福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

『子供達は大好きな学校に命を削りに行っている気がしてなりません・・・』:被曝義務教育の許しがたい現実

2011-04-23 20:03:42 | 新聞
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タイトルの前半に引用した言葉は、「福島老朽原発を考える会 (フクロウの会)」のブログで、子どもの被曝基準大幅増に対して、恐れ、迷い、怒り、悲しみ、自責している多くの人々の138,813字(4月18日0時13分から23日12時37分まで)に及ぶの書き込みの中からとった。このページには、
「子供20ミリシーベルト撤回を要求するオンライン署名へのリンク」ほか、有効なリンクがある。
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福島県内の学校の放射線量の「安全(!)基準」を政府が決定した。これまで一般人の限度1ミリシーベルトを20倍も上回る年間20ミリシーベルトを限度として設定し、それから恣意的な計算を用いて1時間当たりの線量が3.8マイクロシーベルトならよい、「通常通り」の活動をしてよいという、およそ論理も倫理もないとんでもない、基準の資格のない「基準」である。その問題点は、ARecoNote3「学校は放射線管理区域なのか!」で明確に述べられていますので、ぜひみてください。第一、多くの人が感じているように、安全のために確保すべきぎりぎりの値を、突然これほど簡単に20倍にも引き上げるなど、棄民政策以外のなにものでもないのは明らかだ。それも放射線に対するリスクが大人よりもずっと大きい(これくらいはさすがに御用学者でも認めている)子どもたちに関する基準値なのだから、これは確かに「犯罪的」と言っていい。ところが、こうした最重要な点を指摘したメディアの記事は見当たらなかった。

わずかに産経新聞が、

 『20ミリシーベルトは、国際放射線防護委員会(ICRP)の基準(年間1~20シーベルト)のうち最も高く、原発労働者などと同レベルという。』


と言って、基準の「子どもにやさしくない」非教育的な性格を示唆したにとどまった。

しかし、いったいどうして文科省もこんな非人間的な方針をとったのか。公式には「安全と学業継続という社会的便益の両立を考えて判断した」(産経)だそうだが、大方の見方は、避難・学童疎開の手間や予算を省く、あるいは保障措置の根拠を作らないようにするという官僚の作為あたりに思い当たる。ジャーナリストたちにも、お役所のきれいごと見解と子どもたちへの多大なリスク負担との矛盾をついて、ぜひ、彼らの隠された政治・行政的モティベーションに迫ったほしいところなのだが、誰もそんなことは考えないらしい。毎日新聞は、社説まで書いて、

(基準を低くすると)『授業ができない学校や一時転校が必要な子供たちが増えるかもしれない。それに文科省側が慎重になったわけではないだろうが・・・・』

と、先回りして文科省を弁護している。毎日の他の記事(「福島第1原発:保護者ら困惑 13校・園活動制限」)をみてみると、他紙が「学校・校庭の放射線量・放射線基準・安全基準」というキーワードで見出しを構成しているのに、毎日だけ「活動制限」という用語を用いて、「放射線」という現実も「基準」という政治・行政行為も抜け落ちてしまっている。こうした概念から検索をかけても毎日の記事に行き着くことはできない。そういう人には来てほしくないのか。さて、毎日の記事には読売・朝日・日経・産経と異なった要素がある。見出しに「保護者ら困惑」とあるのは、無原則・無節操・無慈悲な基準引き上げに保護者が怒っているということではない。

『避難指示(半径20キロ圏内)外にもかかわらず、新学期を迎えた子供たちは、屋外で遊ぶこともできない。保護者からは「子供の立場からすると制限はかわいそう」という声も聞こえる。』

という意味の「困惑」らしい。「制限かわいそう」と考える「主婦」は、「・・・「放課後にみんなで遊んで友達を増やし、絆を深めていくのが子供。子供の立場からすると制限はかわいそう」と言う」のだそうだ。(「子どもの立場」という表現に注目しよう。母親である主婦の言葉を通して「子どもの立場」をしっかりかすめ取っているのは毎日新聞である)。

この毎日新聞記事が示唆している「活動制限」に対する「困惑」とはなんのことだろうか。福島の多くの親たちが「フクロウの会」のブログで吐露しているように、放射線や子どもの健康被害を心配する人は「神経質・気にしすぎ」で、自主退避などする人は「福島を捨てた裏切り者」とみなされる。まして、

『遠藤俊博県教育長は会見で「基準の毎時3.8マイクロシーベルトは、安全を重視した理論値。ルールの下に過ごせば大丈夫だということを子どもや保護者に説明したい」と述べた。再調査と利用制限は、子どもや保護者の過度な不安をぬぐいたいというのが県の狙いだ。』朝日新聞

と狙いを定めて音頭をとる教育長以下、教育現場は「この話題にはできるだけ触れないことになっている」という感じで動き、あたかも何事もなかったかのように、年間20ミリシーベルトにせまる環境でも、屋外で50m走をやり、理科の野外活動もやり、運動会もやり、それらを自分だけ休むと怠けてると中傷されることになる。学校当局に同調するPTAからは動きは全く見られない。そして、PTAに代表される親の正統派が主張するのが、「これ以上、外での活動を制限されるのはまっぴら!」「(こういう時だからこそ)子どもを思いっきり外で遊ばせたい」等々の言説なのである。「ホーシャノーにおびえる過敏な親たち」は、子どもの日常的な楽しみ・喜びを根拠のない「風評被害」で抑圧する変わり者・はずれ者とされ、排除されると同時に自分をも責めなければならなくなる。子どもを守りたい、その一方で、子どもを(みんなと同じように)自由にさせたいというダブルバインド状況だ。毎日新聞はこういう親たちの心理的な状況によく通じている。このあたりがこの新聞のお得意、まさにツボなのだ。彼らは、数日前に「原発脱却」社説を書いたが、金ぴかの表看板の裏には相変わらずこういう民衆蔑視と民衆操作志向の体質が抜きがたくしみついている。脱原発は時流に乗った一時のスタンドプレーだったのか、と疑わざるを得ない。

高い放射線量にもかかわらず、毅然として現実に対処し、普段の生き生きした活発な日常をやりとおすことが評価される。だから、福島の高野連は甲子園野球の福島大会を強行開催することにし、球児たちは屋外でマスクもせず何時間でも練習する。そのような活動を強いられている球児諸君が他の生徒の不安を理解できず、何事もない日常のマッチョ的先兵となるのは、むろん彼らのせいではない。

情報も満足に提供されない環境下で、危機は疲れる。有効な判断や行動ができない不安はしんどい。そんな状況で、あきらめて普通の生活にもどりつつそれを容認しようという考え、そしてそうしないやつらを排除しようという考えが芽生え、蔓延することもあるだろう。

小林秀雄(まやかし・ひでお)は、日中戦争中に「この事変に日本国民は黙って処したのである」と書き、国民のそうしたことばにならない生活上の「知恵」を礼賛した。戦争や被曝自体だけでなく、黙って耐えることを強いられるという強制を、あきらめと受け入れに転嫁すること、原発危機のプチ小林たちは、世紀が変わろうとそうしたニッポンの伝統に忠実である。

高い放射線量の中、今朝も親を信じて疑うことなく元気にいってきますと言う子どもたちを送り出したあと、自分は親失格だ、と罪悪感でいっぱいになる気の毒な母親を、小林なら「美しい」と言うだろう。「生きている人間は人間になる途上の変な生き物で、死んだ人間こそほんものの人間だ」という無常を生きるのが、わがニッポン国民なのである。


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