公開しているプログなら、かけない日記も、知人だけのクリック日記には、ベソカキ、
反省、相談も、次に会った時には、話しやすいので、、、、聞いてください。
熊野の奥の、疎開地で、はっきり覚えているのは。。。
医者の家に男の子がうまれたよーーーー!!!!!と
まだ、赤ら顔の母の周りに、親戚やら、知人やら、患者さんやら、次々と
厚真ttr来るのに、私に目もくれず、皆
赤ちゃんに飛びつくように。笑顔で突進していたことでした。
宿屋のやっちゃん、滝本のおばさん、
アメリカ帰りのおばあちゃん、大工のウトウサン、
学校の先生の奥さん、
町長をしていたおじいちゃん、、、
戦争を知らない時代の子供が誕生したのです
、
団塊の世代とのちに称賛されるたくましい年代の誕生でした。
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(^^
父も母も、この子を見てくれ!とばかり、
心の終戦を実感している輝いた顔で、笑顔が絶えませんでした。
この瞬間から、私の地位は転落の一途を行く羽目になったのです。
どんぐり眼で、キューピーさんのようにかわいい弟は
今までの私の座布団を、簡単に奪ってゆきました。
一歳になる五月には
屋根より高い鯉のぼりが、6匹 大空を泳ぎ、
おばあちゃんは、
てんこ盛りの「かしわもち」を造ってきました、
お爺ちゃんは、
アメリカで使っていたお気に入りの蔦で編んだ殿様椅子を持ってきました。
串本の薬局の髭のおじさんからも、お母さんに
「エビオス」という
育児戦争に胃袋が負けないようにと、
茶色の瓶を届けてきました。
この時、母は、「茶色の小瓶」という曲を 教えてくれました。
この薬は、最高にええでのし。。。おじさんの口真似をしながら
ちゃいろの小瓶をかわいがっていました。
エビオスは今では錠剤ですが、
当時は、酵素の匂いがそのままの散剤で、匙を使って
目分量で飲んでいる母の大きく開けた口が、思い出されて、
クスクスと笑いがこみあげてくる時があります。
、、、のし?、、
変な言葉が語尾につく髭の叔父さんでした。
初節句の話から横道にそれて、余談ですが、
エビオスおじさんのことが、気になりませんか?
エビオスおじさんの家族について、余談ですが
ここで紹介しておきますね。
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後日小学校に上がってからのことですが、
母から串本の、S薬局に連れて行ってえもらいました、
この時、
エビオスおじさんが、どこの何者なのかを、
私は知る機会が与えられたのです。
そこで、何日か泊り、桟橋に一人で遊びに行くと、
大きなクジラが、近くの屋根だけのセメント広場に横たわっておりました。
長靴を履いたオッチャンが、
「クジラを捌くの見たいかい?」というので
「見たい!!!!!」と黄色い声で答えると、
広場の端っこに、木でできた箱をひっくり返しておいてから、
この箱に座れ、箱から離れたらあかんからの!。」
私は箱の上に立ち、弩で買い刃物で、クジラが解体されるのを見ていました。
興奮しました、
帰り道、市場のオチャンが、「ソフトクリーム」を買ってくれました。
生まれて初めて、こんなおいしいものを食べました。
「ソフトクリームって言うんけ?」
「ソヤ!アメリカの兵隊さんが串本に持ってきたのが始まりや、
造り方皆で覚えて、今では、店には結構あっちでもこっちでもうっとるでのし」
「オッチャンは、古座から来たん?」
「うん、ここで魚いっぱいもろうて、古座に持って行って、決まった店に
もっていくんでのし」
「マグロも、お刺身も、古座へもってゆくん?」
「マグロもドテのまま店にもってゆく。
