気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く27 その9  あけの農さん直売所

2023年03月16日 | ゆるキャン△

 韮崎中央公園で蒸気機関車と電気機関車を見学し終わった時点で、予定より二時間ほど早い時刻であったため、韮崎市中心街辺りで予定していた昼食休憩の場所を変更して、聖地スポットをもう一ヶ所追加することに決め、直線距離で約5キロほど北にある上図のあけの農さん物直売所に行きました。

 

 このあけの農さん物直売所が、原作コミック第12巻38ページから登場している「ホラかホンマか回想キャンプ」の立ち寄り場所の一つです。JR韮崎駅で集まってバスでやってきた大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人がここに入っています。

 ここは、もともとは次回の巡礼コース案の一つである、北杜市エリア瑞牆山コースの中に入れて予定していた場所ですが、瑞牆湖および瑞牆山のエリアとはちょっと離れて韮崎市寄りに位置しており、今回時間的余裕が出来たこともあり、前倒しの形で訪れてみました。
 韮崎中央公園から北に出て県道616号線に行って国道141号線を横切り、三之蔵の辻で左折して茅ヶ岳西麓をめぐる茅ヶ岳広域農道に入り、そのまま道なりに北上すれば、このあけの農さん物直売所の前に着きます。

 

 原作コミック第12巻38ページ2コマ目のアングルです。あけの農さん物直売所、と平仮名が多い表記ですが、全部を漢字で書けば「明野農産物直売所」となるでしょう。

 当地は、私がかつて甲府の歴史観光団体に属して回っていた頃は、北巨摩郡明野村でした。それが2004年に同じ北巨摩郡の6自治体すなわち須玉町、長坂町、白州町、高根町、大泉村、武川村と合併して北杜市になりました。

 

 原作コミック第12巻39ページ3コマ目のアングルです。直売所の玄関口です。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人がここで「いよおーし。」と気合を入れて、キャンプで使う食材の買い物をしたのです。

 

 直売所の内部です。原作コミック第12巻39ページ2コマ目のアングルとは逆になっていますが、その理由は作中にも描かれている大きな深緑色のパラソルが位置を変えているからでした。もとは上図の右手前に立てられていて、作中でもその位置で描かれていますが、私が訪問した時には上図のように左側の奥に移動していました。

 

 このお店のウリのひとつである、トマトの袋詰め放題販売も実際にやっていました。近くの住民の方が二人、ビニール袋にトマトを詰め込んで購入していました。

 

 原作コミック第12巻39ページ1コマ目にて、犬山あおいが「訳ありトマト」と話していますが、実際には訳ありではなく、普通のトマトの選り取りみどりでありました。500円の値段は作中と同じでした。

 嫁さんがトマトが大好物なので、土産に買って帰りたかったのですが、聖地巡礼旅行中で持ち帰りもままならないので、諦めました。

 

 壁にはちゃんとゆるキャンの作中シーンのコピーが貼ってありました。お店でもノリノリでゆるキャン人気にあやかっているようでした。

 

 この施設は、上図のマップにあるように、広大な明野観光農園の一角にあって、季節ごとに農産物や特産物の直どり販売が行われているそうです。6、7月のサクランボやブルーベリー、8、9月のジャガイモ、サツマイモの収穫期には各地からの観光客も大勢買いにきて賑わうそうです。

 

 園芸用植物も豊富に取り扱っていました。イチゴの苗が1ポット100円から売られていましたが、どちらかというと右側のミニサボテン鉢のほうが人気があるようで、私が居る間に3人の客が買ってゆきました。

 

 一通り見て、外の観光農園も一部を見て回って、施設前に戻りました。時刻は11時46分でした。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人にならって、昼食を二階のレストランでいただくことにしました。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その10

2023年03月15日 | ガルパン模型制作記

 ステップ24では車体上面や足回りを取り付けます。足回りにおいては上部転輪と起動輪のみを取り付け、あとの転輪は塗装後に取り付けます。
 ステップ25ではエンジン点検ハッチを組み立てます。次のステップ26で履帯と操縦席ハッチ部分を組み、エンジン点検ハッチに金具Bc18、Bc19を添えて可動にしますが、私の製作ではハッチを取り外し自在にして内部のエンジン等を見られるようにするので、Bc18、Bc19は不要になります。

 

 ステップ24で組み付けるパーツ群です。塗装後に取り付ける転輪は別に保管していたので、上図には写っていません。

 

 組み上がりました。

 

 ついでにステップ23にて保留にしていた前照灯を取り付けます。

 

 前照灯を取り付けました。前照灯の隣につくパーツEj2およびEj3はおそらく警笛だろうと思いますが、作中車の描写を見る限りではキットのパーツと同じ形ではなく、前照灯より小型のライトのように見えます。それでジャンクパーツから適当なパーツを見つけましたが、まだ判断に迷いがあったので、取り付けは保留にしました。

 

 ステップ25で組み立てるエンジン点検ハッチのパーツ類です。エッチングパーツもあるので取扱いに気を付けました。ミニアートのエッチングパーツは細くて薄いため、触れるだけでも曲がったり歪んだりするからです。

 

 組み上がりました。車体に仮組みしてみると、かなりキツキツでした。いったんはめ込むと、力を入れないと開かないのでした。それで両端をヤスって調整しましたが、エッチングパーツもガリガリとヤスるので、一度ポロッととれてしまいました。それで別々にヤスッて削っておいて、再度接着しました。

 

 ステップ26に進みました。

 

 組み上がりました。エンジン点検ハッチは前述のとおり、接着せずに取り外し自在にします。操縦手用乗降ハッチ、変換器点検ハッチも同様にします。内部を見られるようにします。

 

 全てのハッチを閉じた状態です。

 

 ステップ26のメインである、連結式履帯の組み立てです。個人的には「戦車プラモの苦行」と呼んでいますが、数をこなしているうちに「苦行」よりも「修行」のスタンスに昇華してきているように思います。

 

