今年も「1月17日」が遣って来る。14年前、6千名を超える死者を出した阪神・淡路大震災が発生した日だ。4年前の記事「あの日自分は・・・」では、その日の記憶に付いて書き記した。非被災者で在る自分には、被災者が抱えておられる思いや苦しみを100%理解しているとは思っていない。唯、あの日を同じ日本で迎えた者としては、その記憶をずっと心に刻み、後世に伝えて行かなければという思いは持っている。とは言え、そんな自分でもあの日の記憶が日々疎くなっているのは否めない。実際に其処に身を置いておられた者と、そうでは無い者との差は確実に在るという事だろう。
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「兄の形見『僕が背負う』 ランドセル、小1弟へ」(1月11日、東京新聞)
ランドセルは亡くなった御兄ちゃんから阪神大震災後に生まれた弟に受け継がれた。「僕が背負って行く。」。震災で死亡した米津漢之君=当時(7歳)=の形見を、昨春小学生になった弟凜君(6歳)が使っている。「会う事の無かった兄弟だけど、漢之はきっと喜んでくれる筈。」と父勝之さん(48歳)は目を細めた。
勝之さん一家4人が暮らしていた兵庫県芦屋市のアパートは全壊し、小学1年の長男漢之君と長女深理ちゃん=当時(5歳)=が亡くなった。
漢之君の黒いランドセルは、潰れた自宅から数週間後にほぼ無傷で見付かった。「短い生涯の証しだと思い、懸命に取り出した。」と勝之さん。中に入っていたのは綺麗に削った鉛筆や、震災当日の時間割に揃えた教科書。そして「せんせいあのね」で始まる日記帳だった。
前日の夕方、家族でカレーを作った話が綴られた最後の日記は「あした、たべるのがたのしみです。」と締め括られていた。「明日も普通の一日が来ると思っていたのに・・・。」と勝之さん。
その後、次女英さん(11歳)と次男凜君が生まれた。直後は語りたくなかった震災の経験も、時が経つにつれ「伝えたい。」と思う様になる等、勝之さん夫婦には心境の変化も在った。唯、ランドセルだけはあの日のまま、十数年間棚の奥で眠り続けていた。
小学校入学を控えた凜君に「ランドセルどうする?」と勝之さんは尋ねてみた。無理に使わせる気は無かったが、聞かなければならないと思った。
死んだ兄が使ったランドセルと知っていた凜君は「僕が背負って行く。」ときっぱり。その言葉が無性に嬉しかった。
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“たられば”を言っても詮無い事だが、阪神・淡路大震災が起こらなければ今年の1月17日時点で漢之君は21歳、深理ちゃんは19歳という事になる。触れ合う事の無かった兄姉の事を、妹弟で在る英さんや凜君は彼女達なりに色々受け止めているのだろう。亡くなられた6千余名にはそれぞれ家族が居り、それぞれの哀しみが存している。「時がどれ程経過しようとも、被災者達の記憶が薄れ行く事は無いのだなあ。」と再認識させられる記事だった。
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「兄の形見『僕が背負う』 ランドセル、小1弟へ」(1月11日、東京新聞)
ランドセルは亡くなった御兄ちゃんから阪神大震災後に生まれた弟に受け継がれた。「僕が背負って行く。」。震災で死亡した米津漢之君=当時(7歳)=の形見を、昨春小学生になった弟凜君(6歳)が使っている。「会う事の無かった兄弟だけど、漢之はきっと喜んでくれる筈。」と父勝之さん(48歳)は目を細めた。
勝之さん一家4人が暮らしていた兵庫県芦屋市のアパートは全壊し、小学1年の長男漢之君と長女深理ちゃん=当時(5歳)=が亡くなった。
漢之君の黒いランドセルは、潰れた自宅から数週間後にほぼ無傷で見付かった。「短い生涯の証しだと思い、懸命に取り出した。」と勝之さん。中に入っていたのは綺麗に削った鉛筆や、震災当日の時間割に揃えた教科書。そして「せんせいあのね」で始まる日記帳だった。
前日の夕方、家族でカレーを作った話が綴られた最後の日記は「あした、たべるのがたのしみです。」と締め括られていた。「明日も普通の一日が来ると思っていたのに・・・。」と勝之さん。
その後、次女英さん(11歳)と次男凜君が生まれた。直後は語りたくなかった震災の経験も、時が経つにつれ「伝えたい。」と思う様になる等、勝之さん夫婦には心境の変化も在った。唯、ランドセルだけはあの日のまま、十数年間棚の奥で眠り続けていた。
小学校入学を控えた凜君に「ランドセルどうする?」と勝之さんは尋ねてみた。無理に使わせる気は無かったが、聞かなければならないと思った。
死んだ兄が使ったランドセルと知っていた凜君は「僕が背負って行く。」ときっぱり。その言葉が無性に嬉しかった。
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“たられば”を言っても詮無い事だが、阪神・淡路大震災が起こらなければ今年の1月17日時点で漢之君は21歳、深理ちゃんは19歳という事になる。触れ合う事の無かった兄姉の事を、妹弟で在る英さんや凜君は彼女達なりに色々受け止めているのだろう。亡くなられた6千余名にはそれぞれ家族が居り、それぞれの哀しみが存している。「時がどれ程経過しようとも、被災者達の記憶が薄れ行く事は無いのだなあ。」と再認識させられる記事だった。
このマンションのオーナーさん。近所の八百屋さん。子供の公園仲間の女の子。中学の同級生3人。先生2人。知人だけでもこれだけの人が亡くなりました。
