が並ぶ自分の内臓にびっくりしたものでした。
先代の市川平三郎先生や、舛添先生や、崎田先生や、、、
がんの早期発見の時代の黎明期に、活躍した先生が
CTも、内視鏡も、日本の企業と多くの頭脳が円卓を囲んで
戦後の日本の
「団塊の世代の、マキシムまで燃えた総合力」であったと
医学と、科学と、戦後復興の希望に燃えた世代の
黎明期の、パワーが、
「がん」という不治の病だった巨峰に向かって
CTの開発、MRI の開発、リニヤック、、?、、胃カメラや
大腸カメラ、、など、
先陣を切った「コロンブス」を
患者の立場だった私は、「忘れません。」
新しい世代が、、、パソコンも、スマホも、3Dも、、、5Gも
すべて、、、当たり前のところから始まって
団塊の世代の名づけ親さえ死んでしまった今日
希望と、夢と、
日本の世界に向かっての復興をなした
昭和20年代の、、、弟たちよ、
君が定年で、居なくなったがんセンターに
黎明期に開発されたITと、人間の読影の素晴らしさが
次代を担う若者が、CTも、へりカルCTも、、プレシジョンCTも
まるで、、、テレビが茶の間にあるのが当たり前のように
発明者の名前など、、、無関係に引き継がれてゆくのだから、、、
誰かが、歴史の足跡を、記録してゆかないと、
ある日、、、誰かが、、、外国の病院の歴史的な発展の記録を見て
日本の、発展のプロセスを
手探りで探し始めるかもしれないね。
弟が、甥っ子に、教えてくれた医学生のころ
息子は、、、言っていたよ、、、
古い時代のCTや、レントゲンのぼやけた画像を
どうやったら、医師の必要とする画像に近づけるかが
課題だ、、、と、
写真として、綺麗だったり、美しくても、
医学として、がんの発見に必要な画像が映し出されないと
役には立たない、、、。
息子は、当時20代の学生でしたから、、、
がんセンターに遊びに行くのが、、、勉強だと考えていたようでした。
弟は、忙しい中、、、、学生の為に
質問に答えてくれました。
画像診断の医局に入局したのは
叔父さんの影響が大きかったと思います。
息子は母校の尊敬する先生方のご指導の下に
救急病院として、ヘリの飛んでくる病院で
患者さんのために役に立っている臨床医として
頑張っています。
お父さんが早逝した2月19日は
戦後の「戦争を知らない弟が、、、頑張り始めた記念日でもあるね、、、!」
塞翁が馬、、だったかもしれないね。
お父さんは弟をいつも抱いて皆と月夜の晩に
景踏みをしたっけね、、、
お父さんは、、、君のことが希望の誕生だったんだよ。
姉の私は、お父さんがあんまり君を可愛がるから
やきもち焼いて、、、君をコツントやったら、、、
診察室から,、、泣き声らしき声を聴いて
飛んできた。
「こらこら!!!弟をいじめたらだめだろう!」
、、、すごく、、、怒られました。
その日から、弟は、、、私が、、、コツンとするふりをしても
「泣くぞ!」と言って、胸を張るように、強くなりました。
私は、手も足も出なくなりました。
いつしか、弟の方が、家庭の中でも、偉くなっていました。
家じゅうの愛を独り占めする
やんちゃな可愛い弟でした。
お父さんは、戦争で失った3人の子供の死を
弟の誕生で、受容して、供養することで
心の傷は消えたようでした。
弟の誕生は、父が生まれ故郷に帰ってくるという
命がけのパワーを生んだことを
大人になってから、、、
息子の大学受験の時に気が付いたのでした。
お父さんの頑張りを思うとき
医師の息子を社会に送り出すのは
親の頑張りにも気合がいると思ったのでした。
今日は、、、お父さん、、、命日ですよ
生きていたら、、、109歳ですね!