福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

責任のある人が責任をまぬかれないのはあたりまえです

2011-03-31 13:08:03 | 新聞
29日の朝日新聞は避難先で開かれた双葉町の臨時町議会の様子を報道している。

『地元に雇用を生み出し、多額の金を落とす福島第一原子力発電所に、町も議会もすがってきた。その選択は正しかったのか。28日の臨時議会に出席した町議は、苦渋の表情を浮かべた。』


そして、町議の皆さんは言う、

『「町と歩調を合わせてきた議会の責任は免れない。残念でならない」
「安全を担保されるのが条件だった。しかし、これだけの事故が起きると、あれで良かったのだろうかとも思う。」』


「残念」「あれで良かったのだろうか」、これが原発を推進してきた町議のみなさんの現時点での反省の弁である。そして朝日は、反省の弁を「涙をにじませ」ながら語る「いつ戻れるか先が見えない」「漂流」する避難住民としての町議の悲哀を語る。なるほど原発推進町議も、双葉町の住民としては原発事故の被害者だ。しかし被害者であることは、免責を意味しない。彼らが被害者になる前にどんな行動をし、どんな発言をしたか、問われなければならないのは当然だろう。

政治の世界では、「被害者」であることを特権化して相手の批判を封じることも、ままあることだから。

原発推進派町議は今後、しっかりと原発廃棄に向けて変わってゆくのだろうか。それとも、当時のきびしい財政事情では、原発からの金がどうしても必要だったのだ・・・と言いつづけるのだろうか。ということは、今後も状況(金)次第では原発もやむを得ない、ということに回帰するのだろうか。

毎日新聞に前福島県知事・佐藤栄佐久氏が仏紙ル・モンドの取材に応じ、東電の隠蔽体質・保安院と東電との癒着・中央官僚の無責任システムをきびしく批判したとある。元記事を読んでみると、批判の内容はシノドス・ジャーナルによる氏の著書の書評と重なる。原発の運営がいかにひどい状況でなされてきたか、参考になるのだが、ひとつ、たいへんに疑問に思われることがある。ル・モンドのインタビューで、記者から最後に「では、原発の運営は営利主義の私企業にではなく、国家管理にすべきだとお考えですか?」と問われて、佐藤氏は、

『そういう問題ではない。チェルノブイリの悲劇は国家管理下の原発で起った。日本ではそれが私企業で起っているが、根本的な問題は、決定過程を民主的に管理できるかということだ。』


「民主的な管理」のもとに置けば、原発もよろしい、ということなのだろうか。「民主的に決定」すべきこととして、原発の廃棄、脱原発の世界の実現がこの人の視野に入っているのだろうか。もしそうなら、著書や新聞のインタビューでなぜきちんとそう言わないのか・・・・・。

政治の世界では、ラディカルな批判者がじつは批判されている側の一部分であること、批判が内部の利権闘争の産物であることもままあることも忘れてはならない。



最新の画像もっと見る