68年前の今日の未明(日本時間)、オアフ島の港、通称「真珠湾」を日本海軍が急襲した。其処にはアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地が在り、日本軍は南方作戦の一環として攻撃した物で、これにより約4年に及ぶ太平洋戦争の幕が切って落とされる事に。
開戦当初にはそれなりの戦績を上げられたものの、早い段階から日本軍は窮地に追い込まれて行き、結果として壊滅的な状態で日本は敗戦を迎えたのは多くが知る所。敗れ去った要因は幾つか在ろうが、「日本とアメリカ間の、埋め難い物量面の差」というのは最大要因と言っても良い。
太平洋戦争勃発の2年前、1939年に公開されたハリウッド映画「風と共に去りぬ」。この作品が我が国で公開となったのは、太平洋戦争終結から7年後の1952年だった。しかし太平洋戦争中、上海やシンガポール等で少なからずの日本軍関係者がこの作品を観て、その大規模な作品内容に圧倒され、「こんな凄い映画を製作出来る国と戦っても、日本が勝てる訳が在ろうか。」と愕然としたという逸話が在る。「もし開戦前に日本でこの作品が公開され、多くの日本人が観たならば、これ程迄に物量面で格差の著しいアメリカと戦おうなんて思わなかったろう。」という思いが、この逸話からは感じられるのだが、「行け行けドンドン!」とばかりに突っ走った軍部に在っても、開戦当初からきちんと現状把握出来ている者は居た。これ迄にもそういった人物の名前が何人か挙がっていたけれど、12月7日付けの東京新聞(朝刊)には新たな名前が載っていた。
太平洋戦争勃発から21日後の1941年12月29日、掃討作戦等から中国・徐州の師団本部に戻って程無かった陸軍第17師団の師団長・平林盛人中将は、部下の将校を集めて昼食会を行った。昼食会には40人程の将校が出席したが、食事を済ませると平林中将は何時に無く険しい表情で、次の様に語ったと言う。
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「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えない事は、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みだ。」
「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英を相手に戦う余力は、今の日本には無い。負け戦と判っている戦争は、絶対に遣ってはならない。」
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開戦を痛烈に批判したこの“演説”をこの程証言したのは、昼食会に出席していた元部下2人(元副官の平谷典樹氏、元主計将校の風早英雄氏)。平林中将の話を聞いた際の衝撃を、平谷氏は「負けるとは考えもしておらず、皆しゅんとしていました。」と、そして風早氏は「びっくりしました。『この話は無かった事にしよう。』と、皆で話し合いました。」と語っている。開戦に異議を唱えるなんぞ、当時は「非国民」扱いされる事だったろう。ましてや戦争を実際に行っている軍部でのこの手の発言は、「死を覚悟」しての物と言えなくも無い。風早氏が証言している様に、「これが外部に漏れたらまずい。」と考えた出席者(将校達)により、平林発言は「他言無用」という事になり、約68年もの間“歴史の闇”に追い遣られていた訳だ。
開戦時の首相・東條英機氏に付いても、平林中将はこの席で「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器では無い。この難局を処理する能力等持ち合わせていない。」と厳しく指弾したそうだ。元々平林中将は東条氏と気が合わなかったとされ、約1年後に師団長の任を解かれて予備役となっている。又、平林中将と同期の石原莞爾氏が「東條批判」をしている。平林中将にとってはそもそも気が合わない相手で在り、尚且つ同期の影響も受けての東條批判という面がゼロでは無いだろうけれど、“あの時代”に“時の首相”を公然と批判するというのは相当な勇気が必要だったろうし、何よりも好い加減な現状認識では口に出来なかったと思う。
主流に乗っかるは易けれど、主流に抗うは非常に難し。どんな時でも冷徹な目で事象を分析するというのは、なかなか出来ない事で在る。
開戦当初にはそれなりの戦績を上げられたものの、早い段階から日本軍は窮地に追い込まれて行き、結果として壊滅的な状態で日本は敗戦を迎えたのは多くが知る所。敗れ去った要因は幾つか在ろうが、「日本とアメリカ間の、埋め難い物量面の差」というのは最大要因と言っても良い。
