気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

龍と仁と天と2 龍安寺の庫裏と方丈

2021年10月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 勅使門の前からいったん下に降りて東側へ移り、改めて一般拝観者順路の石段を登った。上図は登り切ろうとする辺りで下を振り返った図である。
 奥の一番下の参道から二段の平坦面を経ているので、相当な高さに達していることが分かる。現在の境内地が急な傾斜面に占地していることが理解されるが、ここまで登ると、庭園の鏡容池からも離れてしまう。龍安寺創建以前の徳大寺、およびその前の円融寺の頃には主要堂塔はもっと池に近かった筈なので、現在の龍安寺の建築群が、徳大寺および円融寺の寺地にそのまま位置しているかについては疑問がつきまとう。

 なので、いまは参道西側の山林となっている広い区域こそ、かつての徳大寺および円融寺の位置であった可能性も否定出来ないが、発掘調査もいまだになされていないので、これ以上の推測は無意味である。

 ただ、徳大寺を創建した左大臣藤原実能の山荘が当地にあり、藤原実能を祖とする徳大寺氏が氏神とした住吉神(現在の住吉大伴神社)の元の神体山がいま境内地の北西に聳える住吉山(標高241メートル)であったことをふまえると、徳大寺の位置は、住吉山が望める範囲内に絞られる筈である。
 その場合、いまの龍安寺主要部の方丈からは住吉山はまったく見えず、鏡容池の北岸にある西源院や大殊院からは見えることがポイントになるであろう。

 

 参道の石段を登りきると、庫裏の大きな建物があって一般拝観の受付口となっていた。江戸期の寛政九年(1797)に前の建物が火災で焼失し、その後に再建されたものである。切妻造、妻入とし、煙出(けむりだし)のある大屋根を架けた形式であるが、装飾的要素は一切省かれていて、江戸期の典型的な庫裏建築としての様相を示す。

 

 入ると土間があって拝観者の上がり口となっているが、その直上は吹き放ち構造となって屋根裏まで続く。

 

 そして屋根上の煙出(けむりだし)まで排煙のための空間が造られている。ここの庫裏は高さがあるので、御覧のように吹き放ちの空間も広くとってあり、玄関口から入った風が上に吹き上げてゆくように配慮されている。

 

 庫裏から拝観順路を進んで西隣の方丈の回縁に進むが、この方丈建築の構造は、正面である南側だけでなく東側にも西側にも広縁が設けられる。背後は山で、有名な石庭は南にあり、それに続く庭園は西に位置するのに、庭の無い東側にも上図のように広縁が付く。
 これによって、元の方丈が寛政九年(1797)に焼失した後に塔頭の西源院方丈を移築したとの解説に納得がゆく。おそらく西源院にあった頃は東側にも庭があったのだろう。

 

 建物自体は慶長十一年(1606)に織田信包によって建立されたものという。桃山風の様式が随所に見られるが、その中心的要素であっただろう室内の障壁画は、もとは狩野派の手によるものであった。残念なことにそれらの画は明治初期の廃仏毀釈の際に売却され、寺外へ流出し散逸してしまった。

 それらの多くは海外に出て、現在はメトロポリタン美術館に8面、シアトル美術館に4面が所蔵される。また別に個人所有となっていた群仙図4面と琴棋書画図2面は2010年に龍安寺に買い戻され、2018年には芭蕉図9面が帰還した。襖に元あった引手はすべて外されたため、現状ではパネル状の絵画として寺に収蔵されている。時々特別公開がなされているが、私自身はまだ機会に恵まれていない。

 

 方丈の裏手、北面に回ると庭には上図の蹲踞(つくばい)が置かれてある。手を清める為の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたものだが、これは一般拝観者向けに展示されているレプリカで、実物は庫裏の裏手に移築された茶室「蔵六庵」の庭に置かれる。

 

 蹲踞(つくばい)の解説板。

 

 方丈の北縁はそのまま西の仏殿にも繋がるが、仏殿は普段は非公開である。

 

 なので、ぐるりと西側の広縁に回って、昭和57年に室町風に復元された西の庭園を眺めつつ、南へと向かった。

 

 方丈の南面、つまり正面に出た。ここの広縁が最も広く、柱間は全て戸口とされて採光性にも優れている。ようやく他の拝観客の姿が二、三人認められたので、やはり寺内に私一人のみでは無かったのだ、と悟った。  (続く)

 

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