 今回の製作は職場でも休憩時間にチマチマとやっていましたから、同室の教職員達が「また星野先生はプラモ作ってますなあ」と、興味深々か冷ややかな視線のいずれかを送ってくるのでした。
 若い講師クラスほど興味深々の様子でしたが、年配の教授クラスになると「またくだらないオモチャで遊んでる」というような、冷ややかな視線が増えるのでした。もう慣れっこになりましたが、個人的には「プラモデルはくだらないオモチャではなく、高尚な大人の趣味である。偉ぶってる先生方にはそれが分からないのだ」と確信しております。

 

 履帯を車輪に仮組みして形を整えてゆきます。大体の場合、履帯は上下の二分割で作るので、先に下半分を作って車輪に巻き付け、次いで上半分を作って巻き付けます。組み立てガイドの指示では片側で85枚のパーツCf1を要するとありますが、実際には1枚多い86枚が必要でした。履帯の一つ一つを繋ぐ際にピッタリ付けると、だいたいは余分に1、2枚が必要になるのですが、そのためにどのメーカーのキットでも履帯のパーツは数枚余分に入っています。

 

 接着剤が乾燥して形が固定するまで、上図のように車輪に巻き付けた状態のまま、マスキングテープで留めておきます。だいたい一時間以上置いておけば、仕上がります。

 

 形が出来上がった履帯を、取り外した状態です。このように上下二分割にして、塗装してから車輪に取り付ける予定です。  (続く)

 

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紫野大徳寺15 方丈修理現場公開 その一

2023年03月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2022年11月6日、久しぶりに大徳寺へ行きました。

 

 目的は、国宝の方丈の解体修理現場公開でした。嫁さんが何度も、見に行きたい、と話していたので、晴天となったのを幸いとして出かけました。モケジョの嫁さんは、模型と同じく古社寺散策が趣味で、文化財指定の建築の解体修理というのにも非常な関心を寄せています。解体された古建築の様子は、組み立て前のプラモデルを見ているようで面白くて楽しいから、というのが理由だそうです。

 

 こういった解体修理現場の特別公開というのは、それ自体が稀な機会であるだけに、見学希望者が殺到して予約制、抽選制となって行ける人が限定されるケースが多いです。しかし、今回の大徳寺方丈においては、珍しく予約無し、抽選無しの通常公開となっていました。

 なので、朝一番に行きたい、という嫁さんの希望により、公開開始時間に合わせて行きましたが、既に待機行列が約80人ほどになっていました。

 

 今回いただいた案内パンフレットです。今回の大徳寺方丈解体修理の簡単な説明がありました。

 

 受付付近に立ててあった、近くの仏殿の屋根の修理状況のパネル表示です。大徳寺では方丈の他に国重要文化財の仏殿も修理工事中で、ここ数年はずっと非公開区域になっています。

 

 受付までの順路の帰路ルートには、解体修理関連の諸工法、諸技術の実演展示テントが並んでいました。嫁さんはそういった伝統的な技術の数々にものすごく興味があるそうで、帰りにあれ全部見ていきましょう、と息を弾ませていました。

 

 公開時間になり、待機行列が一気に進みだして私たちも数分と待たずに受付を通り、公開コースの出入口になっている上図の方丈玄関をくぐりました。行列に流されて中に入りましたので、見事な唐破風と蟇股の意匠に見とれている暇はなく、写真を撮るのが精一杯でした。

 

 見学路は、御覧のように上にあがって屋根軒下の位置にテラス状に設けられていました。方丈の床面および基礎面は修理工事の現場になっていて、関係者しか立ち入り出来ないからでした。

 

 見学路にあがると、解体を終了した方丈の大屋根が視界いっぱいに広がってきました。正面29.8メートルの大建築の大屋根が、巨大な覆屋のなかに収まっていて、全ての屋根材を外された状態で横たわっていました。

 

 方丈の修理前の外観と現在位置の案内図です。右の図の右上の朱色の部分が方丈とその玄関廊です。図でも分かるように、方丈は伽藍の仏殿や法堂よりも規模が大きいです。江戸時代の寛永十二年(1635)の再建で、伽藍の法堂や仏殿が禅宗様建築であるのに対して、こちらは純和風の建築です。

 

 方丈の平面図。これらの空間をほぼ一周する形で今回の見学路が設けてありました。一般的な方丈建築は、大徳寺の諸塔頭の事例にも見られるように、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式が多いですが、今回の大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式となっています。

 向かって右から2列目の前後2室は、開基の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の塔所(墓所)である雲門庵となっています。その雲門庵の奥部は、方丈北面の広縁を越えて北側に張り出した形になっています。大徳寺方丈が特異な形式であるのは、この雲門庵が含まれるためです。

 

 解体された屋根の構造材が部位ごとにまとめられて覆屋内の支柱上に積まれていました。嫁さんが「ウッディジョーの木製建築模型のパーツの実物大やわー、国宝のパーツやわあー、めっちゃステキ過ぎますー」と大喜びでした。

 

 見学路は、屋根の軒下の位置に設けられていたので、大屋根の全容を軒の高さから仰ぐようにして見ることが出来ました。見学者は受付でヘルメットを渡されてかぶってから中に進みました。

 

 西には方丈に繋がる国重要文化財の庫裏の建物が望まれました。庫裏は江戸時代の寛永十三年(1636)頃に再建されたものですが、かつての旧方丈の古材を使用しており、部材の多くは現在の方丈のそれよりも古くて良質であるそうです。

 上図の左手前のブルーシートの奥に桧皮屋根の一部が見えていますが、それが玄関廊の屋根で、今回の見学路の出入口ルートの上にあたっていました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く27 その8  韮崎中央公園の電気機関車

2023年03月13日 | ゆるキャン△

 韮崎中央公園には、原作コミック第14巻9ページ4コマ目で描写されているように、蒸気機関車の他に電気機関車も展示されています。蒸気機関車のC12形は公園の南側にありますが、電気機関車のほうは反対側の北側にあります。
 なので、上図の広い陸上競技場グラウンドをはさんで離れています。

 

 それで、いったん車に戻って、上図の東側の駐車場まで移動し、その北端に近い辺りに停めました。そこから電気機関車の展示位置まで歩いていきました。

 