被災地以外の人にとっては、あの大震災はもはや歴史上のできごとになっているのではないでしょうか。でも、私たちのように、震災の犠牲者の生前を知っている人にとっては、その人を憶えている限り、震災は終わっていないのです。
この話題を貴ブログの記事とされたことを、被災者として感謝します。
「地獄絵図」という表現が在りますが、そんな表現を非被災者の自分が軽々しく使えない、言葉に尽くし難い現状が在ったのだという事を、マヌケ様の書き込みで改めて感じました。悪意は無いにせよ、マスメディアや非被災者の側には“安全地帯”に身を置きつつ興味本位的な部分が全く無かったとは言えないと思います。それは自分(giants-55)にも言える事かと。
被災地に入り込んで悪事を為した連中“も”居た一方で、被災者を救う為に身を粉にして人達も居た。「その資金は何処から出たのか?」という野暮な詮索は無しにして、暴力団の人達が率先して救援物資を配布したというニュースに胸打たれもしました。
非被災者の自分としては、己が見聞した限りのあの日の出来事を後世に伝えて行かなければと思っております。
私も当時は西宮市内にある実家で被災しました。
あの朝は大震災前の余震で目が覚めたようでして枕元の時計を見ると5時46分。外から新聞配達のバイクの音が聞こえ「あと1時間ほど寝ていられるな。起きようかどうしようか・・」と考えていると。。。
そのあとのあの揺れは一生忘れられません。
何とか家も崩れなかったのが不幸中の幸いでいたが(家屋は半壊でした)、我が家の近所で地滑りがあり、中高時代の同級生が2人亡くなりました。
あの当時マスコミのヘリコプターが何機も我が家近くを旋回し、その爆音と振動で家中の柱がビリビリと音を立てていました。
ただでさえ崩れそうになっていた家だったので「おまえら、そんな低空で飛ぶな!」と本当に腹が立ちました。思わずヘリに石を投げようかと思いましたね。
そのほかにもいろいろありましたが、ここでは割愛します。早いもので今年でもう10数年が経過しますが、未だに忘れることができず、もちろん一生あの時の記憶を忘れたくないものです。
小学生の頃、学校の図書館に置いてあった漫画「はだしのゲン」を手に取り、その余りの悲惨な内容に恐怖心すら覚えました。原爆投下による爆風で倒壊した家屋に挟まれ、身動きが取れなくなったゲンの父と姉&弟。彼等を必死で救出しようとするも、それは叶わず。やがて発生した火災で、父達が生きたまま焼死して行くのを見守らなければならなかった・・・というシーンに「もし自分が生き乍らに焼死しなければならない立場だったら。」、「身内が焼死して行くのを見守らなければならない立場だったら。」と様々な思いが浮かび、堪らない気持ちに。阪神・淡路大震災では同様の事態が起こっていたという話を見聞しておりましたが、マヌケ様が上で書かれた体験談からもそういった事態が起こっていたで在ろう事が窺われ、何とも言えない思いになりました。
原爆被害者を助けるという“表向きの理由”を掲げ、裏では原爆被害者を食い物にしている連中の姿も「はだしのゲン」の中で描かれていましたが、実際に被害に遭われた方々の中には、低空飛行しているヘリコプターがそれこそ自分達を食い物にしている(興味本位だけで取り扱っている)と感じられた人も居られる事でしょうね。
表面的には平和とされる我が国に在って、僅か14年前に戦時中の様な悲惨な経験をされた方々が居られる一方で、それを知らない、又は詳しくは知らない人達も居る。知っているつもりで在っても、全部を理解し得ている訳では無いし、全部を理解し得るのは無理な話とも言えましょう。
自分を含めた非被災者には、様々な情報に当たった上で、実際にどういった事柄が起きていたのかを想像するしかない。それを忘れずに。後世に伝えて行く事が重要なのではないかと。
一部の馬鹿な輩もいましたが、人の温かさというものがほんとにありがたかったです。いやな思い出ばかりではありませんでした。
自分もですがよくここのコメントされる方は関西(出身)の方がおおいですね
阪神・淡路大震災で自衛隊の派遣が遅れたのは、時の首相だった村山富市氏の決断力の無さが大きかったと思います。個人的には災害時に派遣される自衛隊の方々は良く頑張ってくれていると感謝していますし、恐らく“あの時”も「逸早く現場に行かせてくれ!」という思いを持っていた隊員達は少なくなかったのではないかと。唯、未曾有の大災害という事で、早急に決断が下せなかった村山氏を100%責められない自分も居る。自分が同じ立場だったら、果たして早急に指示を出せたか自信が無いし。「そんな決断力の無い人間が首相じゃ困る。」という御意見も在ろうし、それはその通りだと思うのですが、間接的にとはいえそんな人間を首相にしてしまったのも我々国民。
あの災害は多くの哀しい記憶を残しましたが、同時にその後に繋がる物も残してくれたと信じたいです。それは「大災害発生時に備えたシステム作り」、「ヴォランティアという意味合いを改めて考えさせてくれたきっかけ。」等。
「何時かは大地震が起きるだろう。」という思いが無かった訳では無いけれど、実際にあれ程の大地震が起こると先ずは茫然としてしまうというのが正直な所でした。当時の村山首相に決断力が無かったのは確かですが、でも未曾有の大災害を前にして、実際に自分が同じ立場だったら逸早く動けたか自信が在りません。
あの大震災で多くの人達が被災者に救いの手を差し伸べたものの、「最終的には自らの手で立ち上がって行かなければならない。」という厳しい現実が在り、それは非常に痛感させられました。