昨日のスポーツニッポンに載っていたのだが、カリフォルニア州南部のウェスト・ハリウッド市のジョン・デュラン市長が、米国で増加しているペットの整形に付いて、「動物の苦痛を伴う。」として禁止する条例案を発表したという。*1条例案はペットの健康維持の為医療上必要とされる場合を除き、犬や猫の外見を良く見せる為耳や尻尾の一部を切除する手術を禁止するのだとか。条例案が可決されれば、全米で初めてペットの整形禁止が法令化される事となる。この条例案に付いては、動物医療の現場から、米国で一般化している人間の整形手術と同じで安全性も高いとの反発も出ているという。
具体的に問題になるのは、本来は垂れ耳のドーベルマンの耳を細く尖らせる為にカットしたり、本来は長い尻尾を持つプードル等の尻尾をカットして特有の形に整えるといった事だろう。狂信的な動物愛護を掲げる人や団体にはウンザリする自分だが、こういった飼い主のエゴとも言える形でペットの整形を成すのは否定的な考えを持っている。
以前、記事にしたのだが、我が家では1匹の超小型犬を飼っている。今年で11歳を迎える老犬の範疇にあるワンコなのだが、3年程前に膵外分泌不全という不治の病に罹患し、下痢が止まらないわ、数週間置きに御腹にメスを入れて腹水を抜くわといった状態で何度か死線を彷徨った。幸いにも、独自に試した食餌療法(アボガドと海外から取り寄せたドライ・フードのみを与える。)が功を奏してか、下痢&腹水はピタッと止まり、元気を取り戻すに到った。(毛がなかなか生えない等の症状も残っているので、病気自体が治った訳ではないと思うが、到って元気なのだ。)唯、2年に亘る闘病生活の過程で、血行不良を起こし、尻尾の先端と鼻の一部を切り落とさなければならなかった。痛み止めの麻酔を打たれてはいるものの、自分の方を哀しげな目で見詰め、カットされる瞬間に「キャンキャン!」と吠えたワンコの姿は今でも自分の記憶に澱となって残っている。
「親から貰った身体にメスを入れるのは嫌だ。」と思う自分も、”人間”が自身の選択で”自身”の身を整形するのは否定しない。整形する事で、自分自身を変えられるというメリットも在るとは思う。でも、ペットは別だ。
ジョン・デュラン市長はペットへの整形禁止を決めた理由に付いて、下記の様に述べているが、自分も全く同じ思いだ。
「人間は自分で決定出来るが、ペットは自分で整形手術の是非を判断出来ないから反対するのだ。」
*1 同市では既に、犬の無駄吠えを防ぐ為の声帯除去や、猫の爪を除去する手術が禁止されているとの事。
具体的に問題になるのは、本来は垂れ耳のドーベルマンの耳を細く尖らせる為にカットしたり、本来は長い尻尾を持つプードル等の尻尾をカットして特有の形に整えるといった事だろう。狂信的な動物愛護を掲げる人や団体にはウンザリする自分だが、こういった飼い主のエゴとも言える形でペットの整形を成すのは否定的な考えを持っている。
以前、記事にしたのだが、我が家では1匹の超小型犬を飼っている。今年で11歳を迎える老犬の範疇にあるワンコなのだが、3年程前に膵外分泌不全という不治の病に罹患し、下痢が止まらないわ、数週間置きに御腹にメスを入れて腹水を抜くわといった状態で何度か死線を彷徨った。幸いにも、独自に試した食餌療法(アボガドと海外から取り寄せたドライ・フードのみを与える。)が功を奏してか、下痢&腹水はピタッと止まり、元気を取り戻すに到った。(毛がなかなか生えない等の症状も残っているので、病気自体が治った訳ではないと思うが、到って元気なのだ。)唯、2年に亘る闘病生活の過程で、血行不良を起こし、尻尾の先端と鼻の一部を切り落とさなければならなかった。痛み止めの麻酔を打たれてはいるものの、自分の方を哀しげな目で見詰め、カットされる瞬間に「キャンキャン!」と吠えたワンコの姿は今でも自分の記憶に澱となって残っている。