 駐車場付近から、電気機関車の方角を見ました。見た時に、あれ、電気機関車だけじゃないな、貨車とかも繋いであるな、と気付きました。

 

 先に見た蒸気機関車C12形と同じく、こちらもボロボロで劣化や錆化が進んでいました。野ざらしですから仕方がありませんが、覆屋や屋根があった場合の有難味というものが改めて理解出来ます。
 車体色は、ピンクに近い変ったカラーですが、本来のものではなくて、ここに展示されてから塗り直されたもののようです。

 

 なにか古そうな形の電気機関車です。原作コミック第14巻9ページ4コマ目のアングルで撮りました。大井川鐡道で走ってる茶色の電気機関車ED500形に似た外姿でした。前面の庇付きの窓とかがよく似ています。

 

 説明板を読み、EF15型であることを知りました。大井川鐡道のED500形に似た外姿であるのは、ともに同じ昭和30年代の製造であるからでしょうか。

 

 EF15型と繋がって貨物列車の体裁にて静態保存されている3輌の無蓋貨車です。向かって右端に「形式70000」とペイントされてあるので、国鉄トラ70000形貨車であることが分かります。EF15型と違ってほとんど痛みが見られず、今でも運用出来そうな状態に見えますが、この国鉄トラ70000形貨車は、既に平成30年までにJR各社において全廃となっているそうです。

 

 貨物列車の後尾につく事業用貨車です。一般的には車掌車などと呼ばれますが、貨車の一種です。向かって右端に「形式5000」とペイントされてあるので、国鉄ヨ5000形貨車であることが分かります。昭和61年(1986)に貨物列車の車掌乗務が原則廃止されたことにより、JRに継承された一部の車両を除いて全車が廃車されたそうです。

 

 こういった列車形式の静態保存は、鉄道博物館などで見かけますが、公園での静態保存展示では珍しいそうです。

 

 国鉄トラ70000形貨車のブレーキ機構です。シンプルな構造ですが、これに作業員が乗って体重をかけて踏み下ろして制御するわけです。足踏みテコ式留置ブレーキ、が正式名称です。この貨車には、ほかに自動空気ブレーキが付いているので、こちらの足踏みテコ式留置ブレーキは補助用なのかな、と思いました。

 

 以上、韮崎中央公園の保存車輌でした。原作コミック第14巻10ページ1コマ目にて、各務原なでしこがこれらの車輌を見にいこうと姉の桜に言いかけますが、「もう夜でしょ また今度にしなさい」と遮られています。その言葉通り、次の年の桜花見ドライブでここにやってくるストーリーは、果たして描かれるでしょうか。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その9

2023年03月12日 | ガルパン模型制作記

 ステップ19からは車体天板などを組み付けます。ステップ20で車輪を取り付けますが、私の製作では車輪は塗装後に取り付ける予定です。ステップ21およびステップ22でハッチ類を組み立て、ステップ23では前照灯などを組み立てます。

 

 ステップ19で取り付ける車体天板と内部のパーツ2個です。今回のキットはインテリアも塗装して組み立てましたので、車体天板は付けるかどうか迷いましたが、エンジン点検ハッチや変換器点検ハッチが大振りなのと、砲塔ターレットの穴が大きいために、車体天板を接着しても内部が大体見えるので、車体天板は付けることにしました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ20に進みました。上部転輪はガイドの指示では選択になっていて、作中車のそれが鋼製っぽく見えるのに合わせて鋼製タイプのCe1を選びました。車輪類は塗装後に付けるので、ここではそれ以外のパーツを組み付けます。

 

 組み立てに先立ち、記録の意味で車内インテリアの写真を各アングルから撮っておきました。

 

 車内インテリアの塗装は、今回はメタル系や目立ちやすいカラーで自在に塗り分けましたが、それは天板を取り付けて車内が暗くなっても、内部の様子が見えるようにするためでした。

 

 なので、操縦席のシートは赤、エンジンも戦車よりも車のそれに近いカラフルな配色で塗っています。

 

 車体の各装甲板の内側はホワイトで塗りましたが、これは実際の車輌と同じカラーです。

 

 エンジンのピカピカ感、カラフル感はこんなものでしょうか。史実の戦車のエンジンは油汚れもあって色も地味な感じですが、ガルパンにおいては女子高校生の必須選択科目である戦車道にて使用する備品ということで常に手入れされ、磨かれて綺麗な状態に保たれている、という設定になっていると聞きます。

 なにしろ、公式設定資料類で見ても戦車自体が常にピカピカで汚れが無く、常に綺麗にメンテナンスされている状態になっています。内部も同様であると受け止めるのが自然だと思います。

 

 車体天板や上部転輪を組み付けました。車体天板は僅かに反りがあったので、マスキングテープであちこち留めて固定して接着しました。

 

 ステップ21およびステップ22の工程は一連になっているので、まとめて進めました。

 

 組み上がりました。操縦手の位置の上にあたる部分で乗降用ハッチと前方視察窓のハッチが付きます。上図左にステップ23で組み立てる前照灯類のパーツが見えますが、これらの組み付けは後送りにしました。デリケートな部分なので、後の作業中に誤って壊してしまいそうに思えたからです。  (続く)

 

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吉田社から真如堂へ5 真如堂の武人と画人の墓

2023年03月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 真如堂こと真正極楽寺の本堂下でしばらく立ち止まり、何度も拝見した本尊阿弥陀如来立像の姿を思い浮かべました。一般には「うなずきの阿弥陀」と呼ばれて親しまれているそうですが、学術的には非常に価値の高い彫刻作品です。

 真如堂の根本縁起である「真如堂縁起」によれば、平安時代の永観二年(984)に延暦寺の僧戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来像を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが寺の始まりとされています。その八年後の正暦三年(992)に一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたといいます。

 この「真如堂縁起」の内容を今に伝わる本尊阿弥陀如来立像の実態に即して解釈しますと、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来像(円仁が唐から請来した像であったとされている)の模刻像を、東三条院詮子の離宮に安置し、その離宮を寺となして本堂を建立し、これに像を安置した、という流れになります。