さえら(さんま)もトビウオも、貝もやで!(^^」
串本の桟橋では、ウツボがうようよ海底に見えた。
夕方になる前に、母がおしゃべりしているもう一つの親戚に向かった。
オッチャンからもらったお魚をあげたかったから。
そのおばちゃんは「歯医者さんで、夕方になる前に、ご飯を作ってから、
また、夜の患者さんを診ていた。
ミドリ先生と、患者さんは呼んでいたが、母は「みどりさん」と
呼んでいた。みどり先生は母のことを「ミサチャン」と呼んでいた。
母はミサチャンという名前で呼ばれているのを初めて知った。
節という字はミサとも読むんだと、初めて知った。
桟橋のおじさんにもらったクジラの赤黒い肉をミドリ先生にあげると、
「ミサチャン、エエ娘やろー。コンナン手に入れてくる子供初めてや!」
腰をかがめて、私の顔の前に顔をくっつけるように近づけて
「待ッっとって!これ、一緒にたべようー。すぐ、焼いてくるから」
「ミサチャン、蓼酢と、しょうがと、どっちがええ?」
母は、しょうが醤油にお砂糖少しと酢を混ぜて、クジラが焼きあがってくるのを
ニコニコしながら待っていた。
平成のこんにちはシーシェパードや、世界の保護団体の影響で、
串本のクジラは影をひそめてしまっていることでしょうね。
ミドリ先生の、テンポの速い会話が美味く聞き取れないまま、
母と先生の盛り上がりを、感じつつ、一人堅めのクジラ肉を噛み続けていた、
夕日が海に落ちるころ、
母と連れ立って、今夜泊まる薬局に向かった。
髭のおじさんは、薬剤師の音先生と呼ばれている薬局の創始者でした。
夜になると、
若いお相撲さんのような長男坊の薬剤師のお兄さんが
体をゆするように肩で息をしながら帰ってきた。
T先生と呼ばれていた。
食事が始まると、
あっちからこっちから、
家族が集合してきた。
薬科大学を受けるという、HA姉ちゃん、
やせた弟、
赤ちゃんを負んぶした、T先生と呼ばれていた長男のお嫁さん。
しばらくして、
黄八丈のような上等の紬を着た
冷たい感じのするおばあさんが加わった。
この人たちは、熊野に本家のある母の実家からの枝分かれて
串本に根を下ろして、3代の親戚筋の人たちだと知った。
もくもくとおかずを運びながらも、くじらを食べているせいか、
早く、ここから、離れたかった。
この時すでに、誰も私に気が付いてくれず、
一人ぽちで、笑い声の行き交う人の、がやがや声を
ボーとして、聞いていました。
背中に背負われていた赤ちゃんがぐずりだしたとき、
おばあさんが、眉を吊り上げて、
「あっちの部屋に連れて行って、寝かしつけておいで!」と厳しく言いました。
私は、赤ちゃんとおばさんにくっついて、ソート出てゆきました。
親類といっても、母は歓迎されていたが、
私は母のおまけのようなものであり、
平成の今と違って、子供は肩身が狭い時代でした。
話は再び診療所に戻ります。生まれて一年になろうとする
弟の初節句の部屋の様子からでしたよね、、
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疎開地の診療所の二階のサロンのような無料集会は日ごとに
文化教室のように成長してゆきました。
疎開地の診療所の二階は、皆が会合を開いたり、
後に始めた、心のケアのための、
ダンス教室や日舞教室や、
楽器がおける広いぶち抜きの日本間でした。
一間以上の「床の間」があり、
見たこともないお人形がずらりと並び壮観でした。
入口に、
「もろぶた」と
大人たちが言っていた、木の箱がとどけられました。
それはちょうど、
旅館の浴衣入れのような平べったい箱で
色は塗ってありませんでした。
箱に近づくと、ごそごそと音がして、大きな「伊勢海老」が
次から次へと這い出してきました。