太平洋戦争勃発の2年前、1939年に公開されたハリウッド映画「風と共に去りぬ」。この作品が我が国で公開となったのは、太平洋戦争終結から7年後の1952年だった。しかし太平洋戦争中、上海やシンガポール等で少なからずの日本軍関係者がこの作品を観て、その大規模な作品内容に圧倒され、「こんな凄い映画を製作出来る国と戦っても、日本が勝てる訳が在ろうか。」と愕然としたという逸話が在る。「もし開戦前に日本でこの作品が公開され、多くの日本人が観たならば、これ程迄に物量面で格差の著しいアメリカと戦おうなんて思わなかったろう。」という思いが、この逸話からは感じられるのだが、「行け行けドンドン!」とばかりに突っ走った軍部に在っても、開戦当初からきちんと現状把握出来ている者は居た。これ迄にもそういった人物の名前が何人か挙がっていたけれど、12月7日付けの東京新聞(朝刊)には新たな名前が載っていた。
太平洋戦争勃発から21日後の1941年12月29日、掃討作戦等から中国・徐州の師団本部に戻って程無かった陸軍第17師団の師団長・平林盛人中将は、部下の将校を集めて昼食会を行った。昼食会には40人程の将校が出席したが、食事を済ませると平林中将は何時に無く険しい表情で、次の様に語ったと言う。
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「装備劣勢の日本軍が近代戦を戦えない事は、先の(ソ連に惨敗した)ノモンハン戦で立証済みだ。」
「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英を相手に戦う余力は、今の日本には無い。負け戦と判っている戦争は、絶対に遣ってはならない。」
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開戦を痛烈に批判したこの“演説”をこの程証言したのは、昼食会に出席していた元部下2人(元副官の平谷典樹氏、元主計将校の風早英雄氏)。平林中将の話を聞いた際の衝撃を、平谷氏は「負けるとは考えもしておらず、皆しゅんとしていました。」と、そして風早氏は「びっくりしました。『この話は無かった事にしよう。』と、皆で話し合いました。」と語っている。開戦に異議を唱えるなんぞ、当時は「非国民」扱いされる事だったろう。ましてや戦争を実際に行っている軍部でのこの手の発言は、「死を覚悟」しての物と言えなくも無い。風早氏が証言している様に、「これが外部に漏れたらまずい。」と考えた出席者(将校達)により、平林発言は「他言無用」という事になり、約68年もの間“歴史の闇”に追い遣られていた訳だ。
開戦時の首相・東條英機氏に付いても、平林中将はこの席で「本来憲兵司令官を最後に予備役に編入せらるべき人物で、陸軍大臣、総理大臣の器では無い。この難局を処理する能力等持ち合わせていない。」と厳しく指弾したそうだ。元々平林中将は東条氏と気が合わなかったとされ、約1年後に師団長の任を解かれて予備役となっている。又、平林中将と同期の石原莞爾氏が「東條批判」をしている。平林中将にとってはそもそも気が合わない相手で在り、尚且つ同期の影響も受けての東條批判という面がゼロでは無いだろうけれど、“あの時代”に“時の首相”を公然と批判するというのは相当な勇気が必要だったろうし、何よりも好い加減な現状認識では口に出来なかったと思う。
主流に乗っかるは易けれど、主流に抗うは非常に難し。どんな時でも冷徹な目で事象を分析するというのは、なかなか出来ない事で在る。
日本軍の上層部にもしっかりとした見識を持ち、不本意乍ら参戦しなければならなかった者も居るとは思うのですが、兵士達を単なる「駒」としか考えず、机上の空論で戦争に突っ走ってしまった上層部の人間には憤りを感じます。
NHKの番組「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか~400時間の証言より~」は、一昨日(月曜日)にも再放送されていましたね。人間って余りにも自虐的になってしまうと、笑いで誤魔化すしかないという面も在りますが、“あの人達”の笑いは一体どっちだったのでしょうか?
「開戦して暫くの間、日本軍は良く戦っていた。日本国民もそれを歓迎していた訳だし、軍部だけに全ての責任をおっ被せるのはおかしい。全体責任の筈。」という意見も在りますが、自分はそう思わない。市井の者達は国家の責任者や軍部が決断した事を、唯々諾々と受け容れざるを得ない状況に在ったと思うし、それを「全体責任だから仕方無い。」としてしまうのでは、戦争で亡くなった者達が余りに哀れ。