 阿弥陀如来像は秘仏で11月15日のみ開帳されますが、国立博物館の特別展などに何度か出陳されていて、私も三度ほど見学した記憶があります。本堂での開帳よりも博物館の特別展示のほうが間近に見られるので、その日本風に翻案された美しい姿や優しい表情がとても印象に残ります。

 その作者に関して、恩師の井上正先生は何度も「康尚(こうじょう)だよ」と断言されていました。時期的にも符合しますし、作風からみても首肯出来るので私も異論が無かったのですが、像の顔の独特の眉の造りがどうしても気になっていて、「あれは連眉(れんび)の名残ですかね」と聞いたのでした。
 すると井上先生は「うむ、いい視点だ、元になった(延暦寺常行堂の本尊)像は円仁の請来像だったのだからね、インド風の表現が色濃く出た像だったんだろうね」と満足げに微笑されました。

 連眉とは、左右の眉が真ん中で連なっている状態のことで、インドや中央アジアの民族に見られる顔相の一要素です。今でもインドではごく普通にみられますし、古代からのインドの仏像や仏画などにも数多く見られます。仏教のアジアへの広がりにともなって、インドの仏像が中国にもたらされ、さらに朝鮮や日本にも請来されていたのが古代の仏教美術の伝播のかたちでしたが、日本はその流れの最終地点にあたりますので、外からもたらされてきた仏像も、当時の有力な寺院であった延暦寺におさめられて安置されたわけです。

 真如堂の本尊像は、その異国からやってきた仏像を、十世紀後半期の日本人の表現感覚で模刻したものです。日本風にアレンジされて優しい姿になっていますが、モデルとなった延暦寺常行堂の本尊像の面影を、連眉という特徴にとどめて受け継いでいるわけです。その作者が康尚(こうじょう)であるとされますが、その康尚の息子が、私の研究対象である定朝(じょうちょう)です。宇治平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像の作者です。

 なので、康尚の関与した仏像についても、井上先生に教えられるままに一生懸命に勉強したものです。定朝は康尚の息子であると同時に弟子でもありましたから、康尚が製作した仏像の幾つかにおいては、定朝も手伝っている可能性があります。だから長く定朝の仏像を研究している私にとっては、今回の真如堂本尊阿弥陀如来立像のような、康尚時代の基準作例たる仏像というのは、重要な観察検討の対象でありました。

 だから、真如堂へも何度も行き、古文献をあさり、先行研究資料の山と格闘しつつも、本尊阿弥陀如来立像が示す様々な情報を必死で把握して理解しようと努めた経緯がありますが、いまではそれらも懐かしい思い出の一コマになっています。

 

 本堂の脇にある、京都映画誕生の碑と説明板です。初めて見たので、こんなのあったかなあ、と首をかしげつつ、説明板に近寄って読んでみました。

 

 説明文によれば、京都映画誕生の碑そのものは2008年に建てられたようです。なんだ最近のことか、道理でこの碑を以前に見た記憶が無いわけだ、と納得しました。

 

 それから本堂の南の広大な墓地に行き、今まで全く訪れる機会が無かった二人の歴史人物の墓を探して参拝しました。上図の並び建つ二基の墓塔がそれでした。

 

 向かって左の墓石は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、明智光秀の家臣であった斎藤利三(さいとうとしみつ)の墓です。一般には春日局の父親として知られており、大河ドラマでも何度か登場しています。

 

 そして向かって右の五輪塔は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、海北派の始祖とされる海北友松(かいほうゆうしょう)の墓です。その父親は浅井氏家臣の海北綱親(かいほうつなちか)でした。

 この二人の墓が隣り合っているのは、何かの事情があるのだろうか、と思いましたので調べてみたら、生年が一年しか違わない、同時代の人物だと分かりました。
 しかも二人は友人であったのだそうです。斎藤利三が主君明智光秀の謀反に連座して処刑された後、その遺骸を海北友松や真如堂の住職であった東陽坊長盛が夜間に奪い取り、真如堂墓地へ葬ったということです。その関係で、海北友松も墓を斎藤利三の墓の隣に定めて、今なお仲良く眠っているわけです。なんかええ話だな、と感動しました。

 

 二人の歴史人物の墓に詣でた後は、境内を東へと横切って、次第に薄暗くなってゆく中、上図の東参道を降りました。

 

 寺では裏参道と呼ばれる、東参道の入り口です。白川通から真如堂へ参拝する場合の、唯一のルートです。

 

 真如堂は、高台にありますので、白川通へは上図の坂道を南に降りて道なりに東へと折れます。白川通に出て近くのバス停「真如堂前」でバスに乗り、帰路につきました。退勤後約2時間ほどの、ミニ歴史散策でした。  (了)

 

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(車輌目次表紙)伯爵高校 Ⅲ号突撃砲G型(4号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版)

2023年03月10日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.197 (商品コード35197)

  制作期間   2022年2月16日~20日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 III号突撃砲は、第二次大戦中にドイツでIII号戦車の車体を流用して開発された突撃砲である。0シリーズから最終型のG型に至るまで九種類のパリエーションが知られるが、ガルパンにおいてはアニメシリーズでの大洗女子学園カバさんチームのF型が長らく唯一の存在であった。最終章第3話に登場した継続高校チームのヨウコの搭乗車はG型と目されるが、G型は既にコミック版の「樅の木と鉄の羽の魔女」にて伯爵高校チームの所属車として描かれる。
 G型の適応キットは最近にミニアート、ライフィールドモデル、タコム、ボーダーモデル、ダスヴェルク等の各メーカーより多くの新製品が発売されて選択肢が豊富になっているが、「樅の木と鉄の羽の魔女」伯爵高校チームの所属車を作る場合は、その作中車がシュルツェン装備、主砲防盾が台形、キューポラ避弾板無しの初期型であるので、適応キットもタミヤ、ドラゴン、タコム発の4件に絞られる。最も入手しやすいのがタミヤ製品(下のキット一覧1)で、改造や修正のいずれも簡単な作業で済む。初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン仕様制作の入門キットの一つとされる。

