忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば人は動かず(yutakaの学級通信:第8話)

2010年03月31日 | 教育談義
 どのように教育すれば良く身に付くのか?
企業でも、学校でも、家庭でも大いに苦心するところです。
 昔、第2次世界大戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、
人を育てるには「やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば人は動かず」と言われたそうです。
この言葉には仁将と言われた山本大将の教育者としての心構えが込められています。
教える側が「出来て当たり前」という気持ちでは、習う側は意欲を失うでしょう。
出来なければ落ちこぼれでは、劣等感を育てているようなものです。
一生懸命に努力している点を理解し、評価してあげなければ誰でもやる気は起こらないのです。
「ほめてやらねば」という言葉には、前向きな姿勢を支えている
「向上心」を育てていく姿勢がうかがわれます。
 中学生を育てるのも、大人を育てるのも、年齢という違いはあるものの、
人の本質に違いはありません。
努力している姿勢こそが大切であり、出来たことを上手に評価し自信を育て、
ほめながらもうぬぼれさせるのではなく、
前向きな姿勢を如何に育んでいくかに教育の本質があるのではないでしょうか。

私の原体験 ⑭ (妻の死)

2010年03月31日 | Yutakaの原体験
 妻のベッドの隣で寝泊まりしながら看病を続けていた時、私は幸せを感じていました。
この生活が永遠に続くことに、かすかな期待感を抱いていました。
 当時食器洗い用に買ったスポンジに、鈴木と名前を書いて洗面所に置いておくと、
妻が珍しく怒ったことがありました。
「どうして名前を書いたの。名前を書いたら他の人が使えないでしょ」
といつもの妻らしく、周りの人たちへの気遣いについてでした。
 10月に入ると、病状はますます悪化していきました。
モルヒネによる痛み止め治療が開始されました.
脳に転移したガンは、意識障害を伴い残尿感、
痴呆の表情が妻を襲うようになってきました。
 数日後担当医に呼ばれ、これ以上の治療に改善の見込みないと
治療の中止を宣言されました。
 他の病院に移るか、ホスピス病棟に移るか、
どちらかを選択してください、ということでした。
 私はホスピス病棟に移ることを妻に伝えました。
11月に入ると、妻は寝たきりの状態になっていました。
話しをすることもできなくなりました。
眠っている時間が、だんだん長くなっていきました。
 話しができた頃は、妻は家に帰りたがっていました。
ホスピス医を辞職した小澤先生が在宅医に移った理由は、自宅で死を迎える人のためでした。
 妻が信頼していた小澤先生にお願いして、自宅に戻り家族で妻の看病をするか、
このままホスピスで看病を続けるか、
家族で話し合いました。
 数日後、家族の総意で在宅看病に切り替える決断をし、
私たちは退院をしました。
(つづく)

ありがとうの一言(yutakaの学級通信:第7話)

2010年03月30日 | 教育談義
 家族の中では、親しい間柄のゆえに、「ありがとう」の一言が言いにくいことがあります。
長年一緒に暮らしているから「何も言わなくとも思いが通じる」、と考えている人もいるでしょう。
 しかし、本当にそうでしょうか。
あるお父さんは、会社から帰宅すると居間に座るなり、お母さんに向かって、
「お~い、ビール」「めし」「風呂」、お母さんと交わした言葉がたった、この三つだけだったそうです。
長年一緒に暮らしているのだから、この三つの言葉だけでもお互いを、思い合い信頼し合える関係なのだと、本当に言えるのでしょうか。
 お父さんは仕事で疲れていますが、お母さんにしてみても同じです。
家事だけ取っても大変なお仕事です。
女中さんのように命令されてばかりでは、嫌になってしまうでしょう。
 親しい間柄であっても「ありがとう」、という一言がとても大切なのではないでしょうか。
 互いの心の距離は、ささいなすれ違いから生じてくるものです。
夫婦の間であっても、親子の間であっても、相手を思い合う気配りをおろそかにしてはいけないと思います。
「ありがとう」「おはようございます」のたった一言ですが、その一言に温かい心を込めて、家族に対しても、誰に対しても、使いたいものです。

私の原体験 ⑫ (妻の死)

2010年03月30日 | 教育談義
 妻が病室で診断結果を、うれしそうに報告してくれました。
イレッサが効き、肺がきれいになってきた、ということでした。
担当の小澤先生も、興奮気味に説明してくれたようです。
 ガンが治ってきていました。
妻も私も心からホットしていました。
もう、直ったような気にさえなっていました。
 ただ気になるのは、共立病院で検査を受けた時期から、
頭痛が続いていることでした。
 甦生病院のレントゲンでは、頭に異常はありませんでした。
色々な頭痛薬が妻に試されました。
毎日、頭痛による吐き気が続き、食欲が落ちていきました。
 退院後、季節は夏に変わり、夏休みに入りました。
私たちは、小田原にある頭痛専門病院をインターネットで探し出し、
二人で車で行きました。
 そこでの検査でも、異常は見つかりませんでした。
しつこい偏頭痛だと、私も妻も思っていました。
 食欲はその後も落ち続け、体重は日に日に落ちていきました。
頭痛や吐き気、食欲不振に悩まされながらも、妻は夏休みの間に、
上越で暮らした時期の友人たちと、そして自宅のカントリーショップに関わる仲間たちと、加えて、家族や親せきたちと、計3回にわたって1泊の温泉旅行に出かけました。
 私はガンが完治しなくても、60歳まで生きられれば、その後もずっと生きられるかのような思いを抱いていました。
9月23日の朝、突然妻は自宅のベッドの横でけいれんを起こして倒れました。
(つづく)


