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吉田社から真如堂へ1 吉田社参道と今宮社

2023年03月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2022年10月14日、職場からの退勤後に、思いついて近くの吉田神社へ散歩に行きました。毎日の出勤時に職場の正門から東に吉田神社の鳥居を見るので、吉田神社へ一度も行った事が無いにもかかわらず、いつでも行けるだろうと考えてなかなか行けないままだったからです。

 現在の職場に出向着任したのが2020年1月の事でしたから、それから二年半余りも、すぐ隣の吉田神社へ行けていなかったことになります。その事に気付いて、このままだと行かないままに終わってしまうかもしれない、と苦笑してしまいました。ならば、退勤後の立ち寄り散歩で行ってみますか、と考えて、いつもなら退勤後に西へ向かう東一条通りを反対側の東へ進み、上図の吉田神社の鳥居前に着きました。鳥居脇の立派な社号標石を見上げました。

 

 吉田神社の鳥居と参道です。参道は横幅があって参拝者駐車場を兼ねており、奥に二の鳥居が見えます。参道は、中世戦国期には「馬場」または「春日之馬場」と呼ばれ、すぐ南にあった「在所之構」こと吉田構の防御施設をも兼ねていたことが、戦国期の吉田神社神官であった吉田兼見の手記「兼見卿記」の記載より知られています。

 

 参道を歩きました。北側は松並木となっています。吉田神社の参道の松並木は中世期からあったようで、戦国期の大永五年(1525)以降の作とされる洛中洛外図(町田本)の右隻に当時の吉田社参道が描かれ、左右に松並木が見えます。その後に参道中央にも松並木が追加され、江戸期の「吉田社周辺絵図」では三列の松並木が描かれています。

 三列の松並木のうち、現存するのは北側だけですが、参道中央の松並木も上図のように一部の切株が残り、南端の切株は石灯籠の台座に転用されています。中世戦国期に「馬場」または「春日之馬場」と呼ばれた参道の痕跡が僅かながらもうかがえます。

 

 そして南側の松並木は御覧のように土塁の上にあって、松の殆どはいまでは灌木に置き換えられています。「兼見卿記」の記載によれば、この土塁の南側に幅一間の「馬場之南之堀」があり、今でも一部が堀状の低地となって残っているので、中世戦国期に土塁と堀をともなった「馬場」または「春日之馬場」の様子が伺えて興味深いです。

 その南に広がる「在所之構」こと吉田構の様相については以前に史料をひも解いて色々調べた事があり、吉田神社神官であった吉田家が中心になって構築し維持管理した集落自衛のための防御施設であったことも、大体は知り得ています。にもかかわらず、現地へは全然行けていません。いずれ、考察検証を兼ねて吉田構のエリアも散歩してみたいと思います。

 

 参道の東端に達して二の鳥居に着きました。ここから吉田神社境内地へ入りますが、鳥居前の北側には江戸時代まで広場があって「射場」と呼ばれました。
 「射場」の向かい、現在の鳥居前の南側には江戸期の「吉田社家住宅配図」では「萩原殿」とあってひときわ大きな社家の宅地がありましたが、「萩原殿」は「吉田殿」の誤りなので、鳥居の南側に社家吉田家があったことになります。その辺りは現在は宅地になっていますが、参道との間の土塁が残っています。

 

 かつての「射場」の位置には、いまは上図の今宮神社が鎮座しています。江戸期の文化十三年(1816)に現在地に移転造営され、以後は吉田町の産土神(うぶすながみ)として崇められました。現在地に移る前の旧鎮座地がどこであったかは未だに分かっていませんが、鎌倉期の建保三年(1215)の吉田小社の註進状(ちゅうしんじょう)に社名が記載されていますので、それ以前に創建されているのは間違いありません。

 

 現在の吉田神社には幾つかの末社が祀られていますが、この今宮神社が石造りの鳥居と玉垣をともなって最も立派に整備されています。おそらく、吉田神社の本社および若宮社に次ぐ社格を付せられていたのではないかと思われますが、地元吉田村の産土神としての祭祀も、現在地に移転造営してからではなくてそれ以前からの歴史があっただろうと推測します。

 産土神は、その性格上、大抵の場合は集落を見下ろす高地または集落の中の高所に祀られるケースが多いです。もともとは吉田の集落を見渡す高い位置、東の神楽岡のどこかに鎮座していたのを、江戸期の吉田神社境内地の再整備に伴って現在地に移転したものと考えられますが、同時に現在地が吉田町の鬼門に当たる点も重要だろうと思います。産土神が地域の守り神である以上、鬼門除けや災厄払いの要地に鎮座するのもよくある傾向です。

 

 現在の今宮神社は、上図の案内文のごとく、四方結界を護る結界石つまり四面獣神石のスポットとして知られているようで、観光ガイド類では京都のパワースポットの一つとして紹介されている事が多い、と聞きます。ですが、秘められた歴史の深さと重さは、パワースポット云々の概念では推し量れません。

 個人的には、この四面獣神石が鎌倉時代からの継承遺品であるならば、これらもかつての今宮神社が吉田地域の産土神であった証左になり得る、と考えます。
 この種の結界石は大体は2セットが対になっていて、1セットが神社の神殿に、もう1セットが神社のある地域の四方とに配されて地域全体をガードする役目を担っていたケースが多いので、いま今宮神社に残っている石は神殿に配された1セットであって、地域の四方に配されたもう1セットが、吉田町エリアのどこかに埋もれているのではないか、と想像しています。

 おそらく、中世戦国期の「吉田構」の四方の位置がヒントだろうと思いますが、現時点では単なる推測に過ぎませんので、いずれ考察検証を兼ねて吉田構のエリアを散歩する機会に、地域の結界の件もあわせて探れたらいいな、と思います。

 

 さて、現在の今宮神社の結界石を順に見ました。四方位の護神獣である青竜、白虎、玄武、朱雀をかたどっているようで、この東南の石は蛇がとぐろを巻く姿に見えます。青竜です。

 

 続いて南西隅の上図の石が白虎石と案内文にあります。白虎には見えませんが、石そのものが相当摩耗して小さくなっているからでしょう。

 

 そして北西隅には玄武石が置かれます。

 

 まさに亀のような、玄武の形をとどめています。残る朱雀石は案内文によれば社殿の内陣におさめられているそうで、見ることは出来ませんでした。  (続く)

 

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