「親から貰った身体にメスを入れるのは嫌だ。」と思う自分も、”人間”が自身の選択で”自身”の身を整形するのは否定しない。整形する事で、自分自身を変えられるというメリットも在るとは思う。でも、ペットは別だ。
ジョン・デュラン市長はペットへの整形禁止を決めた理由に付いて、下記の様に述べているが、自分も全く同じ思いだ。
「人間は自分で決定出来るが、ペットは自分で整形手術の是非を判断出来ないから反対するのだ。」

*1 同市では既に、犬の無駄吠えを防ぐ為の声帯除去や、猫の爪を除去する手術が禁止されているとの事。
唐突に「コメント書き込みの事前承認制」に変更された事で、戸惑われたのではないかと申し訳無く思っております。この辺の事情に関しては、上でおりがみ様宛てに書かせて貰っておりますので、読んで戴けたらと。
聴覚障害者や視覚障害者の方々の為、その「耳」や「目」となってくれている聴導犬や盲導犬、介助犬呼ばれる犬達。障害を持たれた方々にとって、これ程心強く且つ在り難い存在は無いと思っておりますが、でも犬達の立場になると「ストレスが溜まるだろうなあ。」とも。自身を厳しく律しなければならない聴導犬達は、“概して”その寿命が短いという話を聞いた事が在ります。その真偽は別にしても、常に緊張を強いられるで在ろう“彼等”にとって、せめてその余生は他の犬以上に幸福で在って欲しいです。
書き込んで下さった方が御自身のブログを持っておられる場合には、そちらの方にレスを付けさせて貰う形を“原則”採っているのですが、今回はこちらの方“にも”付けさせて貰います。
避妊&去勢手術に関しては、自分もvalvane様に近い考えを持っています。本来持っている物を人為的に取り上げてしまう(これを言ってしまうと、「ペットを飼う行為自体も、人為的にペットの自由を取り上げてしまっている。」という指摘も在ると思います。それは確かにそうなんですけどね。)というのは可哀想な気がして。自分自身が他者の命令で、生殖機能を奪われてしまったらと考えると、「それは嫌だなあ。」と思いますし。
唯、「特定の病気(癌等)の予防になるから。」とか、「猫の様に100%家の中で飼うのが難しい動物の場合、外で身籠ってしまう可能性も在るから。」という理由等から、避妊&去勢手術を施す飼い主も居ると思いますから、そういう場合迄も否定は出来ないなあというのが自分の思い。飼い主も決して積極的にそういった事をしたい訳では無いのでしょうし、難しいですね。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
突如、コメント書き込みが「事前承認制」に変更された事で、戸惑われておられる方も居られると思います。当ブログでは開設当初からずっと、書き込みが直ぐに反映される様にしておりました。事前承認制にしてしまうと、当方(giants-55)に都合の良い書き込みだけを承諾し、そうで無い書き込みは全て消去している様に思われるのも嫌だったし、書き込んで戴いたコメントを元に、様々な方がそれに対しての御意見を寄せて下さるという形が望ましいと思っていたからです。
しかし昨日、YAHOO!のニュース記事にこの記事がリンクされた為、宣伝の書き込み(H系が主体。)が余りにも酷くなり、緊急避難的(一時的)に事前承認制を採らせて貰いました。落ち着きましたら、又、元の通りに戻す予定です。何の説明も無くシステムを変更しました事を御詫びすると共に、そういった理由が在った事を御理解戴けると幸いです。
ペットを飼う事で癒される人間が居る。同時にペットも極力ストレスが無い環境下で、癒される状態に在って欲しいですね。
記事でも触れました様に、自分は犬を飼っております。確かに言葉こそ喋らないものの、ボディーランゲージと言いましょうか、犬の身振り素振りでその感情が判りますよね。「拗ねた表情や甘えた表情をする。」と他者に言うと、「親馬鹿だよ。」と返されてしまいそうですが(笑)、密にコミュニケーションを取っていると、御互いに通じ合える部分が生まれる様に自分は思います。これは犬以外の動物にも言えますが。