  公式および適応キット一覧(2023年3月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャン△の聖地を行く27 その7  韮崎中央公園のSL

2023年03月09日 | ゆるキャン△

 わに塚から道を引き返して武田橋北詰まで戻り、そのまま直進して県道17号線へ左折、七里岩ラインと呼ばれる丘陵地への登り坂をしばらく走りました。右手に高松公園の標識を見て次の辻で左折、上図の韮崎中央公園に入りました。

 

 上図のように、韮崎中央公園には東側、北側、南側に駐車場があります。まずは上図の南側の三ヶ所の駐車場の内、野外ステージに最も近い場所へ車を入れました。次の聖地スポットが、野外ステージの北にある蒸気機関車であったからです。

 

 駐車場からは、蒸気機関車の後姿が見えました。あれがそうか、と車を降りて近づきました。

 

 うわあ、ボロボロだなあ、と思わず声に出してしまいました。野ざらし展示ですから劣化や赤錆が相当進んでいました。

 

 このボロボロの蒸気機関車が、原作コミック第14巻9ページ4コマ目の各務原なでしこのスマホ検索情報に登場しています。志摩リンが「韮崎の方にSLを展示している公園もあった気がする」と教えたので、なでしこが検索したわけです。

 

 作中ではSLの外観も描かれていましたが、ナンバープレートまでは描かれておらず、どの型の蒸気機関車であるかは不明でした。現地で実物を見てC12形だと分かりました。しかも5号機ですから、初期の生産タイプで存在自体が貴重です。

 

 前から見るとボロボロ感があまり目立ちませんでした。というか、前部は応急的に塗り直したような感じがあり、赤錆もありませんでした。

 

 原作コミック第14巻9ページ4コマ目のアングルで撮りました。

 

 こちら側の脇には、ベンチなのか踏み台なのかよくわからない、四角の台がありました。

 

 作中では、この蒸気機関車がある場所は「韮崎藤井公園」となっていますが、それは元ネタのここ韮崎中央公園が韮崎市藤井町に所在するからです。

 山梨県下における蒸気機関車の静態保存は、私の知る限りではここ韮崎中央公園を含めて4ヶ所にあります。そのうちの2ヶ所は、昔甲府の歴史観光団体に参加していた時期に見たことがあります。JR清里駅前のC56形と、小淵沢小学校のC56形です。あと1ヶ所は河口湖自動車博物館のはずですが、河口湖自動車博物館へはまだ行った事がありませんので、どのような蒸気機関車かは知りません。

 

 横の案内説明板です。昭和8年製造、昭和45年廃車とあります。戦前戦中戦後を通して37年間働いた蒸気機関車であることが分かります。戦前戦中は北海道で活躍していたとあります。よく働いたんだなあ、と思わず近寄って行って錆だらけの車体を両手で撫でて労いました。

 C12形の西側はミニSL広場になっていましたが、土日のみ営業するようで閉まっていました。作中で、各務原なでしこが「ミニSLまで走ってるって・・・どんな公園!?」と驚いていましたが、実際に来てみると、いたって普通の総合公園施設でありました。ただ、規模が広くて陸上競技場とサッカー場があり、地元のプロサッカーチームであるヴァンフォーレ甲府の練習場にもなっているそうです。
 つまり、韮崎市をホームタウンとする地元のサッカーチームの練習場なので、観客やファンが大勢行くことによって子供達も集まるわけで、ミニSL広場での乗車アトラクションも、そうした子供たちを対象にして運営されているのだろうな、と思いました。 (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その8

2023年03月08日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16およびステップ17です。インテリアの組み立て工程が続きます。インテリア付きのキットはとにかくインテリアの組み立てに手間がかかるとされていますが、今回のキットも全ステップ41のうち過半の22までがインテリア関連の組み立てになります。
 なので、インテリア無しのキットであれば、製作工程や所要時間がだいたい半減するのだろう、と実感出来ます。

 

 ステップ16では左側面板を貼り付けて関連のパーツも組み付けます。塗装しておいて、乾燥してから接着してゆきます。

 

 組み上がりました。ミニアートのキットは精巧で丁寧に組み立てれば、寸分の狂いもなくキッチリと合わさります。ズレとかが出てきたら、それまでの組み立てに何らかの間違いがあった、と思って組み立て直しの作業に入ります。

 

 これで車体の四方が繋がって、車内空間が成立しました。軽戦車にしては車内空間が広い方なのかな、と思いました。

 以前に同じ軽戦車の38(t)戦車をドラゴンのフルインテリアキットで製作した時は車内に色々組み付けて空間が狭まっていって、本当に狭いなあと感じた記憶があります。それに比べると今回のT-60は、車内に組み付ける装備品が少ないうえにエンジンとの隔壁も無いので、割合に広い印象があります。

 

 ステップ17で組み付ける後方隔壁と弾薬ケース、消火器です。

 

 全て組み付けました。今回のキットにおいては、隔壁の後ろの空間のパーツは含まれませんでしたが、実際には燃料タンクや通気機構があり、そのパーツをレジンパーツで作ってディティールアップセットとして販売しているメーカーがあると聞きました。
 が、今回の製作では天板も接着しますので、完全に見えなくなる後部の燃料タンクや通気機構の再現は不要としました。

 

 なので、車内空間の再現は上図の範囲にとどまります。これだけでも作るのに相当の時間と作業量がかかっていますから、インテリアキットというのはなかなか難しいです。

 

 さて、ステップ18に進みました。上図のパーツ類を組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 これで車内インテリアのほぼ全部を組み立てました。残るインテリア関係は砲塔内部になりますが、それに手を付けるのはステップ31からになります。  (続く)

 

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吉田社から真如堂へ4 宗忠神社から真如堂へ

2023年03月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 吉田神社の大元宮を辞して、南の広場から東へと登り、そして下りかけると、右手に上図の鳥居がありました。ここにも神社があるのか、と鳥居の額を見上げると、「宗忠神社」と読めました。

