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龍と仁と天と3 龍安寺の石庭と勅使門

2021年10月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の方丈は、龍安寺における最古の建築で国の重要文化財に指定される。指定正式名称は「龍安寺本堂 附 玄関」であるので、さきに見た勅使門も付属建築として扱われていることが分かる。もとは塔頭の西源院の方丈であったというが、それが慶長十一年(1606)に織田信包によって建立されているのであるから、本来の方丈も織田氏および豊臣氏の保護下に置かれた立派なものであったことは容易に想像がつく。

 寛政九年(1797)に焼失したその本来の方丈は、寺史によれば長享二年(1488)に細川勝元の子の細川右京大夫政元によって再建されたものという。源氏長者の足利将軍家に次ぐ、源氏分流の管領細川氏の格式のゆえに、将軍家御所の御殿様式も取り入れた本格的な建築であったことだろう。創建時よりこの方丈を「書院」とも称しているので、本質的には書院建築的な様相を示していたものと推測される。

 

 そのかつての「書院」たる方丈に、塔頭西源院の方丈は規模がほぼ同じに近かったものらしい。禅寺に限らず、中世期の寺院の主要建築は、寺院の塔頭の建物の範となる場合が普通で、要は塔頭の建物を本寺の建物に模して造っていた歴史がある。

 だから、龍安寺においても本来の方丈が焼失した後に塔頭の方丈を移築しておさめることが可能であったわけであるが、このことは、有名な石庭を考えるにあたっても重要なポイントになる。方丈が焼失して塔頭の方丈に入れ替わっても、南側の石庭の位置および規模には変化がなかったようであるが、これは重要なことのように思える。

 

 いまの方丈も上図のごとく内部の設えは簡素で、いかにも室町期の書院建築の典型的な姿をみせるが、その雰囲気は創建時の細川勝元の「書院」とさほどに隔たりはないのかもしれない。室町期の書院建築ほど、時期を隔ててもあまり変化がなかった建物もないからである。
 織豊期になると、織田信長や豊臣秀吉の派手好みを反映して書院建築も豪華になり美的意匠が増えてくるが、龍安寺の方丈はそういった「華やかさ」とは無縁のままであったことだろう。

 問題は、室町幕府のナンバー2であった細川勝元が、なぜ龍安寺をこの地に創建したか、ということである。かつての円融寺および徳大寺を踏襲したのではなく、その旧地を譲り受けて龍安寺を起こした際に、旧寺の池である鏡容池とは離れた高台にわざわざ寺の中枢部を据えているのである。高い場所でなければならない理由があったとみるべきである。

 

 現在は上図のようになっている南の石庭だが、本来は細川勝元の「書院」の南庭であったから、これを囲む油土塀の南側が低く造られる点にも意味がある。
 本来の方丈が焼失した直後の寛政十一年(1799)に当時の作家にして俳人であった秋里籬島(あきさと りとう)が著した「都林泉名勝図会」に、龍安寺の方丈から眺めた八つの景色を「龍安寺八景」として列挙するなかに「八幡源廟」があり、開山細川勝元に関して次のような記述がある。

「この人(細川勝元)書院に居ながらにして遥かに八幡神廟を毎時拝せんがために庭中には樹木を植えさずとなん」

 ここに細川勝元による龍安寺創建の主旨の一つが簡潔に示されている。京都における源氏の守護神であった男山(現在の石清水八幡社、龍安寺の真南約15キロに位置する)を寺の書院から南庭ごしに毎時拝む為、である。源氏の細川氏であれば当然のことだが、そのために書院の庭には遥拝の邪魔になる樹木を植えさせなかった、というのである。現在の石庭に樹木が存在しない点をも簡潔に述べているようにみえてしまうが、これは秋里籬島の俗説であろう。

 ただ、油土塀の南側が低く造られる点はまさしく男山を拝めるようにした配慮であり、かつては南の林間に男山が望まれたというから、「書院に居ながらにして遥かに八幡神廟を毎時拝せんがために」の部分はおそらく史実であろう。

 加えて龍安寺の位置は当時の室町幕府の城下町たる上京の外郭の西側をおさえ、平安京域のほぼ全部を一望出来る。山陽道、山陰道および北陸道へも睨みがきき、東海道を含めて四街道に軍勢を展開出来る軍事上の要地である。
 したがって、男山を拝む場所、というのは表向きの理由であって、管領として帝都の内外に睨みをきかせる場所にて将軍家の安泰をはかる、というのが真の目的であったのかもしれない。

 なお、方丈の南庭が油土塀に囲まれることによって、南麓の鏡容池は見えなくなる。細川勝元の龍安寺においては、徳大寺以来の庭池の景観は必要なかったのであろう。龍安寺が鏡容池とは離れた高台に設けられているのも、「八幡源廟」の景色を得るためであったとすれば納得がゆく。そのための龍安寺方丈の南庭であったわけである。

