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上賀茂梅辻家3 梅辻家の外

2023年06月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅辻家住宅の書院部分を南側の庭園から見ました。御殿建築のような姿で、有力神職の社家の建物にしては立派すぎる外観です。京都御所の学問所を移築したとの伝承がありますが、その伝承はおそらく本物だろうと思います。

 ですが、京都御所の建物は皇室の所有ですから、移築するには、皇室からの下賜が前提となります。そして天皇の書斎にあたる学問所の建物が下賜される先というのは、どこでも誰でも、というわけにはいかなかった筈です。皇室と何らかの関係があるか、それに準じた関係がなければ、皇居の建物の一部を下賜されるという栄誉にはあずかれなかっただろう、と思います。

 いまの京都市内だけでも、京都御所からの移築建築または移築と伝わる建物は幾つかありますが、たいていは皇室ゆかりの門跡寺院か、皇室が開基となっている有力寺院にあります。梅辻家の場合は、後鳥羽天皇の血筋を汲み、鎌倉期より上賀茂社の宮司を持ち回りで務めたという家柄の七家「賀茂七家」の一にあたり、皇室の血をひいている末裔の一人であるため、京都御所の建物を下賜される資格があったものと思われます。

 

 さらに「賀茂七家」にあたる「 松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本 」のうち、梅辻家はその門構えが最も格の高い長屋門形式であるので、「賀茂七家」においても上位の社家であったとみられます。他の「賀茂七家」の六氏の邸宅は既に退転したそうですが、梅辻家のように京都御所からの移築建築があったという話もなかったと聞きます。

 おそらく、梅辻家は「賀茂七家」の序列でいうとナンバー1だったのでは、と個人的には推測します。だから京都御所の学問所の建物を下賜され得たのだろう、と想像する次第です。

 

 順路を最後までたどって式台に戻ると、案内係の方から「裏手の内玄関も外から御覧いただけます」と説明されました。それで式台の横から奥、主屋の西側に進むと、上図の内玄関が見えました。主屋の玄関であり、梅辻家の現当主はここから出入りされるそうです。
 よく見ると、玄関の木枠が鳥居の形に造られているのでした。上賀茂の神主家の玄関に相応しい造りです。

 上図の写真を撮った直後、その玄関の戸がガラガラと開けられて、現当主の梅辻諄さんがひょっこりと出てこられ、私の顔を見るなり、「おや、星野さんかね?」と言いました。顔見知りなので、つられて頭を下げましたが、向こうも深々と御辞儀をしてきたのには恐縮してしまいました。

 梅辻さんは大阪の大学の教授で、京都在住の大学教職員同士、二度ほど会った事がありましたが、まさかここが梅辻さんの御自宅だとは思わなかったので、ちょっと面食らいました。

 

「こちらが先生の御自宅でございましたか・・・」
「ははは、まあ、古いあばら家ですがね、いちおう文化財に指定されとりますのでな、その保存継承にはやはり皆様に見て知ってもらう事が大切と思いまして今回の特別公開に応じたわけでね。ま、ごゆっくり・・・」
「有り難うございます・・・」

 近所への所用とかで、90歳とは思えぬ軽やかな足取りで門を出てゆくその後ろ姿を見送った後、上図の案内板に気付いて読みました。


 これで特別公開範囲の全てを見ましたので、では、と長屋門に向かいました。上賀茂に現存する幾つかの社家住宅において門が長屋門形式であるのは梅辻家だけだと思っていましたが、案内パンフレットを読むと「上賀茂に残る二つの長屋門の一つ」とあって、他にも長屋門を構えた所があるようです。

 そのもう一ヶ所の長屋門の家はどこですか、と式台の案内係に問い合わせましたが、知らないとの事でした。さきに見てきた上賀茂伝統的建造物群保存地区の指定範囲における門は薬医門のみでしたから、別の場所にあるのだろうな、と考えました。さっき梅辻さんに訊いておけばよかったな、と頭をかいたことでした。

 

 来た道を引き返し、上賀茂神社の門前までの通りを歩きました。明神川が南に流れてくる辻に、上図の老樹と祠がありました。この祠のある辻までが、上賀茂伝統的建造物群保存地区の指定範囲となっています。

 

 祠の正式名称は藤木社(ふじのきのやしろ)といいます。説明文を呼んで、だから通りの名前が「藤ノ木通り」なわけか、と納得しました。
 この藤木社は、上賀茂神社の末社で、明神川の守護神でもあるので付近一帯の社家の信仰を受けているそうです。明神川は賀茂川を源とし、上賀茂神社の境内を経て、社家町を流れ生活用水となり、後は田畑を潤す農業用水となっていますから、その川の恵みに感謝して篤くお祀りしてきた歴史があるわけです。

 

 なので、明神川沿いの「藤ノ木通り」はもとは上賀茂神社から藤木社への参道だったのが、室町期以降の社家町の形成とともにその街路ともなったのでしょう。

 

 明神川に沿って歩き、時々立ち止まって石橋を見、並ぶ社家の外構えを見、そのまま帰路につきました。今回も色々と学ぶ事が多くて楽しかった歴史散歩になりました。  (了)

 


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