畳の上を何匹もの伊勢海老がごそごそと、後ろ向きに飛ぶのを見たのは
後にも先にもこの時が初めで終わりでした。
伊勢海老は、襖にぶつかっては向きを変えて、
ごそごそと、部屋中をはい回り、その光景は、71歳になった今も
思わず笑みが出るほどの、驚きでした。
床の間には
桜の下にお侍さんや、白髭のおじいさんが居て、端っこには
パンチパーマを髭にかけたような、変な形の槍を持った武将のような人形が
私をにらんでいます。
診療の合間に父がニコニコ顔で二階の人形の前にやってきました。
「これなーに?」
片っ端から、指さして父に問いかけたのは、
構ってほしかったからかもしれません。
それほどさみしくなってしまったのは
人気を弟に取られてしまったからでした。
「これはね、、、五月人形っていうんだよ」
「桜の下の侍はね、楠正成、正行親子だよ」
いま思えば、私の父は
私の脳の中に歴に興味を持つような、一粒の種を植えて行ったのでした。
後に父が亡くなってから、私は一人で吉野の山を歩きにゆきました、
如意輪堂にたどり着いたとき、幼いころ父が話してくれた扉の前に佇みました。
「かえらじと かねて思えば 梓弓 なき数に入る 名をぞ とどむる」
鏃(矢じり)で書かれたと、父が言っていた、文字に出逢ったのでした。
お父さん!一緒に来れましたね! お父さん!
私は心の中で父に出逢えました。
負け戦とわかっていても、昔の武士の魂は輝くほど、切ない魂がありますね。
それから、、、これは「ショウキ様」だよ、、、父の髭の下から
唇がゆっくり動くのを見つめながら、「ショウキ?さま」と
繰り返していた私でした。
その時、母が弟を抱いて、とんとんと階段を上がる音が聞こえてきました。
父はまるで、私の頭の中の興味の糸車を止めてしまったかのように
弟を母から抱き取り、べろべろに破顔一笑の顔で、
初節句の主人公である弟の僕となってしまいました。
確かに、、、かわいい!
もうすぐ一歳になろうかという弟は、
プクプクに太って
顔と胴体がつながって見えるほど
栄養が行き届いていた。
愛情も独り占めしていた。
後になって、母に聞いてみた。
「お母さんは、どうして、弟ばかりかわいがるの?」
「お母ちゃんはね、この子は自分にそっくりだから嬉しいのよ!」
「ジャー、、、のんちゃんは?」
「あなたは、お父ちゃんの妹さんにそっくりな顔をしてるのよ」
「おばさん?、、、あの先生をしていたという、、ふみおばさん?」
「そうなのよ、、、、あのおばさんは,かしこすぎるし、きちんとしすぎてるから、
お母ちゃんは苦手なの、のん子は、顔がおばさんそっくりだから
損をしてるのよ。同じくらい可愛いんだけど、お母ちゃんは
ついつい、、、緊張しちゃうのよ。」
かしこすぎる人は、敬遠されるのだ、、、
子供心に傷ついた、
私は、賢くない!、
でも、賢い人に似ているだけで、
大人は、
私を抱きしめてはくれなかった。
皆、弟ばかり、取り合いして、
ほほ摺り寄せて、体をゆすっていた。
すぐ上の兄は、お母さんのお気に入りの性格をしていた。
歌はうまいし、
アコーデオンを引けるし、
誕生日には親を説得し手回しの蓄音機を買ってもらい、
レコードをかけては、父も母もともに喜ばしていた。
レコードが我が家に来てから、
父は「タンゴ」のレコードを集め出した。
ブルータンゴ
夜のタンゴ
ラ、クンパルシータ―
、、、、等々
南京豆売り
イタリヤの庭
李香蘭のレコード
バルトシュタイン
ムーンライト
バッハ
ファンタージアンプロンプチュ
ショパン
いつの間にか、母のレコードも増えてきた、
診療に来た患者さんも、二階に上がってレコードを聴くようになってきた。
いっそのこと曜日を決めて、二階を開放しましょう!
