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龍と仁と天と1 龍安寺へ

2021年10月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2021年2月11日、思い立って久しぶりに三ヶ所の古刹を訪ねた。龍安寺、仁和寺、天龍寺であった。

 祝日だが、嫁さんは仕事があり、この日の夕飯を担当するという条件で許可を貰って一人で出かけた。地下鉄の京都市役所前で降り、河原町通東側の京都市役所前バス停A乗り場より59系統に乗って、上図の竜安寺前バス停で降りた。

 

 コロナ禍下の観光客激減の時期に行ったので、バスを降りたのも、門前に進んで上図の標柱を見て参道に進んだのも、私一人であった。

 

 龍安寺には確か十年ぶりだった筈だが、門前参道の景色は変わらず、であった。前回は境内のどこにも観光客や参拝者の姿が見られたが、今回は方丈に入るまでとんと人影を認めなかった。京都観光の人気ベスト5に入るとされる龍安寺でさえこの有様になるのか、と改めて新型感染症流行の影響の大きさを感ぜざるを得なかった。

 

 江戸期の宝暦五年(1755)に再建された山門をくぐった。現在の境内地はここからになるが、創建時の境内地の南限はいまの嵐電の龍安寺駅の辺りまであったという。その頃は東に足利家菩提寺の等持院が隣接していた筈であるが、境内地の面積は龍安寺の方がはるかに広かったらしい。管領細川京兆家の威勢がしのばれる。

 

 ほどなく左手に鏡容池(きょうようち)と呼ばれる池が見えてきた。龍安寺創建に先立って当地に在った徳大寺の庭園の池であったというが、徳大寺の建立が藤原末期の久安三年(1147)のことであったというから、発願者の左大臣藤原実能(ふじわらさねよし)としては、当時の流行にのっとって浄土庭園とした可能性が高い。その庭園の園池が、どの程度旧状をとどめているかは疑問無しとしない。

 ただ、藤原期の寺の庭園の池にしては大きすぎるので、徳大寺の廃絶後に細川勝元が当地を譲り受けて龍安寺を起こした際に、池も拡張した可能性が考えられる。いま池中に頭をのぞかせる「水分石」の他、池底に残る景石などを調査すれば、かつての徳大寺山荘の庭園の姿にも辿りつけるかもしれない。

 

 鏡容池(きょうようち)の北辺からは、寺の開基たる室町幕府管領にして細川京兆家第11代、右京大夫勝元の「書院」の推定位置まで一気に進んで石段を登った。創建当時は御殿風の「書院」が建てられて式台が南面していたものと思われるが、その位置には現在は上図の勅使門が建つ。かつて塔頭の西源院の唐門であったのを、江戸期の寛政九年(1797)に前の門が焼失した後に移築したものである。

 禅寺の諸堂の配置はよほどのことが無い限り旧規を踏襲するので、この勅使門の構えは、かつての「正門」または式台のそれをなぞっていると見たほうが良いように思われる。

 

 しかし現在は勅使門となっており、文字通り天皇家の使者たる勅使の専用口であったから、いまでも厳に閉じられて寺僧はおろか一般の通行も禁じられる。観光拝観の出入りは東に繋がる庫裏にて行われる。

 

 勅使門の手前左右に建つ土塀は、向かって左側が有名な石庭を囲む油土塀のそれである。著名な石庭との組み合わせの美しさがよく知られるが、その壁面の独特の色合いは、実は外側のそれが内側よりもまろやかで見応えがある。案外知られていない見どころの一つである。

 

 油土塀の屋根は杮葺きであるが、見たところ相当傷んでいるようであった。段々に並べて貼られた杮板の線が波打って見えたので、腐食がかなり進行しているようだな、と感じた。いずれ葺き替え等の修理が必要になるな、と思った。

(追記 龍安寺石庭の土塀の柿葺屋根が15年ぶりに葺き替えられるため、この12月6日から約3ヵ月ほど拝観停止になるそうです。)

 

 そして棟の鬼瓦を見上げたところ、龍安寺の寺紋の引両紋(ひきりょうもん)ではなくて五七桐紋(ごしちのきりもん)であるのに気付いた。これは豊臣家の紋として知られるが、他にも使用例が多かったので、これが豊臣家の紋であるかは不明である。ただ、現存する土塀の以前の寄進修理を行なった武家の紋であることは間違いない。

 土塀自体は室町期の建立かとされているようだが確証はなく、細川勝元の創建以来の遺構であるならば、足利家より拝領した寺紋の引両紋が打たれるはずである。それが五七桐紋であるところに、この土塀の実年代考察への手掛かりが秘められているように感じられた。  (続く)

 

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