恐らく通りすがり様も、「犬の思いを“100%”人間が理解出来る訳では無い。」という趣旨で書かれているのだと思います。言葉を交わせる人間同士ですら、お互いに100%心を通い合わせるのは困難と言えますし、ましてや“物理的に”言葉を交わし合えない動物を相手にした場合、「“恐らく”こういう事を思っているのだろうな。」という忖度は出来ても、それが100%正しいかどうかは判らず、ましてやエゴを剥き出しでペットに対している人も残念乍ら居りますので、そういった点を通りすがり様は懸念されているのだと、自分なりに理解しているのですが。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
ドーベルマンも尻尾を切られているケースが殆どですよね。えり様が書かれておられる様に「犬にとって尻尾はウイーク・ポイントとされており、其処を踏まれたり噛まれたりすると危険(狩猟犬の場合は戦闘意欲を喪失してしまう。)。」という理由から、人為的に切り落とされたもの。その他にも「跳躍力を増させる為。」とか「藪等に入った際に、尻尾を怪我させない為。」といった理由も在るそうですが、兎に角犬の立場に立った理由と言うよりも、人間の立場、ハッキリ言えば人間のエゴによる処置と言えましょうね。人それぞれに考え方は在りましょうが、“個人的には”ペット・ショップで尻尾を切られている犬達を目にすると心が痛みます。
ペットを飼うという事に付いても、これ又人それぞれの考えが在るだろうし、どの考え方が唯一無二的に正しいとする物でもないと自分は考えています。唯、飼うからにはペット達がストレスを極力感じない環境を作るのが飼い主の“最低限の”義務で在り、玩具として扱ったり、時々見掛ける様に「躾と称して蹴ったり殴ったりしている。」のは論外でしょう。(人間社会でも「愛の鞭」と称してボカスカ殴ったりする人が居ますが、個人的には受け入れ難いです。)
当ブログは、熱く語って戴ける方大歓迎です。
ある介護犬が役割を終えて、余生を過ごす施設に飼い主の家族とともにやってきました。 別れを惜しんでしばしのスキンシップのあと、家族は車でその場を去って行きました。 家族が見えなくなってもなおしばらくその犬は施設の前で家族が去って行った方向を見つめたままだったそうです。 職員さんが中に入れようとしても頑として動かずやがて小雨が降り出し、それがだんだん大粒の雨に変った時、その犬は空に向かって「わお~ん」と悲しげに遠吠えしたのだそうです。 介護犬として働くために普段から
吠えたり、犬としての本来の振る舞いを厳しく制限され、しつけられていた犬は最後に普通の犬として悲しい気持ちを家族に向かってぶつけた、素直に犬に戻った瞬間だったようです。 犬にも気持ちがあってそれが揺れ動いたり、我慢したりするなんてとても素敵ではないでしょうか。 ヒトと長らく暮らしていくうちに感情表現までできるようになったのでしょう。 犬にも気持ちがあるのだからヒトがヒトの目線だけでの一方的なコミュニケーションだと嫌に思うこともきっとあるでしょうね。 それがストレスとなることもあると思います。
そして私の場合は、どちらかと言うと避妊・去勢手術すら、反対です。日本でもアメリカでも、動物愛護団体は当たり前のように去勢・避妊手術を推奨していますが、これだって本来の飼い主がきちんと(オスだけ、メスだけで室内飼いするなど)するならば、不要なはずです。そこまで期待するのが無理なので、やむを得ずの方策なのだと理解していますが、去勢・避妊手術を当たり前とは思って欲しくないです。日本でもきちんと考え直す時が来ればいいのですが…。
優しい飼主のいるところへ。
もしくは
優しい飼主に。
では・・人間は???
