福島原発事故メディア・ウォッチ

福島原発事故のメディアによる報道を検証します。

放射能見えない、放射能わからない!:大新聞が無批判に受け入れる認知のデカダンス

2011-06-01 18:53:09 | 新聞
「圧力計が壊れている可能性もある」「水位計が正確な値を示しているか疑問が残る」「温度計が正常に作動していたという保証はない」「放射線量の観測データが誤っている可能性もある」などなどなど・・・追いつめられた東電が、よく使ったこんな言い方の一つや二つを記憶している方もたくさんいるだろう。

こうした言い訳にもならない言い訳は、東電にとっては「議論を打ち切らせる」という即効性の一時的効果があるのだろうが、それが社会的に引き起こす害悪は計り知れない。こんなに重大なことが起こっているのに、結局何も知ることができないのだ。東電(そして政府)は、あたかもこう言っているかのようだ。「当事者である我々にも信頼できるデータはないのですから、まして部外者(そう、「単に被曝するだけの部外者」)であるみなさんが理解しようとしても無理です」、と。都合の悪い情報の隠ぺいを、彼らが勝手に作り出せる情報の欠如で置き換えるのだ。少し「余裕」のあるときには、都合の悪い情報を、その目的のために取り込んだ別の都合のよい情報で置き換えることもある。すでに3月17日、読売新聞に驚くべき記事が載った。驚くべきなのは、東電・保安院の姿勢だけではなく、それを何の批判もなく報道する大新聞の厚顔無恥ぶりもだ。短い記事なので、以下、全文引用する。

『被ばく線量増え測定困難、放射線監視地点移動
経済産業省原子力安全・保安院は17日、東京電力福島第一原子力発電所正門付近で、定点観測していた放射線の監視で、被曝(ひばく)線量が増えたため、観測地点を北側の西門付近に移動したと発表した。測定は、東電の社員が、移動式の監視車で行っている。正門付近の観測地点では16日、放射線量が毎時1万マイクロ・シーベルトを超えていた。原発施設からの距離は約1キロでほぼ同じ。保安院の担当者は「正門付近で監視を続ければ、被曝線量の蓄積が増え、作業に従事できる人がどんどん減ってしまう」と話している。
(2011年3月17日12時57分 読売新聞)』


まともな方法で放射線を測定していたら、被曝数値が上がりすぎて作業員の作業を制限せざるをえなくなる。それでは困る(それが見出しの『測定困難』!)ので、測定地点を東電の目的に沿うような値が出るところに変えました、ということである。すなわち、測定値の恣意的な操作を、こっそり告白していると思いきや、悪びれもせず堂々と宣言している(そして読売はそれに対して一言も批判していない)。東電の目的とは、作業員が基準を超える被曝で病気や死という重大なリスクをおかすことになっても、人員が減っては困るから作業を続けさせること。そのために、基準の抜け道として虚偽の測定値を用意しているのだ。作業員の方を強引に作業にしばりつけるやり方、そのために測定値という「科学的」な、客観性の装いのある数値を操作すること、3月17日に原発内で行われたこの恥ずべき行為(諸外国メディアにこうした事実が知られますように!)は、その後、一般の人々の被曝状況にも適用されることになる。

5月30日の朝日新聞『文部科学省と県が行っている放射線のモニタリング(監視)』が科学的・客観的に信頼のおけるものではないことを指摘している。

『測定結果にばらつきが出る疑いのあることが分かった。地上の放射線量の測定では、測定器を向ける方向で値が変わるため、・・・測定器を持つ人によって値が異なっていた・・・毎時10マイクロシーベルト以上の高い放射線量を調べるのに適した測定器と、5マイクロシーベルト以下の線量に適した測定器が区別されずに使われている例もあった。・・・積算線量計の設置場所にも課題があった。放射線が遮られて、測定結果に影響が出る可能性のあるガードレールの裏や掲示板の上に置かれていたり、設置場所の高さもバラバラだったりした。・・・線量計の盗難も2件あった。・・・土壌の調査では、・・・同じ場所で二重取りして、正確な値が出なかった疑いもあった。』

