もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

アフガン・中国・宗教アヘン

2021年08月19日 | 中国

 タリバンがアフガンを制圧して3日が経過したが、既に日本メディアの関心はアフガン国民の葛藤・脱出よりもタリバン政権の承認に移っているように思える。

 西側社会は、クーデターで誕生した政権は承認しないことを原則としているが、アフガンの場合はガニ大統領と政府高官が国外に逃亡してアフガン国内には正統性を主張する後継統治組織が無いことから、アフガンは無政府状態の地域とされるのであろうが、その場合、諸外国に置かれている政府機関や関係者はどのように処遇されるのだろうか。
 1996年時のタリバン政権を承認したのは、サウジ、UAE、パキスタンの3カ国であったが、25年経過した現在これらの3国は対米関係を修復ないしは対米依存度を増していることから、今回は早急な承認にまでは踏み切れないように思えるので、最初に承認する国は、既に経済支援を約束するとともに国営メディアがアフガンとの関係強化の論評を相次いでは発表するなど、承認に前のめりである中国と思う。
 マルクスは、「ヘーゲル法哲学批判・序説」で、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書きマルクス主義と宗教は相容れない関係とし、毛沢東も文化大革命における旧秩序破壊にこの言葉を使用したとされているが、IT・元・銃でウイグル族の棄宗・教化に自信を持った習共産党は、タリバン教の浸透を水際(国境)で阻止できると考えているように思える。
 自分は、アヘン(阿片)を良く知らないので調べて見たが、化学の知識が無いので深く理解するまでには至らなかったものの、アヘンがケシの実から採取されるアルカロイドで、アフガン等の後進地域では、傷をつけたケシの実から流れ出て固まった物をヘラで掻き落として採取するが1kgのアヘンを得るのにケシが2000本も必要であることは理解できた。アヘン戦争や租界の阿片窟でパイプ吸煙されたのはヘラ掻き取集されて不純物が多い生阿片と呼ばれるものであったが、現在の先進地域では茎を含むケシ全体を溶媒処理して化学的に大量の麻薬成分を抽出しているらしい。
 ヘロインやモルヒネもアヘンを精製して得られるとされ、特にモルヒネは末期がん患者の鎮痛のためにはなくてはならない医薬品との側面があるようである。
 名探偵シャーロック・ホームズが中毒的に愛飲するアヘンチンキは、粉末アヘンをエタノールに溶いたもので、20世紀初頭までは多くの国で処方箋なしに薬局で買える鎮痛・咳止め・下痢止め薬であったが、現在では麻薬そのものとして厳格に管理されているようである。

 アフガンがタリバンの手に落ちたことを、バイデン大統領を除くアメリカと軍隊を派遣してアフガン治安部隊の訓練を担当したNATOは、一様に失敗と捉えていると報じられている。
 アメリカは共和党を中心として、タリバンの力量を見誤って教条的に撤退に固執したバイデン大統領の判断を、NATOは、治安部隊の練度不足を知りつつ撤退したことをそれぞれ挙げているようであるが、協力者を見捨て・見殺しにしたアメリカの撤退は、今後のバイデン大統領の人権外交や紛争国における米軍の支援行動に大きく影響することは避けられないように思える。
 アメリカは、部隊を急派して避難民の救出に当たっているが、「戦略の齟齬は戦術では補えない」という鉄則を今更に示しているように思える。


