佐村河内守氏の「ゴーストライター問題」は、未だ未だ収束する気配が無い。彼の虚飾に満ちた半生が次々と明らかになる一方で、「公の場に出て、きちんと説明する。」と言い乍ら、全く会見を開こうとしないのだから、彼に対する風当たりが強くなるのは当然と言える。
彼が多くの人々を騙していた事は、責められて仕方無いだろう。実際には聴覚障害等の障害が無いのに、障害年金受給等の不正が在った“としたら”、然る可き処分を受けるべきで在る。
唯、今回の件で、(彼が作曲したとされていた)「交響曲第1番(HIROSHIMA)」に対して、「曲に感動して購入したのに、騙されたのが許せない。もう曲を聞きたくない。」といった声が少なからず在るのには、違和感を覚える。佐村河内氏が責められるのは判るが、だからと言って「曲」に付いては、自身が其れを聞いて感動し、購入した訳だから、「曲」自体を否定する様な主張は筋違いと考えるので。
今から丁度25年前、1989年に起こった或る騒動を思い出す。所謂「『一杯のかけそば』騒動」だ。此方に粗筋が記されているが、「実話を元にした感動の童話」という触れ込みで、メディアが大きく取り上げた「一杯のかけそば」。社会現象にもなったが、半年もしない内に「実話を元にしたのでは無く、作者・栗良平氏の完全な創作だった。」事が判明。栗氏自身も最初は「実話を元にした童話」と言っていた事から、大バッシングが巻き起こった。其の後、栗氏の虚飾に塗れた半生が次々に暴露されたけれど、流れとしては佐村河内氏の件と非常に似ている。
栗氏が大バッシングされて行く過程で、「一杯のかけそば」という童話自体も否定される様になってしまったが、「『ストーリーに感動した。』のだとしたら、栗氏の件によってストーリーをも否定してしまうというのは、筋違いじゃないの?」という思いが、自分の中にはずっと在るのだが・・・。
社会的弱者に対して、「可哀想に。」という思いを寄せる人は多い。其の多くが心からの同情だとは思うけれど、心の何処かに「自分は、そういう状況じゃなくて良かった。」とい思いを持ってしまうのも、余程出来た人間じゃない限り在ると思うんです。斯く言う自分も、そういう思いが全く無いとは言えないし。
「そういう思いを零にしろ。」なんて自分は言えないし、そういう思いを持っているからと言って、自分は其の人を批判出来ない。唯、社会的弱者を“食い物としか思っていない様な人間”は、流石に憤りを覚える。
被災地を訪れた佐村河内氏は、「此の辺に、“気の毒な子供”は居ないか?」と言って、“カモ”を捜していたという証言が在りましたよね。自分を売り出す為だけに、義手の子を利用していたならば、絶対に許せない。
なんか許せないのは原爆2世売り。購買層の大半だったに違いないシニアの被爆者への表裏一体の同情と差別感情がすごく垣間見える。
で、こいつも障がい者への表裏一体の幻想と差別が金になるって分かってたでしょ。義手の子に酷いこと命じてた話とか。
嫌な話ですよね。