閻魔さまの前でどこに行くのか決めてもらいましょう・・・。
何が虐待なのか考えると、人には色々な解釈の仕方があって、本当に難しいですね。
例えばコーギー、元は尻尾があるんですよね。
牧羊犬として飼われていたコーギーは、家畜に尻尾を踏まれて危険だということで、尻尾を切られるようになったとか。
ペットショップでは当然のように、尻尾を切られたコーギーしか売られていない。
コーギーに尻尾があることを知らない人間も多いでしょうね。
ペットショップで尻尾を切ること自体、不必要な整形だと思いますが、牧羊犬として利用し、その為に尻尾を切るというのも、必要なようでいて、考え方によってはそもそも「牧羊犬」として「利用」していること自体が虐待だと思う人もいるでしょう。
そう考えると、この話題に決着はつくのかと、凄く悩みます。
私自身もgiants-55さんに賛成です。
ペットへの整形手術も反対です。
コーギーの尻尾を切るペットショップにも、激しく憤りを感じます。
まぁペットショップの存在自体がどうかという部分もありますが、これを話すとさらにきりがないので、このことは辞めておきますが(苦笑)
ただ、ペットを飼うということは、私にしてみたらある程度はしかたがないというか、自然な成り行きもあると思います。
例えば犬や猫が自然に自由に暮らしている生き物だとしても、例えば犬猫が怪我をしていたりするのを、人間が発見した場合、優しい人間は家に連れて帰り、開放するでしょう。
すると、気質的に人懐っこかったりする猫や犬だった場合、懐いて、人間も手放せなくなって、飼うということになる可能性がありますよね。
そうやって、古代から、利用というだけでなく、かわいがるということで、ペットが変われてきてるんじゃないかと。
ま、あくまでも私の考えなんですけどね。
犬や猫も自然保護動物として、飼う事を禁止にでもしない限り、飼うというのはなくならないと思うし、例えば上記のように、怪我してたのを保護された犬や猫が懐いた場合は、別に飼う事自体が虐待だとも思えません。
自然に帰す事が、その動物の命を脅かす事もああるし、飼う事が致し方ないこともあるとおもいますし。
飼う、ではなく共生っていう言葉になれば良いのになと思います。
飼うという時点で、主従関係が生まれて、人間は他の生き物や命について驕っているんでしょうね。
自分が生かしてやってる、みたいな。
やはり共生には、共生した以上、人間だけでなく、出来るだけ互いに(ここが大事!)ストレスを感じさせない環境を作るのが、やはり大切なんじゃないかと。
私もそれがベターだと思います。
人間ばかりが優先されるからだめなんじゃないかと。
日本ももっと他の生き物の命を重んじるような法律を作ってもらいたいですね。
まず手始めとして、ペットを物としてあつかう器物損壊というのは止めてもらいたいですよね!
はじめましてなのに、熱くなっちゃってすみません!