母は、ダンスの日、三味線の日、日舞の日、と
新宮や、田辺や古座から、お師匠さんを呼んで、疎開の皆と楽しむようになった。
診療所の二階は、戦争で傷ついて疎開してきた人たちの
心の回復室のように、いろいろなおけいこ事で盛り上がっていった。
このころ、母は、ヤマハから、アップライトの88鍵盤のピアノを取り寄せた。
ピアノが付いた日、皆は大騒ぎして興奮して、母を取り巻いていた。
母は・ハノンのような一連の音を引くと、運送屋さんが還らないうちに、
返品して、しまった。
次に持ってきたときも、端から端まで、32ブン音符のような速さで引くと、
今度は怒り出した。
何の為に、天下のヤマハで買って、遠くから、運賃かけて
運んでもらっているのよ!
調律がなってないじゃないの!
母は癇癪を起して、壁にかかったおっぱいの二つ付いた電話機で
遠距離電話を申し込み。えらい剣幕で、ピアノのことを言っていた。
周りには、もう人が居ない
「医者の奥さんは、、、あんなに機嫌が悪くなる人だとは思わなかった!?」
宿屋のヤっちゃんも、滝本のおばさんも、おばあちゃんも、お父さんも
あきれ返って、頑固なお母さんの一歩も譲らない気難しさを
初めて見たと、、、唖然としていた。
その後、ヤマハからは、調律師の同行で、3回目のピアノが来た。
一階の柿の木のある縁側の手前の部屋に、
ピアノをセットすることを、母は承諾した、
調律師はピアノを分解し、
弦を一つずつ音合わせしながら、調律を始めた。
あんなに機嫌の悪かった母は、まるで別人のように笑顔で、
さすが、ヤマハの本店の調律はお見事ですね。と
ショパンや、エリーゼを片手で連打しながら、
「遠いところ、本当にありがとうございました。」
「私は、ピアノの音を買ったつもりだったので、
調律が気に入るまで戻してしまいご苦労をかけました。」
当時、、、見たこともない「聖徳太子」のお札を
ごっそりと積み上げて、頭を下げる母の笑顔が、、、怪物のように思えました。
周りの人々は誰もいなかったから、
母のわがままは私と父との秘密になりました。
大きくなってから、知ったことですが
母は父と結婚する前は、音楽大学を卒業し、て、東京都では
第一号と思えるほど、女の先生の居ない時代に
女学校で、音楽の教師をしており、
当時、NHKでの学生コンクールで、教え子の生徒に一位入賞させた快挙があり
音楽には、真に厳しい女性だったと、聞かされたのは、昭和42年ごろでした。
私は、薬科大学を卒業して、東京大学の薬理学教室に勤務していた時でした。
父が54歳で、過労死した後、
母は未亡人になってから、ピアノ教室を始めました。
水を得た魚のように、母は、教室の生徒を50人ほどに増やし、
「よつ葉会」という、コンサートを毎年開催するようになりました。
母のコンサートに協力を惜しまず助けてくださった友人たちがおりました。
母校の教授に就任されていたという、
学生時代は母の友人だったと言ってくださった、「高嶺の花」のようなピアニスト。
母は「髭の、、、大きいことはいいことだー」で有名な音楽家の母上と、音大時代
ルームメートで、日本中演奏旅行や、コンサートやオペラを共演していたそうです。
残されたアルバムには、髭の音楽家のおかあさまとの写真もあり
和服でオペラの舞台などにもご一緒していたらしいのです。
なるほど。。。。音に気難しいわけがわかりました。
しかし、ピアノ事件以来、母はすっかり敬遠されて
、親しみの会話で盛り上がっていた集いも、メンバーが限られるようになってきた。
校長先生だとか、O先生の長女だとか、音楽のS先生だとか、、、
もはや、ピアノを習いたい人の集まりになってゆきました。
母は、自宅に来るよりも、小学校の音楽室に、週に何回か出かけて行った。
我が家には、あの懐かしい訛りのある集いの声が遠のいて行った。
つづく