 

 だが、現在の南庭の石庭つまり枯山水が、細川勝元の頃からあったかどうかは疑問である。龍安寺の様子を伝える室町期の史料には、いま見られる美しい白砂の石庭のことは一切出てこないからである。

 室町期に限らず、中世期の禅宗寺院における方丈の南庭は、一般的に寺における聖なる空間の一つとして重要視されており、勅使の来訪時や新住職就任の式である晋山式等の儀式の場となった歴史がある。
 これは平安期の密教寺院にて本堂南庭が重要な空間と定められたのを踏襲したものと思われるが、仏教的に重要な儀式の場であるという認識は不変であったようである。したがって、その空間に観賞用の石や枯山水や植栽を配置するという状況はまず有り得ない。

 だから、天正十六年(1588)に豊臣秀吉が龍安寺で茶会を催した際に、秀吉を含めた七名全員がかつて庭にあった絲(しだれ)桜のことを詠んだが、庭石のことは詠まなかったのも当然であろう。当時の龍安寺方丈の南庭には、いま見られる枯山水はまだ無かったのかもしれない。

 

 龍安寺の往時の姿を描いた絵画資料は、まず寺蔵の「龍安寺敷地山之図」が挙げられる。これは創建時の寺の絵図を江戸期に模写したものと伝わるが、方丈と玄関はほぼ現在の姿に近いのに南庭には石庭の描写が無い。

 これは秋里籬島が安永九年(1780)に出版した「都名所図会」に掲載される龍安寺境内全景の図においても同様であり、方丈の南庭には石庭の描写が無い。方丈は焼失前の姿であるが、現在の旧西源院方丈および勅使門の様子とよく似ているのは興味深い。

 

 現在見られる石庭が絵図に初めて描かれるのは、本来の方丈が焼失した直後の寛政十一年(1799)に出た「都林泉名勝図会」の図である。この図に「庭中に樹木一株もなく海面の体相にして、中に奇巌十種ありて島嶼(とうしょ)に准(なぞら)へ、真の風流にして他に比類なし、これを世に虎の子渡しといふ」との説明が添えられるが、「奇巌十種」とあるように当時の庭石は10個で、現在の15個では無かったことがうかがえる。白砂に関する記述が無いのも興味深い。

 

 まとめると、現在の石庭は、安永九年(1780)の「都名所図会」の図には無く、寛政十一年(1799)の「都林泉名勝図会」の図にて初めて描かれるので、両者の間の時期、つまりは本来の方丈が焼失した寛政九年(1797)を含む期間に成立した可能性が考えられる。

 これはおそらく江戸幕府による新寺院諸式(寺院諸法度)の制定との関連が推定される。江戸期以前までは聖なる空間として厳に管理された方丈南庭に関する規範が、この新寺院諸式によって緩和され、儀式の場としての聖域性が後退した方丈南庭に鑑賞用の意匠が施されるようになる。その先駆けが、寛永九年(1632)造営の南禅寺方丈の石庭であるとされる。

 ただ、禅宗は規範や規則が江戸期でもやかましかったようで、新寺院諸式による緩和よりも伝統旧例の遵守のほうが重くみられた流れがあった。南禅寺は京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、萬寿寺)の上の寺格であったからその石庭造営は例外と見なすべきかもしれない。十七世紀のうちではまだ方丈の石庭は普及せず、十八世紀になっても半ばからようやく各寺院における石庭の造営が目立ってくる。

 したがって、龍安寺の石庭を前述のように安永九年(1780)から寛政十一年(1799)までの間の時期の成立と仮定した場合、石庭としてはかなり遅い時期の成立であったことになる。当時は斬新な発想の石庭であったかもしれない。現在は京都を代表する庭園のひとつに数えられて有名になったのも、その斬新さがいまに通じる性質のものであったからかもしれない。

 

 石庭の東には現在の勅使門に繋がる歩廊がある。江戸期の諸絵図に描かれた歩廊付きの玄関の姿を思わせるが、要は焼失前の建物の様相が受け継がれたのであろう。創建当時は方丈の「書院」とその玄関であったものが、いつのまにか玄関だけ格式をあげて勅使門になっているが、その理由は寺務所に尋ねても明確に分からなかった。

 

 なので、勅使門の内部を方丈の南側広縁から見ている限りにおいては、ごく普通の玄関の構造であった。もとは塔頭西源院の唐門であったというから、勅使門というにはやや簡素な雰囲気が否めないのは仕方の無いことである。
 しかし、かえってこの質素なたたずまいが、創建時の細川勝元の「書院」の玄関のそれを思わせるところがあって、それはそれで趣きもあって面白いものだ、と感じた。  (続く)

 

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