海軍一の美男子

2021年08月18日 | 軍事

 本日は、海軍一の美男子とされる友永丈市海軍大尉についてである。

 友永大尉(大分県別府市出身)は、抜群の勲功によって2階級特進されたので、本来なら友永中佐とすべきであるが、弱冠ながらの尊敬を込めて友永大尉とさせて頂く。
 友永大尉は、1931(昭和6)年に海軍兵学校(59期)を、1934(昭和9)年に飛行学生を、それぞれ卒業して艦上攻撃機操縦員となり、1937(昭和12)年から支那事変従軍し、1942(昭和17)年4月に空母「飛龍」飛行長となった。
 1942(昭和17)年6月5日、友永大尉はミッドウェー空襲の総指揮官として、九七艦攻36機、九九艦爆36機、零戦36機の合計108機を率いて発艦・出撃した。当初、空襲部隊指揮官とされた第一航空艦隊赤城飛行長の淵田美津雄中佐が盲腸手術の直後で出撃できないために、第二航空艦隊飛竜飛行長の友永大尉が指揮することとなったものであるが、他艦の飛行長の階級や特技(戦闘・攻撃の別)は不明ながら、中佐の代役を大尉が務めることは海軍の例に無いように思えるので、友永大尉の技量・指揮能力は高く評価されていたのではなかろうかと推測する。
 ミッドウェーでは、レーダーにより友永隊の接近を察知して全飛行機を離陸・避退させていたために爆撃成果不十分と判断した友永大尉は南雲司令部に「第二次攻撃の必要性」を打電した。この報告が艦艇攻撃武装で待機していた第二次攻撃隊機の雷爆換装の発端であるが、現場指揮官である友永大尉の責任ではない。友永隊の着艦と前後して米空母艦載機によって赤城・加賀・蒼龍の3隻が大破炎上し、飛行機の発着艦可能な空母は飛龍1隻となった。
 友永大尉は、後世「友永雷撃隊」と呼ばれる飛龍残存の全航空機(九七艦攻10機、零戦6機)を率いて米機動部隊攻撃のため再度出撃した。
 三船敏郎が二航艦司令長官の山口多聞少将を演じた映画「ハワイ・ミッドウェー海戦」では、鶴田浩二演じる友永大尉が、前回の爆撃行で被弾した愛機の応急修理が不十分であると泣いて謝る整備兵に「いいよ。いいよ」と応えて莞爾として発艦・出撃する様が描かれている。
 友永雷撃隊の戦果は空母「ヨークタウン」の撃破で、友永大尉自身は、敵戦闘機によって致命的な損傷被害を受けつつもヨークタウンに魚雷を投下した後、同空母の艦橋付近に突入したとされている。

 ヨークタウンに命中した魚雷は友永機では無く第2小隊機が投下した魚雷で、友永機も海面に墜落したともされているが、真偽はいずれであっても本稿の趣旨ではない。
 美男子の定義は極めて主観的であり男女によっても大きく異なるが、整った顔立ち以上に知性と行動力を以て比類なき功績を挙げた人物で、かつ若干の悲劇・悲壮をも必要とする点は共通しているように思えるので、友永中佐が海軍一の美男子とされるのも頷けるものである。
 友永中佐の写真を貼付しようと思ったが、皆様のイメージで中佐像を描いて欲しいと思い断念した。


アフガンのガニ政権崩壊に思う

2021年08月17日 | 社会・政治問題

 アフガンのガ二政権崩壊(大統領出国)と一般国民が決死の脱出を求める映像が報じられた。

 自分の不明と先見性の無さを恥じるところであるが、米軍撤退によってアフガンの内戦突入は必至の情勢と書いたのは今年の3月3日、米軍撤退支援の空母レナルド・レ―ガンの不在長期化を懸念と書いたのは5月28日であった。
 アメリカが、アフガン政権抜きでタリバンとの和平合意したことによるタリバンの攻勢は伝えられていたが、米軍の撤退が本格化した7月初めの時点ではタリバンの支配地域は全土の6割程度であり、戦闘は激化するにしても、30万人と称される近代装備の治安部隊に支えられたガニ政権の崩壊は、あるにしても先のことと観られていた。しかしながら、バイデン大統領も「予想外」とするほどの急展開で、13日にアフガン第2の都市カンダハルを制圧したタリバンは3日後には首都カブールに無血入城してしまった。
 今回のアフガン国民の被る厄災に至る原因は、アメリカの指導者がビジネスマンから政治家に交代したことが大きいと考える。米軍の存在と戦闘・影響力をビジネス感覚で捉えるトランプ氏は経費の高騰するアフガン支援を5月末の完全撤退で終了することでタリバンと合意したが、契約(和平合意)の前提が消滅もしくは覆された場合には、アフガンからの完全撤退という契約自体を破棄もしくは変更することに躊躇しなかったのではないだろうか。一方、政治家バイデン大統領はビジネス契約を受け継いだものの、完全撤退事態を変更できない国際公約と捉えて、情勢の変化に顧慮することなく公約の実施にのみ拘ったように思える。
 日本の朝野においても、トランプ氏の和平合意が対話重視のバイデン政権に引き継がれたことを歓迎し、「ようやくに、アフガンの地がアフガン国民の手に戻る」、「タリバン、ガニ政権とアメリカの対話が実現する」との意見が多かったように思うが、タリバンはガニ政権との対話を拒否して力による現状変更を選択した。
 凡そ「関係改善のための対話」は、一定の価値感を共有する場合にのみ可能で、日本と韓国・北朝鮮・中国を例にするまでもなく、共有できない若しくは相反する「水と油の関係」では、言葉の通じない異星人に対する場合と同様に会話は成り立たないと思っている。