文科省のモニタリングの結果は、新聞などにも地図入りで報道され、私たちが福島の現状を知るために最大の注意を払っているものではないか。それが、要するに「信頼に値しない」、と朝日は報道しているのである。これは、福島で放射線の脅威にさらされている人の健康やひいては生命にかかわる重大なことではないのか。それなのに、朝日には危機感はみじんもなく、ただ淡々と文科省の怠慢を記述するだけで、その怠慢の意味、背景、帰結を考察しようとも、分析しようともしていない。もちろん、文科省を批判しようともしていない。

しかし、放射線のモニタリングという基本的データの信頼性がない、ということ、しかもそうした状態が原発事故後2カ月半以上も放置されていたことは、現に被ばく状況に置かれている人にとっては絶望的な告知である。いったい何をあてにして、どういう情報を根拠に行動したらいいというのだろう。「これが現状です、これが正しい数値です」と、文部科学省という国家の科学的権威が提出したデータが実はいい加減だった…、そんなことが許されるのか。危機下に置かれ、不安にさいなまれる人々、自分や家族に降りかかる害悪を少しでも減らすために、必死に「知ろうとする努力」を続けている人々をいたぶり、愚弄するのが、この国の科学であり、客観性だというのか。正確なものは何もない、信頼に値するデータは存在しない、いい加減なその場限りの情報しか私たちの手に入るものはない・・・こうした認知のデカダンスが、生命のかかわる問題で発生する時、合理的に行動しようという意志は崩壊する。何ができるのだ、自殺か、通り魔のごとき個人的狂気か、「自分が犠牲になっていることが隣人に犠牲を強制することを正当化する」という集団的狂気か、・・・そして、こうした認知とモラルの退廃状況で聞こえてくるのは、被爆者の「特権」を免罪符に利用する山下教授のごとき悪魔のささやきである。「何もあてにならない、誰も本当に知ることはできない。わかろうとしても、逃げても隠れても放射能はお前をとらえる。安全は存在しない。しかし、安全を求めない者には安心への道が開かれている。そして福島は、私や私につづくマッドドクターたちの科学的・客観的分析によって『世界一』になる・・・」。

文科省は、今になってやっと測定方法について、機械設置の高さを統一するなどという初歩的なことを改善するのだそうだ。しかし、この2カ月、彼らが本気で正確な放射線測定をしようとしていなかったことは明らかだ。『現場の測定チーム』の測定動作や、機械の設置場所をマニュアル化することなどわけのないことではないか。『現在の体制ではほぼ限界』で、この程度のことでも『誠実に対応していただいている』と監査した原子力安全委員会は言ったそうだが、ということは、これまでよほど低予算・低人員で、場合によっては首都圏の何千万もの人々の健康にさえ影響がでるデータの調査をしていたことになる。文科省はわざと正確な数値、正しい情報を出したくないのだ。それがもたらす正当な帰結、例えば、住民の避難とか、除染とか、予防的医療行為とか、住民のためになすべきすべてのことを国家がしなければならなくなるのを、おさえたいのだ。だから、彼らにとっては情報の混乱・認知のデカダンスは好都合だ。後は、山下先生に悪魔のお説教をお願いしよう・・・。

そうしたコンテキストで聞くと、原子力安全委員会デタラメ委員長の次のコメントは、被曝データの死の商人・山下教授に一歩も引けを取らぬ悪魔性がある。

『班目春樹委員長は会見でモニタリングの最終目標として、住民が避難地域に戻るのに活用することを挙げた上で、「何のためにやっているのか自体の明確化がまず必要」と強調した。』

モニタリングには『最終目標』がある。それは住民の帰還である。帰還するためには「安全」な放射線レベルが必要になる・・・目的の『明確化』が必要だ・・・。デタラメ教授は、東大あたりで、こんな調子で助手にサンプルの測定などを命じていたのではないか。「あのね、これ、原発関係だからね。あんまり高い数値はね、ちょっとね。まっ、言わなくてもわかってるよね・・・」。

モニタリングの目標が人間をその場所で活動させること・・・、これは最初の読売の記事にあった原発での放射線測定と同じではないか。そして、読売同様、朝日もこうした文科省・安全委員会の態度に何の批判も加えていない。


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