ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

“ブーム”に乗り易い国民性

2019年01月12日 | 其の他

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、私も年齢的に人生の終盤に入り、少しづつ終活を始めました。長きに亘って大変御世話になった事を心より感謝し、年賀状は今年で終わりにしたいと思っております。非常に勝手な決断では在りますが、何卒御理解下さい。御多幸を祈っております。

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去年の12月27日に「年賀状仕舞い」という記事の中で紹介した、「2018年元日、以前の勤務先の元上司から届いた年賀状の文面。」で在る。「年賀状仕舞い」とか「終活年賀状」というのが近年増えているのは知っていたけれど、実際に“年賀状仕舞いを宣言する年賀状”を受け取ったのは初めてだったので、「へー。」と思った物。

 

「年賀状仕舞い」の中でも書いたけれど、物事の考え方は人其れ其れで在り、他者が下した年賀状仕舞いという決断に対して、どうこう言う気は無いが、個人的には「相手から年賀状仕舞いされない限り、年賀状を送り続けたい。」という思いを持っている。

 

「非常に仲の良い兄弟。」とか「理想の家族。」といった様に、マスコミが“気持ち悪い程の美辞麗句”を並べ立てた結果、“若貴ブーム”なる物が出来上がったが、自分は彼等に対して胡散臭さをずっと感じていた。案の定と言うべきか、彼等の虚飾が次々と剥がれ落ちて行った訳だが、「そんな一家だとは思わなかった。騙された。」みたいな事を言っている人達を見ると、「自分で本質見極め様とする事無く、簡単にブームに乗っかってしまう人が多いなあ。」と感じた。特に日本人は、“ブームに乗り易い国民性”を有している様に思う。

 

平成での新年”が最後という事も在り、来年の年賀状で“年賀状仕舞い宣言”をする高齢者が増えそう。」と、昨年末に矢鱈と報じられていた。「“ブームに乗り易い国民性”を考え合わせると、『年賀状書くの面倒だし、年賀状仕舞いのブームに乗っかって、自分も年賀状仕舞いをし様!』という人が、どっと増えるだろうな。」と予想はしていた。

 

そして迎えた新年、我が家に関して言えば“年賀状仕舞いを宣言する年賀状”は1枚も届かなかった。だが、宣言無しに年賀状仕舞いをした(と思われる)人が6人。何れもウン十年間、年賀状の遣り取りをして来た人達だ。

 

内4人に関しては、実際に会う事が無くなって相当になる人達なので、「書く事も無くなって来て、こういう決断をしたのだろうな。」と。でも、残り2人に関しては古くからの友人で、飲む機会も少なからず在ったりする関係だったので、年賀状が届かなかった事はショックでも在った。(内1人はメールで連絡をくれたのでホッとしたけれど、もう1人は梨の礫。)

 

本人が大病患っている等、連絡を取りたくない事情が在るのかも知れない。そうだとしたら、年賀状を出さなかった事も理解出来る。だが、「ブームに乗っかって、人間関係を切りたかった。」という事ならば、非常に残念だ。自分自身に其れだけの“価値”が無かったと反省しなければいけないが、“ずっと付き合っていける仲間”と思っていただけに、大きな寂しさが在る。


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2 コメント

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私も年賀状は出し続けます (Kei)
2019-01-12 20:58:46
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
先日は拙ブログにお見舞いのコメントいただき、ありがとうございました。もう大分良くなりました。

さて、「年賀状仕舞い」の件ですが、私もgiants-55さんと同じく、元気でいる間は、先方から年賀状仕舞いされない限り年賀状は送り続けるつもりです。
その理由としては、例えほとんど会っていない相手だとしても、年賀状が届く事によって、「まだ元気でいるんだな」という事が確認出来るので、「私もまだまだ頑張ろう」という気持ちにさせてくれるからです。中には近況報告、例えば「孫が生まれました」「先日、海外旅行に行って来ました」などを写真入りで伝えてくれる事もあるので、微笑ましくなります。
もう一つの理由は、もし先方の身内の方(あるいは本人)が亡くなられた時、年賀状を交わしていると、ほとんどの場合「喪中欠礼」のハガキが届きます。これによって、年賀状送付先の奥様、その他のご家族にご不幸があった事が情報として伝わりますし、時には年賀状を交わしていた古い友人本人のご逝去の知らせが届く事もあります。それなら機会があった時、お線香をあげに伺おうかという気にもなります。
年賀状仕舞いをしてしまうと、「喪中欠礼」を送る事もないでしょうから、そうした情報を得る機会もなくなってしまいます。あるいは転居した場合、それもも知らないままになり、何かの時に連絡を取ろうとしてもそれが不可能になってしまいます。年賀状仕舞いは、そうした情報遮断に繋がるという事なのです。

まあ、私がもっと高齢になって目も悪くなったり、もう年賀状を出す体力が無くなったと判断したその時には、私も年賀状仕舞いを出すかも知れませんが。
ある意味年賀状を出す、という行為自体が、「今年も元気で1年を終えた、自分を励ます気力の源」になっているのかも知れませんね。
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>Kei様 (giants-55)
2019-01-13 01:07:28
書き込み有り難う御座いました。此方こそ、今年も宜しく御願い致します。

Kei様の今回の書き込み、全く同感です。面倒か否かで言えば、年賀状を仕上げるのは面倒と言えるでしょう。でも、Kei様が書かれている様な事柄は重要だと思うし、又、「面倒な事は避ければ良い。」という考え“だけ”が主になると、社会から潤いという物が全く無くなってしまう気がするんです。1年に1回の事ですし、こういう習慣が消えて行ってしまうとしたら、凄く残念な気が。
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