 ガニ政権崩壊の事態に対して、アメリカは大使館員・国際機関員退避のために2千人規模の部隊の急派を検討中とされているが、時計の針を戻すことや遅らせることは不可能に思える。
 タリバンも前回のイスラム原理法の行き過ぎを改めることを表明しているが、既に、タリバン戦闘員との強制結婚、女児の就学停止、政権と米軍の協力者に対する迫害は各所で始まっているともされている。難民・国外脱出を望んでも、カブール在住者には一縷の望みが遺されているものの、他の地域にあってはカブールに辿り着くことすら絶望に思える。
 国境を接する新疆ウイグル自治区へのイスラム原理主義の浸透を警戒すると思っていた中国は、既にタリバン首脳に経済援助を約束して取引を完了したともされている。自治区内の教化が完了したのであろうか。それとも、原理主義の浸透を力と恐怖で抑え込めると判断したのであろうか。


語り部と騙り部

2021年08月16日 | 韓国

 昭和館が、戦争語り部の育成を行っていることが報じられた。

 昭和館は、東京都千代田区にある国立博物館(厚労省所管、日本遺族会が運営受託)で、国民が経験した戦中、戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていくことを目的として1999(平成11)年に設立された施設で、実物資料の常設展示のほか各種事業を行っていること、加えて、平成28年から戦争体験の語り部の育成を行っていることを初めて知った。
 語り部の育成事業について昭和館々長は、「高齢化で戦争の歴史や悲惨さ、終戦直後の苦しい時代を知っている人が減っている」ことを挙げておられるが、語り部後継者の育成については疑問に思う。
 自分が思う語り部と語られる体験(語り)は、語り部個人の周囲という極めて限定的な、地域(場所)、時期、人間関係、背景における体験であり、語りの一部には虚構とは云わないまでも幾ばくかの脚色や増幅が有る場合も止むを得ないものと思っている。そのことから、語り部の「語り」は、あくまで特徴的な一つのケースと捉えるべきで、そこに普遍的意味合いを見出し・持たせることがあってはならないように思う。しかしながら、初代語り部の「語り」を伝承させることは、後継者による「語り」の取捨、編集、脚色、増幅を招いて「騙り」に変質する危険性を持っており、高齢化によって反証者も減ることから、「騙り」は何時しか事実に変質することが懸念される。
 その好例が、韓国の慰安婦・徴用工の強制連行や中国の南京大虐殺で、伝承の繰り返し・口伝の編集が事実の歪曲・誇張を呼んで今や史実と化している現状である。吉田清治・毎日/朝日新聞・本多勝一・山本七平という語り部の各虚構が、恣意的に切り張りされ、相乗的に増殖し今や事実を覆い隠す史実となって独り歩きしている。先般、韓国の元慰安婦が慰安婦問題は歪曲されていると抗議し、正そうと声を挙げたが、もはや誰も耳を貸さない以上に貸せない状態になっている。
 沖縄戦において、軍が住民に対して集団自決を強要したことや、洞穴内に隠れた集団内で、嬰児の泣き声で所在を察知されることを恐れた兵士が嬰児を殺害したとの煽情的な「騙り」もあった。
 妹尾河童氏は、大本営がひた隠しにしたミッドウェー海戦やガダルカナルの大敗等をタイムリーに知って反戦・反軍の意志を固めていく「少年H」を執筆したが、氏のように自己の美化と糊口を図るという語り部の存在も無しとしない。

