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ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

忘れてはならない記憶

2007年01月17日 | 其の他
阪神・淡路大震災が発生したのは、今から12年前の今日だった。一昨年の記事「あの日自分は・・・」でも記した様に、あの日の衝撃は今でもハッキリ覚えている。未曾有の大災害によって、「被災者達の手助けを何とかしたい!」という人達の温かさを感じる一方で、「国は最低限の救済しか行なってくれず、結局は自助の精神で行くしかないのだ。」という諦観の念を抱かされた。未だに被災による苦しみを抱えている人達は多いに違いない。

ウルトラマンメビウス」の第34話「故郷のない男」でおゝとりゲンが、32年前に多くの島民を結果的に見殺しにしてしまった事を悔い、その島の慰霊碑の前で此処は俺が絶対に忘れてはならない場所だ。と搾り出す様な声で語るシーンが在った。

世の中には忘れて”も”良い記憶と、絶対に忘れてはならない記憶が在る。その意味で言えば、阪神・淡路大震災で人々(被災者も非被災者も含め。)が得た記憶は、絶対に忘れてはならない記憶だと思う。

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4 コメント

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あれから12年経ちました (マヌケ)
2007-01-17 18:14:56
電気、ガス、水道が寸断され、とにかく寒いのと斜面に立つマンションだったことから震災の翌日まだ震度5以上もある余震が続く中、ここにいては危険だと判断し、家族で阪急芦屋川からとにかく大阪方面へ行こうと歩くことにしました。 線路を行った人も大勢いましたが、途中の夙川で鉄橋ごと川に落ちており先へ進めなくなった人たちが国道へ戻ってきていました。国道は脱出する車と被災地に入ろうとする支援の車両、消防車、レスキュー、救急車、警察の車両も含めどちらも立ち往生していました。 ほとんど進まないので車を放置して歩き始めた人も大勢いました。 結果的にそれらがさらに渋滞を引き起こしていたと思います。 何時間歩いたのかわかりませんが、その時の記憶で緊急車両の赤色灯の長い行列が一向に進まぬままやたらきらきら光る光景が目に焼きついています。西宮にたどり着いた時には電車がどうにか動いており疲れと寒さと空腹から無意識に順番も無視して電車に乗り込んでいました。 梅田に到着した時は全く別世界で普通に阪急デパートや阪神デパードで買い物をする人や日常と何にも変わらない光景に驚きました。 震災当日に見たものや経験したものについては記憶に封印しており、あまり話したくもない出来事です。 あれほどの規模のものが起こればまず訓練どおりに行動するとか避難するということも無理でしょう。 机の下にもぐっても上の階の全てが崩壊して落ちてくるのでは意味がありません。 マンションのスチール製のドアは変形して開かなくなるので窓を破って外にでるしかありません。 救助に来る人たちも被災しており、行政も機能するまでには時間がかかります。 情報を得る手段もありませんし、とにかく出会う人どうしで情報を交換し合うしかありません。 動いている自販機を見たとか行列ができている公衆電話があったとか、どこどこの方向には行かない方がよいとか、スーパーが配給を行うとか、給水車が来るらしい、毛布を配る、生きている水道がある、火の手が上がっている、救助を求めている、どこどこのお屋敷の庭に遺体を安置しているので心当たりあるか、橋が落ちている場所、石垣が崩れていて近づけない場所、避難先を書いた張り紙、倒壊した家屋の瓦などに「この下におじいちゃんが埋まっています踏まないでください」「この下におばあちゃんがいますだれか助けてください」多くの張り紙が散らばり風に舞い雪が降ってきたり過酷な状況でした。 町内で2件ほど燃えている家も見ましたが、消防車が来ることなどありえない様子がわかっているのか、ただ呆然とそれを見ているご夫婦の姿がありました。 液状化で沈んだ六甲アイランドのP&Gさんや倒壊した三宮のUCCコーヒーさんなどお得意さんもすごいことになっておりしばらくはお互いの助け合いと復旧の作業に追われました。 忘れることのできない思い出です。
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>マヌケ様 (giants-55)
2007-01-17 21:17:55
書き込み有難うございました。

実際に被災された方から当時の御話を伺った事が在りますが、この世の地獄とはこういったものを言うのだろうなと感じさせられました。マヌケ様も書かれておられますが、倒壊した家屋の下に愛する者が居るのが判っているのに、救済する術も無く、やがて起こった火災によって亡くなるのを見守るしかない状況というのは、生き地獄等という言葉を安直に用いるのも忍び難い様なものだったでしょう。(「はだしのゲン」にもそういった描写が在り、幼少時読んだ自分は喩え様の無い恐怖心と哀しみを覚えました。)

世の中のハイテク化が進んでも、一旦それが麻痺してしまえば、結局頼れるのは”人の輪”。人の温かさが身に沁みる一方で、被災地に乗り込んでドサクサに紛れて人な行動を為していた人間も少なからず居たと聞き及んでいます。同じ人間だというのに・・・。
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Unknown (toshiki)
2007-01-18 18:28:34
お礼のお返事遅くなりました。
トラバありがとうございました。
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新潟 (toshiki)
2007-01-18 23:01:04
家内の実家が新潟柏崎市、義母の実家があの新潟中越地震の中心地で、親戚中の家が壊滅状態でした。
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