 変わった名前の神社だな、と思いつつ、宗忠が人名であれば、藤原氏中御門流の右大臣宗忠が居るけれど、と考えました。藤原時代後期の一次史料として名高い日記「中右記(ちゅうゆうき)」を書いた人です。しかし、政治的にも歴史的にも大きな功績を残したわけではないので、彼に関連する神社があるとは考えにくい、と思いました。

 あとは、宗忠という歴史人物は誰がいるか、と鳥居の前でしばらく考えましたが、黒住教の教祖である黒住宗忠しか思い浮かびませんでした。黒住宗忠に関しては彼の故郷の岡山にも宗忠神社があって、岡山へよく行っていた時期に一度前を通った記憶があります。その宗忠神社と同名の神社が京都にあるとは聞いたことがなかったので、違う宗忠なのかもしれない、と思いました。

 とりあえず、立ち寄ってどのような神社なのかを確かめてみよう、と鳥居をくぐって境内に進みました。

 

 ところが、こちらの宗忠神社も黒住宗忠を祭神とする黒住教の神社でありました。岡山の宗忠神社の分社のような位置にあるようでした。やっぱり黒住宗忠で間違いなかったのか、と思いつつ、つまりは伊勢神宮系の祭祀拠点であるな、と納得しました。

 黒住教は日本の神道における宗派神道の一つで、江戸時代までの伊勢神宮、出雲大社、富士山、御嶽山などの講組織や、江戸時代以降に起こった新宗教を含めて明治時代に神道を宣教する教派として段階的に公認されていった神道系教団の一つにあたります。また、同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられます。

 その教義は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を八百万の神の本体とみなし、天照大御神が枝葉のように分化した存在が八百万の神であるとするものです。端的に言えば伊勢神道の分派とみられる内容ですが、教典は作られず、日々の生活の上での七つの心得と、日の出を拝む修行の実践を重視しています。一般には怪しい新興宗教のひとつと誤解されているようですが、れっきとした日本神道の一派です。

 そしてこの宗忠神社は、黒住宗忠が没後の安永三年(1856)に朝廷より「宗忠大明神」の神号を与えられたことによって、文久二年(1862)に宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて創建した神社です。慶応元年(1865)には朝廷の勅願所に列し、皇室や公家から篤い崇敬を受けたといいます。本拠地岡山の宗忠神社と区別するために、神楽岡宗忠神社と呼ばれているそうです。

 

 なので、東側の参道入口の鳥居脇に上図の立派な備前焼の狛犬一対があるのにも、当然だなと納得しました。岡山の幾つかの古い神社や有力神社には備前焼の狛犬があって、私も幾つか見ているので、岡山発祥の黒住教の神社にもこういう狛犬があってもおかしくはないな、と思います。

 

 しかも逆立ちという珍しい姿勢です。京都の神社では珍しいかもしれませんが、備前焼の流布地域では幾つか見かけます。私自身、かつて兵庫県の赤穂市に住んでいた時期に隣の岡山県へよく遊びに行きましたが、備前焼の故郷として知られる伊部にも三度ほど行きました。その備前市伊部の「備前焼まつり」にも一度行きましたが、伊部にはあちこちに備前焼があって、逆立ちの狛犬、逆立ちの稲荷狐も見たことがあります。

 ですが、こちらの神楽岡宗忠神社の備前焼狛犬は、特に大きくて立派です。岡山でもなかなか見られない優品なので、必見です。京都にある備前焼の狛犬は、私の知る限りでは、ここと、清水寺の南にある鳥辺山妙見堂の二ヶ所にあります。

 

 宗忠神社、初参拝でしたが、なかなかに興味深いところでした。神楽岡の南に鎮座するので、表参道は東につきます。その表参道に立つ鳥居も、神明鳥居の代表的な形式の一つとされる独特の形を示して「宗忠鳥居」と呼ばれます。

 

 宗忠神社の表参道から東には、真如堂こと真正極楽寺の伽藍が望まれます。宗忠神社の表参道と真如堂の総門参道とが同じ道に向かい合っています。その道を東へ歩きました。

 

 途中で北側に宮内庁管理の陵墓園地を見ました。陽成天皇の神楽岡東陵です。

 

 真如堂こと真正極楽寺の総門に着きました。江戸時代の元禄八年(1695)に再建された、朱塗りの西向きの門です。十世紀の創建以来ずっと京洛の天台宗拠点の一角を占める古刹の、堂々たる門です。脇の寺号標石も風格ある立派なものです。

 

 総門をくぐると右手に三重塔が聳えます。江戸時代の文化十四年(1817)に再建された塔婆です。いつ見ても変わらない東山の古塔のひとつです。久しぶりだな、としばらく立ち止まって見上げました。 
 さきに行った吉田神社や宗忠神社には初めて行きましたが、こちらの真如堂には大学生の頃から10回ぐらいは訪れています。

 

 既に時刻は17時を回っていましたから、本堂以下の拝観時間は終了して境内地には黄昏の前の静寂に包まれていました。広大な境内地の東西に門があって、地域住民が東の白川通との行き来に利用することが多いため、境内には夜でも入れるようです。

 上図の本堂は江戸時代の享保二年(1717)の再建で国の重要文化財に指定されていますが、同じく国の重要文化財である本尊の阿弥陀如来立像は、平安時代十世紀の永観二年(984)創建以来の安置像です。そして私の専門である藤原時代仏像彫刻史においては、非常に重要な基準作例の一つに数えられます。

 その素晴らしい作域に、藤原彫刻の真髄と真実とを垣間見ようと、資料とノートを抱えて息を弾ませつつ何度もここにやって来た、若き日の自分を思い出してしまいました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)マジノ女学院 ルノーR35軽戦車(激闘!マジノ戦ですっ!!版)

2023年03月06日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  グンゼ産業 (商品コードG762)

  制作期間   2022年2月17日~21日、3月11日

  製作記事   その1 その2 その3 完成です!!