 戦争体験・被爆体験・被災体験を後世に残すことは大事であるが、後世に残すべきは「実体験した者が語る事実」でなければならないと思う。後継者として育成された語り部は、小学校等における講演を行うとされているが、後継口伝者が伝え得るのは「一杯のかけ蕎麦」の価値しかないように思える。
 コロナ禍では、小学校高学年の全てに端末が行きわたりCAI教育の環境も整うとされる。肉声で伝える内容はデジタル教材に数倍する効果が有るのだろうが、脚色された「一杯のかけ蕎麦」の弊害もまた考慮されるべきであると思う。


最後の連合艦隊司令長官

2021年08月15日 | 軍事

 本日は終戦の日である。

 文字資料を優先する一部には、欧米に倣って「重光葵代表がミズーリ艦上で降伏文書(ポツダム宣言)に署名した9月2日」とする意見もあるようであるが、陛下の玉音放送で降伏を実感した8月15日を終戦とすることが正しいと思える。
 本日は日本海軍の終焉を見届けた連合艦隊司令長官である豊田副武大将についてである。豊田大将は1885(明治18)年に大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれ、旧制県立杵築中学校を経て1905(明治38)年に卒業成績171名中26位で海軍兵学校(33期)を卒業している。1941(昭和16)年9月に海軍大将に昇進し呉鎮守府司令長官、1942年11月軍事参議官、1943年4月横須賀鎮守府司令長官、1944(昭和19)年5月3日前任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将の殉職(海軍乙事件)を受け連合艦隊司令長官に親補された。豊田大将は当初、連合艦隊司令部を軽巡大淀に予定したが慶應義塾大学日吉校舎内に置かざるを得ないこととなったために、艦に乗らなかった唯一の連合艦隊司令長官とも称される。既に機動艦艇の大半を喪失していた連合艦隊司令長官としては、1945(昭和20)年4月6日以降の「菊水(航空機による大規模特攻)作戦」に呼応した戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻しか残されていなかった。この第二艦隊の喪失によって連合艦隊は事実上壊滅したとされている。1945(昭和20)年4月25日には海軍総司令長官を、5月1日には海上護衛司令長官をも兼務し海軍保有兵力の全てを指揮することとなったが、5月29日には小沢治三郎中将に連合艦隊司令長官の席を譲って軍令部総長となり、海軍軍令のトップとなり終戦を迎えることとなった。豊田軍令部総長は、8月12日に内閣や海軍大臣に諮ることなく(統帥権独立とすれば適切)陸軍参謀総長梅津美治郎大将とともに参内してポツダム宣言受諾反対を奏上するなど徹底抗戦論者とされ、降伏調印式にも出席を拒否(軍令部次長代理出席)している。
 連合艦隊は、有事において各艦隊を効果的・機能的に統合運用するために臨時編成される任務部隊であるために、司令長官も他の職との兼務で、平時にあっては編成されないこともしばしばであった。職制上では最後に親補された小沢中には既に指揮する実働可能艦艇も無く、豊田大将を以て最後の連合艦隊司令長官とすることが相応しいように思える。

 豊田大将と同じ杵築中学校出身の提督としては、山本五十六提督と肝胆相照らす仲であった堀悌吉中将(速見郡八坂町:現杵築市)も有名である。堀中将は豊田大将の1年先輩、兵学校・海軍大学校を恩賜首席で卒業した逸材で、同期生は"堀の頭脳は神様の傑作”、山本提督は”堀を失うことは1個艦隊を失うに等しい”、東條内閣の嶋田海相は”堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に対処できたのではないか”と、それぞれ評している。
 堀提督は条約派と看做されて、大角人事によって中将で予備役に編入されたが、豊田大将とは隣町であり、中学・兵学校も1年違いである。生い立ちや教育がほぼ同じ境遇にあって、思想や生き方にこれほどの違い生まれるものなのだろうか。
 奇異なる巡りあわせであろうか、降伏文書に署名した重光葵氏も杵築中学の出身である。
 大東亜戦争で散華された軍人・軍属・遺族を含めて、大きな犠牲を払った先人に感謝と鎮魂を込めて。合掌