|電柱|_・*)チラッ
「何でこんな古い記事に対して、急に書き込みが増えたのかなあ?」と不思議に思っていたのですが、YAHOO!のニュース記事にこの記事がリンクされていたんですね。やっと状況が判りました。
「整形」も「飼う」のも、物言えぬペットにとってはどちらも人間のエゴ。これはその通りでしょうね。例え室内で犬を放し飼いにしていたとしても、自由に外を走り回れるのとは異なる「拘束」が在る訳ですし。
上でたがみ様宛てに書かせて貰った様に、「出来るだけペットにストレスを感じさせない環境を作って上げる。」というのが、ペットを飼う上でのベター(ベストとは言いません。)な選択ではないかと自分は考えます。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
>人間は自分で決定出来るが、ペットは自分で整形手術の是非を判断出来ないから反対するのだ。
まぁその通りだと思うんだけど、虐待だという人もそうじゃないという人もどちらも間違ってはいないと思いますね。
理由はどちらの意見も人間のエゴだと思うから。
だって動物の言葉はわからないし、考えてる事もわからない。
人間はこの地球上では頂点に立つ生き物だから他の生き物を利用してきたわけであって、昔からずっとやってきた事ですよね。
いうならばペットに何をしようと人間の勝手、生かすも殺すも人間の勝手、だから整形しようと何しようと関係ないという考え方。
逆に可哀想だからといい、整形は駄目だという考え方。
どちらも人間のエゴだと思います。
整形は駄目で飼うのはいいのか?と。
それどころか他の生き物を人間の勝手な都合で飼うこと自体、虐待だと・・・そう僕は思います。
ま、人それぞれ考え方は色々あるので仕方ないと思いますが。
ペットの売買に関しては“野放し”と言って良い様な状態に在ったと思うのですが、近年は法律面で規制が掛けられる様になり、個人的には良かったなあと思います。人間のエゴによって“玩具”にされるペットが、少しでも減ってくれると良いですよね。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
以前、ニュース番組の特集で「処分される犬達」を取り上げていました。“動物ポスト”に捨てに来た人へのインタビューも紹介されていたのですが、「キャンキャン五月蠅く吠えるから。」とか「部屋を汚すから。」、「こんなに大きくなるとは思わなかったので。」というコメントが在り、「そんな事は、飼う前から想像出来るだろ!」と腹立たしい思いが。
そして一番信じられなかったのは、子供連れで子犬を捨てに来た母親のコメント。「飼うには手に余る様になったので捨てに来た。捨てられた犬は処分される訳で、その哀しみが子供に生命の大事さを判らせると思う。」といった趣旨。過去にも何匹か処分している様な口振りでしたが、これって本末転倒じゃないかと。許せなかったです。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
動物を殺傷した際、その罪名は「器物損壊罪」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%99%A8%E7%89%A9%E6%90%8D%E5%A3%8A%E7%BD%AA)すよね。あの罪名を見聞する度に、「動物は物じゃないのに・・・。」と思ってしまいます。
自分よりも弱き立場の物を守ったり、慈しんだりする心が失われて行き、逆に強き立場の者に迎合し、弱き立場を排除する様な風潮を感じ、それが寂しいです。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
まあ、それを言ってしまったら、それ迄なんですけどね。人間の身勝手さで自然が破壊され、その結果動物達の住む領域が失われて行く。そういう状況下では、人間がペットに対して出来るだけストレスを与えない形で飼って行くというのも、選択肢の一つなのかもしれません。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
ペットからしたらいい迷惑な話です!!
整形したいなら飼い主がやればいいと思います。
自分の顔を他人の好みで整形させられたらどう思うのでしょうか?
やまさんのコメのように野良犬の殺処分もおかしいでしょ!!!
言えばホームレスを殺すのとおなじじゃないですか!!!(言葉が悪くてごめんなさい)
もっと日本も世界も動物に対する考え方を改め直さなくてはいけないのではないでしょうか?
変に語ってしまってすいません
すべては、経済第一主義になってしまっている今の情勢が引き起こしているもの。質素でも豊かだと実感できる世の中を作ることは、無理なのでしょうか。
の是非を判断出来ないから反対するのだ」
いい言葉ですね。
外を歩いてる犬は「ほんとはこんな服着たかねぇ~」
と思っているんでしょうか?
犬語を使って、聞いてみたいです。ワン?ワォーン!!
にしても、ジョン・デュラン市長という名前!
サーティーズのきなこは、つい、ジョン・テイラーと
デュラン・デュランを思い出してしまいました。
故ダイアナ妃も好きだったアルバム「RIO」
あれは名盤です!
最近、デュラン・デュランが元のメンバーで復活
しました。がんばっているんだなぁ~
きなこもガンバロって思いました まる