  総評・備考
 ルノー R35は、フランスが第二次大戦前に開発し運用した軽戦車である。ガルパンではアニメの最終章第1話にマジノ女学院チームの所属車として登場し、コミックでも「激闘!マジノ戦ですっ!!」にて同チームの主戦力として活躍する。ほかに「リボンの武者」にてBC自由学園チームや愛媛ケバブハイスクールチームの車輌として登場するなど、複数のチームで使用されてガルパンのフランス戦車の代名詞的存在になっている。
 適応キットはエレールおよびそのOEM販売のグンゼ産業の製品が従来は知られていたが、最近はタミヤの新製品(下のキット一覧の4)が知名度を上げつつある。いずれも形状はほぼ同じで、劇中車および作中車の再現はストレート組みで充分に楽しめる。またホビーボス製品(下のキット一覧の3)は、軽戦車クラスではまだ珍しいフルインテリアキットでエンジンも再現されている。
 なおエレール(下のキット一覧の1)およびそのOEM販売のグンゼ産業の製品(下のキット一覧の2)は、主砲の21口径37mmピュトーSA18を長砲身の37mmSA38に換装したタイプも作れるので、今回のコミック「激闘!マジノ戦ですっ!!」に出るR35武装強化型の作中車の再現製作に使用した。車体迷彩はコミック「激闘!マジノ戦ですっ!!」第2巻のカバー裏面のカラー図を参考にした。

  公式および適応キット一覧(2023年3月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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吉田社から真如堂へ3 菓祖社と山蔭社と大元宮

2023年03月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 吉田神社本社から境内路を南東へ進むと東側に上図の菓祖神社への鳥居および参道がありました。菓祖は「かそ」と読むのかな、変わった名前だな、と思いつつ、そちらへ行きました。 

 

 菓祖神社の社殿です。案内板が見当たらないのでタブレットを出して検索しました。それによると、菓子の祖先神の合祀によって昭和32年に創設された神社であるそうです。祭神は、果物の祖とされる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命と、日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因命の二神です。京都を中心に多くの菓子業界の方々から信仰を集めているそうです。

 

 菓祖神社から境内路に戻って、南へと進んで丘上に登ると、西側に上図の山蔭神社が見えました。山蔭って、吉田神社を創建した藤原山蔭のことかな、と考えましたが、それで正解でした。

 

 山蔭神社の案内板です。吉田神社を創建した藤原山蔭を祀る神社として、昭和32年の吉田神社御鎮座1100年大祭を機に、全国の料理関係者の協賛を得て昭和34年に創設されたそうです。

 

 藤原山蔭は、平安時代の日本料理の流派のひとつ四条流庖丁式の創始者としても知られ、古来より全国の料理関係者の間で包丁の神・料理飲食の祖神として崇められています。最終官位は従三位中納言で、「今昔物語」19巻の第29話にも「亀報山陰中納言恩語」として登場します。山蔭中納言が以前助けてやった亀が、山蔭の息子(如無)を救って恩に報いる説話です。

 

 山蔭神社からさらに南西へ緩やかな登り道を進んで広場に出ると、その南に上図の斎場所大元宮がありました。

 

 斎場所大元宮の案内板です。

 

 かつて左京の室町にあった社を吉田兼倶が文明十六年(1484)に現地に造営して遷座せしめ、吉田神道の根元殿堂として祀られました。吉田神道の教義において大元宮は宇宙軸をあらわし、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀りました。そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事によって、全国の神々を祀る社とみなされました。

 したがって祭神は、延喜式内社全3,132座の天神地祇八百万神となっています。これを祀る上図の本殿は八角形の本殿に六角の後房を付けた特異な形状を示します。現在の建物は江戸時代の慶長六年(1601)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
 本殿の手前の中門も江戸時代の建築で、そちらは京都府の有形文化財に指定されています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く27 その6  わに塚での各務原姉妹の撮影地点

2023年03月04日 | ゆるキャン△

 「わに塚」の脇にある新旧の案内板のうちの古い方です。説明文は赤錆で殆ど読めませんでしたが、昔は「わに」を漢字で王仁または鰐と書いたことが分かります。鰐は完全な当て字ですが、王仁のほうは各地にある王仁渡来伝承と同じく、古代の当地への渡来人の移住入植の歴史を伝えている可能性があります。

 古代の日本への渡来人は中国や朝鮮やツングース系、南方ベトナム系など多様であったとされていますが、最も多かったのが朝鮮系であったことは地理的な近さからも首肯出来ます。古代朝鮮語では王族、一族の長、グループの代表にあたる人物に対して尊称の意味で名前の後に「ワン」を付けたといい、ここ武田郷にやってきた渡来人のリーダーの尊称「ワン」が「わに」の語源であった可能性が考えられます。

 なので、「わに塚」が中世戦国期から江戸期までは「王仁塚」と表記されていたのは、現地の人々もこの塚を渡来人系の人々にまつわる塚だと認識し言い伝えていたからだろう、と思います。日本武尊の子の武田王、というのも原イメージは大和朝廷の支配下に組み入れられた現地の渡来人系の有力者、ということであったかもしれません。

 

 「わに塚」の周りを散策路が半周しています。そして上図のアングルが、原作コミック第13巻41ページ1コマ目の図でした。この地点で各務原なでしこがスマホでサクラを撮っていたわけです。

 

 原作コミック第13巻40ページ2コマ目の各務原なでしこのスマホ撮影視点で、「わに塚」のサクラを撮りました。

 

 原作コミック第13巻41ページ1コマ目の描写範囲はこのあたりまででした。

 

 原作コミック第13巻41ページ1コマ目にて各務原桜が行っていた地点へと歩きました。

 

 で、原作コミック第13巻41ページ3コマ目の、各務原桜のスマホ撮影画像のアングル。望遠モードで引き寄せた状態で、開花時の見事な美しさがリアルに想像出来ました。

 

 実際の見え方はこういう感じでした。カメラの望遠モードでサクラだけを画面一杯に引き寄せるのとはまた違った風情があります。

 

 「わに塚」の右奥に八ヶ岳の連峰も望まれました。甲斐路ならばでの景色です。

 

 機会があれば、桜の開花期にも訪れてみたいですね。

 

 八ヶ岳を遠くに眺めつつ、レンタカーを停めてある駐車場へと戻りました。  (続く)

 

