もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

海軍一の美男子

2021年08月18日 | 軍事

 本日は、海軍一の美男子とされる友永丈市海軍大尉についてである。

 友永大尉(大分県別府市出身)は、抜群の勲功によって2階級特進されたので、本来なら友永中佐とすべきであるが、弱冠ながらの尊敬を込めて友永大尉とさせて頂く。
 友永大尉は、1931(昭和6)年に海軍兵学校(59期)を、1934(昭和9)年に飛行学生を、それぞれ卒業して艦上攻撃機操縦員となり、1937(昭和12)年から支那事変従軍し、1942(昭和17)年4月に空母「飛龍」飛行長となった。
 1942(昭和17)年6月5日、友永大尉はミッドウェー空襲の総指揮官として、九七艦攻36機、九九艦爆36機、零戦36機の合計108機を率いて発艦・出撃した。当初、空襲部隊指揮官とされた第一航空艦隊赤城飛行長の淵田美津雄中佐が盲腸手術の直後で出撃できないために、第二航空艦隊飛竜飛行長の友永大尉が指揮することとなったものであるが、他艦の飛行長の階級や特技(戦闘・攻撃の別)は不明ながら、中佐の代役を大尉が務めることは海軍の例に無いように思えるので、友永大尉の技量・指揮能力は高く評価されていたのではなかろうかと推測する。
 ミッドウェーでは、レーダーにより友永隊の接近を察知して全飛行機を離陸・避退させていたために爆撃成果不十分と判断した友永大尉は南雲司令部に「第二次攻撃の必要性」を打電した。この報告が艦艇攻撃武装で待機していた第二次攻撃隊機の雷爆換装の発端であるが、現場指揮官である友永大尉の責任ではない。友永隊の着艦と前後して米空母艦載機によって赤城・加賀・蒼龍の3隻が大破炎上し、飛行機の発着艦可能な空母は飛龍1隻となった。
 友永大尉は、後世「友永雷撃隊」と呼ばれる飛龍残存の全航空機(九七艦攻10機、零戦6機)を率いて米機動部隊攻撃のため再度出撃した。
 三船敏郎が二航艦司令長官の山口多聞少将を演じた映画「ハワイ・ミッドウェー海戦」では、鶴田浩二演じる友永大尉が、前回の爆撃行で被弾した愛機の応急修理が不十分であると泣いて謝る整備兵に「いいよ。いいよ」と応えて莞爾として発艦・出撃する様が描かれている。
 友永雷撃隊の戦果は空母「ヨークタウン」の撃破で、友永大尉自身は、敵戦闘機によって致命的な損傷被害を受けつつもヨークタウンに魚雷を投下した後、同空母の艦橋付近に突入したとされている。

 ヨークタウンに命中した魚雷は友永機では無く第2小隊機が投下した魚雷で、友永機も海面に墜落したともされているが、真偽はいずれであっても本稿の趣旨ではない。
 美男子の定義は極めて主観的であり男女によっても大きく異なるが、整った顔立ち以上に知性と行動力を以て比類なき功績を挙げた人物で、かつ若干の悲劇・悲壮をも必要とする点は共通しているように思えるので、友永中佐が海軍一の美男子とされるのも頷けるものである。
 友永中佐の写真を貼付しようと思ったが、皆様のイメージで中佐像を描いて欲しいと思い断念した。