大聖寺で「花の御所」石碑を見た後、烏丸通に戻って北へ進み、左手の同志社大学の施設のひとつ「寒梅館」の敷地内に入りました。同行者の出身大学ですから、同行者は当然ながら「寒梅館」にも馴染みが深いようでした。普通に施設の西出口へ進むと思いきや、脇にそれてレンガ造りの塀に沿って北へ進み、上図の北東隅の区画へ入りました。私はただついていくだけで済みました。
この区画は、「寒梅館」敷地内の発掘調査にて出土した室町殿つまり足利将軍家御所の遺構を保存展示しているエリアです。御覧のように案内板や解説板が各所に設けられて、展示遺構の概要が分かるようになっています。
保存展示遺構は、屋外レプリカ展示とガラスケース内保護展示の2方法にて整備されています。上図は屋外レプリカ展示となっている室町期の石組水路遺構です。遺構の実物は埋め戻されており、その忠実なレプリカを位置を移してこのように展示しています。
同行者はこちらの遺跡についてはよく知っていて、学生の頃から見ているそうです。ただし、この「寒梅館」の範囲が室町殿の遺跡だと思い込んでいたそうで、その南側に実は室町殿の主要部が広がり、その殿舎の一部の岡松殿が現在の大聖寺の前身であったことは、今回私が教えるまで知らなかったそうです。
私はここの展示遺構自体は今回初めて見たのですが、それまでに発掘調査報告書や京都市考古資料館の資料などを何度か呼んで遺跡の概要は把握していましたから、上図のガラスケース内保護展示の石敷き遺構を見て、ここが足利義晴再築の時期の北東隅の社の辺りか、と理解出来ました。
見事な石敷きです。古代以来、建物や庭園の周囲にこうした川原石などがびっしりと敷かれて、美観と水はけ機能の二つの役割を果たしたとされています。古代でいえば飛鳥池遺跡や飛鳥寺西門前などの広い石敷きが有名ですし、中世では建物の周囲の犬走り部分や敷地内の通路空間を石敷きにしているケースが一般的です。これは江戸期までずっと続きますから、発掘していて石敷きが出土すれば、なんらかの建物が近くにあっただろう、と推定されるわけです。
なので、室町期の石敷きが室町殿遺跡の範囲内で見つかったのならば、間違いなく足利将軍家の室町殿の関連施設に関係があるだろう、と推察されるわけです。
室町殿の往時の景観は、洛中洛外図などにも描写されており、ある程度の理想化表現が施されるものの、建物の配置や庭園などの存在は、実際の発掘調査成果とほぼ一致することが分かっています。
発掘調査当時の遺跡図面を見ると、二つのガラスケース内保護展示の遺構は原位置をとどめていることが分かります。遺跡範囲の赤枠の右側に縦長の長方形と横幅がやや長い方形の部分が並びますが、それがいまの二つのガラスケース内保護展示遺構です。
そして、さきに見た屋外レプリカ展示の石組水路遺構の現物は、現在の展示位置よりも西側にあることが分かります。そこは今は「寒梅館」の北側の通用口の駐車場になっているので、遺構展示に際して位置を移したわけです。
遺構の解説文です。遺跡は2004年の「寒梅館」の新築に先立って2002年から2003年にかけて同志社大学が発掘調査して確認しています。その詳細は、同志社大学歴史資料館刊行の「同志社大学歴史資料館調査研究報告第4集」に「学生会館・寒梅館地点発掘調査報告書 : 室町殿と近世西立売町の調査」としてまとめられています。
室町期の歴史に関心がある私にとっては、実に興味深く楽しい場所でした。室町殿遺跡の遺構は他にも素晴らしいものが幾つか検出されていますが、市街地化の弊害により殆どが埋め戻されてしまい、このように保存展示がなされにくい傾向があります。残念なことです。
「寒梅館」の北を通る上立売通を東へ進み、相国寺の西門に行きました。いまは同志社大学今出川キャンパスの北に境内地が隣接しますから、同行者にとっても馴染みの深い寺であったと思うのですが、話を聞いてみると「境内を通ったのはしょっちゅうだったけれど、相国寺そのものはよく知らないし、お堂の中へ入ったこともない」ということでした。いかに平安時代だけに興味を持って熱中していたかがうかがえます。
なので、相国寺に関しては私が案内役になりました。
相国寺は、室町幕府第3代将軍の足利義満が花の御所の隣接地に足利家の菩提寺として永徳二年(1382)に発願創建した臨済宗の禅刹です。寺号は足利義満の職であった左大臣の唐名「相国」にちなみ、また当時の中国の明の五山制度の始まりの寺院である大相国寺にもあやかったとされています。
その後、足利義満は権勢にものをいわせて至徳三年(1386)に五山の制度を定め、京都と鎌倉のそれぞれに五山を制定したうえで、まだ建設中であった相国寺を京都五山の第二位に定めています。寺が竣工したのはその6年後の明徳三年(1392)でした。京都五山の第一位はこれも足利家創建の天龍寺、第三位は足利家が保護した鎌倉幕府ゆかりの建仁寺でありましたから、五山の制度というのは、要するに足利家および室町幕府の宗教上の布石であったわけです。
なので、創建当時の相国寺は足利義満の権勢をバックに一大伽藍を揃え、塔頭は50余にも及んで隆盛を誇り、応永六年(1399)には七重大塔が歴史上最高の360尺(約109メートル)をもって空に聳え、それまでの平安京内外の諸寺の塔を一気に凌駕しました。いまでは観光地として有名な鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)も相国寺の山外塔頭に連なっています。
相国寺はその後の室町幕府の流転混乱と衰退の影響を受けて衰微に向かい、応仁の乱では戦場に含まれて被害を蒙り、多くの堂舎を失いました。戦国期までに4度も全焼の憂き目にあいましたが、復興はその都度なされていて、室町幕府の底力がいかに大きかったかがうかがえます。
その後の伽藍は江戸期の天明八年(1788)の大火で法堂以外が失われてしまい、文化年間(1804~1818)に再建されたのが現存の伽藍の大部分です。
ですが、伽藍の正門たる三門、および本堂にあたる仏殿は再建されないまま、いまも土壇のみを残しています。上図は仏殿跡の土壇です。
仏殿跡の土壇の中央の通路を進みました。左手には江戸期の万延元年(1860)に再建された経蔵が見えました。かつて同位置に建てられていた宝塔の外観を踏襲して宝塔形式で建てられています。 (続く)