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吉田社から真如堂へ2 吉田神社と若宮社

2023年03月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今宮神社から吉田神社への階段を登りました。中世戦国期から江戸期に至るまでの時期、吉田神社への参道は北と南の二ヶ所にありましたが、現在のこの階段は北の参道にあたり、かつては表参道と呼ばれました。対する南の参道はかつての「吉田構」の中央の街路から登っていく道で、裏参道と呼ばれて今もありますが、細くて通るのも地元住民ばかりと聞きます。

 

 階段を登り切って右側に吉田神社の主要区域が広がります。境内鳥居と玉垣の向こうが本殿を中心とする神域にあたります。鳥居の右の建物は着到殿です。

 

 境内鳥居です。ここからが境内中枢の神域となります。鳥居の向こうの建物は拝殿です。

 

 境内鳥居脇の案内板。

 

 初めての参拝でしたが、神域が予想していたほど広く無かったので、吉田山の丘の中腹という地形的制約があったのだろう、と受け止めました。吉田山の山頂の西麓を平地に均して神社区域を造成しています。

 吉田山には吉田神社が勧請される以前から、本来の山の神であった神楽岡神社がまつられていて、もとは吉田山山頂に祀られていたそうです。その神楽岡神社は吉田神社の成立後に山頂から西麓に移されて摂社となっていますが、その社殿は吉田神社本殿よりも高所に祀られて、吉田の地主神であることを示しています。

 

 吉田神社の中門です。左右に伸びて本殿を囲む御廊とともに江戸期の寛文十二年(1635)に再建された建築であり、京都府の有形文化財に指定されています。

 

 中門より本殿を拝みました。本殿は天文三年(1534)に造営されたものを慶安元年(1684)に改造しており、ほぼ江戸期の建築になっています。京都府の有形文化財に指定されています。

 吉田神社は、平安時代初めの貞観元年(859)に清和天皇の側近であった藤原山蔭が一門の氏神として奈良春日大社四座の神を勧請したのに始まります。それで祭神はもちろん、四棟の春日造社殿が並ぶ本殿の形式も奈良春日大社と同じです。
 私はもと奈良県民で春日大社にも何度か行きましたから、その縮小コピー版とも言える吉田神社の構えは、すぐに理解出来ました。

 

 なので、境内の東側石垣の上に若宮社が鎮座するのも、奈良春日大社の様相と同じだな、と気付きました。奈良春日大社では本社よりも若宮社の方が古来の社格が上で、奈良を代表する冬の行事「若宮おんまつり」も若宮社の祭礼です。

 ですが、こちらの吉田神社においては若宮社の祭礼儀式よりも、本社ともう一つの摂社である大元宮において節分の日に行われる節分祭のほうが重要かつ伝統的行事であり、京都では室町時代以来の祭事として親しまれています。毎年ものすごい数の参拝客や観光客が境内および参道の内外を埋め尽くします。

 私が2020年1月から務めている西隣の大学でも、正門前の東一条通がそのまま吉田神社の参道であるため、節分祭の期間中は正門前の東一条通の車やバスの通行が禁じられます。それで車やバスの利用者は迂回を余儀なくされます。大学の南側の正門と通用門は歩行者以外は閉鎖となりますが、集まってきて参道筋に溢れる群衆の何割かが大学構内にも散策で流れてきます。露店が参道筋に約400ほど並びますので、それ目当てに押しかける人も多く、かくいう私も昼休みに教職員仲間と連れ立って食べ歩きを楽しんだ事があります。

 

 若宮社の南隣の社殿への登り口の両側には、上図のように何らかの礎石とみられる石が置かれてあります。最初は灯籠が立っていた跡かと思いましたが、その台石にしては不整形かつ不安定な自然石の部分が多いです。上面だけが円形に平らに削り均されていて、礎石によく見られる形状になっています。

 

 その登り口からの階段は、神龍社への参道でした。神龍社は、吉田神社社家の卜部(うらべ)氏のち吉田氏から出て室町期に吉田神道を唯一神道とみなして大元宮を創建しその思想を広めた吉田兼倶(よしだかねとも)を祭神として永正十年(1513)に創建された神社です。

 

 階段の奥に鳥居と小さな祠が見えました。あれがそうか、と思い、百段あるという階段を上り下りするのも億劫になってきたので、次へと向かいました。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その7

2023年03月02日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11からステップ15までインテリアの組み立てが続きます。今回のミニアートのキットの製作工程は全部で42のステップに分かれますが、そのうちの24までがインテリア関連になります。フルインテリアのキットがいかに手間がかかるかがよく分かります。逆に言えば、インテリア無しのキットは工程が半分以下で済んで楽であるわけです。

 

 ステップ11とステップ12の塗装と組み立ては並行して進めました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ13に進んで各パーツの塗り分けと仮組みを行なって関連のパーツをまとめました。

 

 組み立ててゆきました。駆動軸やシャフト類の組み付けが含まれていて、外したりズレたりしないように慎重に組み付けました。

 

 組み上がった状態です。

 

 上から見ました。各パーツを塗り分けているので、それぞれの存在感があって視覚的にもメリハリが感じられます。

 

 ステップ14とステップ15も並行して進めました。パーツを塗りながらの組み立ては、パーツの塗装の乾燥を待つ時間が必要になるので、ステップごとに順に進めていたら余計に時間がかかります。

 

 ステップ14の組み立てを完了した状態です。車内各所のパーツが色々と繋がるので、丁寧に慎重に組み立ててゆかないと、外れたりズレたりしてしまいます。なかなか気が抜けないままでした。が、流石はミニアート、どこもきっちりと綺麗に組み合わさって仕上がりました。

 

 見ていて思ったのですが、車内の操縦席のすぐ斜め後ろにエンジンがあります。隔壁はありませんから、実際の戦争において操縦手はエンジンの轟音に常に包まれて任務をこなしていたものと思われます。
 ですが、ガルパン世界においては、エンジンの音を静かにするとかの処置が図られて車内での会話に支障をきたさない程度になっているのかもしれません。なにしろガルパンですから・・・。  (続く)

 

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