福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

ケツをふくのに電気はいらぬ:菅原文太兄貴の正論を聞け!

2011-08-20 23:47:07 | 新聞
6月にさかのぼりますが、菅原文太の大兄貴が西田敏行の兄貴とともに、「原発はNOだっ!」と気勢を上げたことがあった。『原子力発電所への怒りをあらわにした』文太の兄貴は、国民投票で原発廃止を決め、先を行くドイツ・イタリアと反原発・三国同盟を結べと言った。福島県の酪農家の方が自殺についても『自ら命を絶った死は人災』とまったくぶれがない。それに対して、どうにも腰がすわらないのが、インテリの皆さん方・・・・

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その文太の兄貴にインタビューしているのが毎日新聞

兄貴はこのときも『かなり怒っている』

『戦後日本は政官財学が癒着して、経済成長優先で原発を造り続けてきたということだろ。そういう仕組みは、ここで断ち切らないと駄目だよな・・・ところが、いまだに聞こえてくるのは『原発がなければ、経済が停滞してしまう』という声ばっかり』

そうその通り、このごに及んで、なにがなんでも経済成長優先、山河破レテ円アリ、という状態だ。そして、毎日のように「電力不足」で脅しをかける。

『仮に原発をやめて30%の電力が減ってもいいじゃないか。原発を造り始める40年前までだって、別に餓死者が出たわけじゃないだろ。けつをふくのまで電気を使う生活なんて、おかしな話。』

そうその通り。原発の電力がなくなったら、なくなったなりの生活と経済を考えればいい。エネルギーの一人当たりの消費量が減ることになっても、死者や健康被害を出さずに済ます知恵はいくらでもあるだろう。それに、原発をやめても、その分をまったく補完できないと話が決まったわけでもなし。大切なことは、あたりまえだが、なにがより大切か、何を選ぶべきか、まっとうに判断することだろう。30%の電力がおしくて、将来どのくらいの病者・死者をもたらすかもわからない放射能と共存共滅するのか、それとも『ケツをふくのに電気はいらない』と考えるか。

注意してほしいのは、原発をやめるから、ぼくは電気に頼る一切の利便を放棄します、などとだれも言う必要がないことだ。『ケツをふく』ことのほか、十分になしでやってゆける電力消費がほかにも実にたーくさんあるだろう。ところが、大朝日新聞が誇る元祖原発推進ジャーナリスト・大熊由紀子(敬称略)は、原発をやめられない理由を「あたしのお尻はどうしたって原発の電気で作ったやさしいお湯でクリーンにしてほしいわ。放射能が入っていた方が、健康にいいってゆーし、なんとなく痔にもききそう」などとは言わず、

『ほんとうに、絶対安全なものしか許さないとしたら、わたしたちは、ダム、自動車、列車、薬をはじめ、すべての技術を拒否して、原始生活にもどらなければならなくなる。しかし、その原始生活には「餓え」や「凍死」や「疫病」という別の危険がつきまとう。』

と、彼女をニュークリア・クイーンの座に押し上げた『核燃料 探査から廃棄物処理まで』(朝日新聞社刊、175ページ)で言っている。この論法は、それ自体アメリカの推進派の教科書からとったものだが、大熊の後、さらに、前記事で引用した渡辺恒三などに引き継がれる。すなわち、脱原発の代償は、すべての近代的文明の成果の否定、『原始生活』『餓え・凍死・疫病』なのだ。反原発ライター=元原発エンジニアの田中三彦氏は、推進派はよく反原発派に対して、「誇張」「おおげさ」「病的」等と批判するが、実はそれこそ推進派の言説の特徴だ、と言っているが、この大熊節などその典型と言える。

そして、文太兄貴の主張のもう一つのポイントは、まさに、ジャーナリスムと言論に関係している。

『取材で会場に押し寄せたマスコミ各社に対しても「もっと現地(被災地)へ行って、発表されていないこともきちんと書いてほしい」などと注文を付け・・・』サンスポ

『・・・もっと大事なことを書いてくれよ」。俳優の菅原文太(77)は会見の場で、怒りをあらわにした。』『最後にキツい一言。「・・・東電がこう言ったああ言ったを書くだけじゃなく、なぜここまで原発が増えたかを検証してほしい」』zakzak

兄貴は大熊の流れをくむ翼賛・政府広報ジャーナリスムに、まじめに仕事をしろと注文をつけている。この、これまたしごく当然の指摘と好対照をなすのが、毎日記者の質問である。

『ところで、俳優として脱原発を掲げることに、ちゅうちょはなかったのか。』

たかが一介の河原乞食のくせして、おれたち新聞記者様の向こうを張るような生意気なことをして、あんた、ただですむと思ってんの?と突っ込んだつもりが・・・、

『「あのね、政治に対してものを言うのは、どんな職業だろうと自由だろ。」』

ゲーノー人には、スポンサーの圧力だとか、いろいろあって、おれたちのような言論の自由の旗手のようにはいかないでしょう、と思い上がり、自分たちも東電マネーの支配下にあることをあたかも忘れたような傲慢なイノセンスを振りまく毎日記者も、文太の兄貴の正論にぐーのねも出ない。

ところでここに、あたかも文太の兄貴と同じ正論を語っているかに見える人がいる。東京大学の高名な社会学者、見田宗介氏である。

『福島第一原発の事故で僕が驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事態でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある。』

見田氏はしかし文太の兄貴とは重要な点で異なっている。見田氏は怒っていない。見田宗介氏は戦っていない。戦おうともしてない。この人は確か、9.11のとき、「黙示録」を持ちだして、悲壮感いっぱいに世界の未来を語っていたのではなかったか。それに対して、わが福島の3・11は『僕が驚いたのは』『成長依存的な社会構造、精神構造』だという。で、それからあとは、何もない。

見田氏にみられる煮え切らない反応は、見田氏同様、今やめでたく(本人も「よかった」とtweetしていた)東大名誉教授になられたフェミニストの大旦那・上野千鶴子氏にも見られる。その最終講義『震災支援』でまぶした講演を聞くと、原発事故をきっかけにした怒りと、『弱者が弱者として尊重される社会』朝日)のために戦うはずのフェミニズムが交差しないのだ。『私の運命は私で決める、という誰にも譲り渡すことのできない至高の権利』である『当事者の権利』を今一番脅かされている人たちは、福島の人たちであるはずなのに・・・・。

要するに、東大名誉教授様には、戦いは似合わないのか。それとも工学部や法学部や経済学部のご同僚とのご関係で、いろいろとご配慮がいるのか?3.11以後、原発事故についての執筆依頼をすべて断ってきたという東大フェミニストには、やっぱり弱者のためには一言も言ってもらえないのか。

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