今宮神社から吉田神社への階段を登りました。中世戦国期から江戸期に至るまでの時期、吉田神社への参道は北と南の二ヶ所にありましたが、現在のこの階段は北の参道にあたり、かつては表参道と呼ばれました。対する南の参道はかつての「吉田構」の中央の街路から登っていく道で、裏参道と呼ばれて今もありますが、細くて通るのも地元住民ばかりと聞きます。
階段を登り切って右側に吉田神社の主要区域が広がります。境内鳥居と玉垣の向こうが本殿を中心とする神域にあたります。鳥居の右の建物は着到殿です。
境内鳥居です。ここからが境内中枢の神域となります。鳥居の向こうの建物は拝殿です。
境内鳥居脇の案内板。
初めての参拝でしたが、神域が予想していたほど広く無かったので、吉田山の丘の中腹という地形的制約があったのだろう、と受け止めました。吉田山の山頂の西麓を平地に均して神社区域を造成しています。
吉田山には吉田神社が勧請される以前から、本来の山の神であった神楽岡神社がまつられていて、もとは吉田山山頂に祀られていたそうです。その神楽岡神社は吉田神社の成立後に山頂から西麓に移されて摂社となっていますが、その社殿は吉田神社本殿よりも高所に祀られて、吉田の地主神であることを示しています。
吉田神社の中門です。左右に伸びて本殿を囲む御廊とともに江戸期の寛文十二年(1635)に再建された建築であり、京都府の有形文化財に指定されています。
中門より本殿を拝みました。本殿は天文三年(1534)に造営されたものを慶安元年(1684)に改造しており、ほぼ江戸期の建築になっています。京都府の有形文化財に指定されています。
吉田神社は、平安時代初めの貞観元年(859)に清和天皇の側近であった藤原山蔭が一門の氏神として奈良春日大社四座の神を勧請したのに始まります。それで祭神はもちろん、四棟の春日造社殿が並ぶ本殿の形式も奈良春日大社と同じです。
私はもと奈良県民で春日大社にも何度か行きましたから、その縮小コピー版とも言える吉田神社の構えは、すぐに理解出来ました。
なので、境内の東側石垣の上に若宮社が鎮座するのも、奈良春日大社の様相と同じだな、と気付きました。奈良春日大社では本社よりも若宮社の方が古来の社格が上で、奈良を代表する冬の行事「若宮おんまつり」も若宮社の祭礼です。
ですが、こちらの吉田神社においては若宮社の祭礼儀式よりも、本社ともう一つの摂社である大元宮において節分の日に行われる節分祭のほうが重要かつ伝統的行事であり、京都では室町時代以来の祭事として親しまれています。毎年ものすごい数の参拝客や観光客が境内および参道の内外を埋め尽くします。
私が2020年1月から務めている西隣の大学でも、正門前の東一条通がそのまま吉田神社の参道であるため、節分祭の期間中は正門前の東一条通の車やバスの通行が禁じられます。それで車やバスの利用者は迂回を余儀なくされます。大学の南側の正門と通用門は歩行者以外は閉鎖となりますが、集まってきて参道筋に溢れる群衆の何割かが大学構内にも散策で流れてきます。露店が参道筋に約400ほど並びますので、それ目当てに押しかける人も多く、かくいう私も昼休みに教職員仲間と連れ立って食べ歩きを楽しんだ事があります。
若宮社の南隣の社殿への登り口の両側には、上図のように何らかの礎石とみられる石が置かれてあります。最初は灯籠が立っていた跡かと思いましたが、その台石にしては不整形かつ不安定な自然石の部分が多いです。上面だけが円形に平らに削り均されていて、礎石によく見られる形状になっています。
その登り口からの階段は、神龍社への参道でした。神龍社は、吉田神社社家の卜部(うらべ)氏のち吉田氏から出て室町期に吉田神道を唯一神道とみなして大元宮を創建しその思想を広めた吉田兼倶(よしだかねとも)を祭神として永正十年(1513)に創建された神社です。
階段の奥に鳥居と小さな祠が見えました。あれがそうか、と思い、百段あるという階段を上り下りするのも億劫になってきたので、次へと向かいました。 (続く)