私の原体験 ⑪ (妻の死)

2010年03月29日 | Yutakaの原体験
 私と妻は、ガンを直すことをあきらめていたわけではありません。
絶対に治る。
いや、絶対に治す、と2人で確信していました。
 妻は、自身で針治療や食事療法といった免疫療法を選択した訳です。
私は万が一のために、ホスピス医である小澤先生と連絡をとりました。
小沢先生は、道徳学会の講演を依頼して以来の、私が信頼している医師です。
 電話をすると、小澤先生はすぐに承諾してくれ、妻は小澤先生の診断を受けました。
小澤先生は、妻の治療方針に沿って援助してくれることを約束してくれました。
 妻は、その日から小澤先生の勤務する横浜甦生病院に外来患者としてかかることになりました。
 妻は初めて小澤先生に会った時以来、心から小澤先生に信頼を置いていました。
私の親友の母親が、当時やはり肺ガンにかかっており、その際使用していた薬を親友が進めてくれました。
その薬はガン細胞への栄養補給を断つことを目的とした薬でした。
 小澤先生に相談すると、すぐに承諾してくれました。
そこで、イレッサと呼ばれるガン治療薬を5月から使用してみることになりました。
服用するために、妻は1ヶ月近く大部屋の病室に入院しました。
 病院は夜8時が見舞の門限でした。
毎日私は見舞いに病院に通いました。
 学校を7時過ぎに出て、夜8時の門限まで毎日病院にいました。
妻は、病室に着く私の顔を見ると、
必ず片手をあげ、ニコッと笑顔を見せてくれました。
 門限の夜8時にやっと着いて、妻の笑顔を見ると、そのまま帰ることもありました。
妻は、1日だけ私が来なかった日があると後に言いました。
その日は、妻が寝込んでいました。
妻の寝顔をずっと眺めて、門限の時間にそっと帰ったが、
その日でした。
「良く寝ていたから帰ったんだよ」、と言うと
妻は、がっかりした表情を浮かべたことを覚えています。
起こしてもらいたかったのでしょう。
きっと、ずっと私を持っている間に
疲れて寝込んでしまったのでしょう。
後から振り返ると、一期一会の日々でした。
私の判断が、間違っていたのかもしれません。
(つづく)

中学生の時期の子育て(yutakaの学級通信:第6話)

2010年03月29日 | 教育談義
 小学生の時期の子育ては、幼児から教えてきた「躾」の最終期に当たると思います。
 躾とは、漢字が表すように「身を美しく整えること」です。
挨拶や態度、目上の人への敬語など、社会生活を送る上で、大切な習慣を身に付けさせる時期です。
 中学生の時期の子育てになると、加えて「自律」や「自立」心の育成へと移っていきます。
自分で自分を律せる力、自分から行動できる力を育てる時期に成長します。
 中学生の時期は、自分の考えが出てくる時期でもあります。
したがって、「いけない」と注意するだけでなく、「なぜいけないのか」という「理由」をしっかり理解させることも大切です。
中学生の時期は、自身で納得できなければ無条件に大人の言うことに、従わなくなる時期でもあります。
 これが「反抗期」と呼ばれる所以です。
子どもに理由を納得させることも大切なのですが、他に重要なことがあります。
それは、注意する側の大人の姿勢です。
「自分を棚にあげて」という姿勢では、子どもは決して納得しないということです。
納得しないばかりか、反発や反抗も生じてきます。
親や教師の姿勢が問われる時期が、「中学生の時期の子育て」なのかもしれません。
しかし、人として完全な親や教師など、どこにもいません。
 重要なのは、「よりよく生きようとする姿勢」があるか、ということではないでしょうか。
 この時期の子どもには、大人の姿勢を見抜く力があります。
偽善が通用しない時期なのでしょう。
「後ろ姿の教育」「親の背中を見て、子は育つ」などと形容される教育作用が、良くも悪くも影響する時期なのでは、ないでしょうか。


近藤マッチーの原体験

2010年03月27日 | 原体験をめぐって
昨晩テレビでマッチーこと近藤真彦さんの特集をやっていました。
彼がレコード大賞を獲得したときのことです。
ステージで受賞の歌を歌っていたとき
なくなった母親が見えたという体験です。

彼の母親は42才という若さで、交通事故で突然なくなりました。
さらに悲劇は、その遺骨が盗まれてしまって、
「受賞辞退しろ」と恐喝されていたことです。
悩みに悩んで、それを押しての苦しい受賞でした。

その母親が、2階席の光の中に現れたのです。
それは錯覚かもしれない、といいながらも、
おかげで苦しい心境を乗り越えることができたようです。

近藤さんの慰めにもなればと思いますが、親の死は不思議なことが起こるようです。
私の母親は76才でなくなりました。
脳梗塞で、駆けつけたときは意識はなく、4日後に息を引き取りました。
1週間か2週間か前、久しぶりに長電話した後でした。
何年も顔をを見せていなく、
「死んでからではなく死ぬ前に帰ってこい」というお小言でした。

葬儀も終わり、帰宅して毎日冥福を祈っていました。
電話の言葉が悔やまれたのです。

49日の日だと思います。神棚に向かっていたときでした。
急に上からふわりと何かが降りてきました。
私はすぐお袋だなと分かりました。
お袋はそのまま私の体にダブるように一緒になってしまいました。
ちょうどピンボケて、ぶれた写真の立体版のようです。

お袋は私と一緒に生きるつもりだな、とつぶやきました。
私はそう思っています。

それ以来、私の悔やみはどこかへ行ってしまったようです。
寂しさもほとんど薄らぎました。


見習い(yutakaの学級通信:第5話)

2010年03月25日 | 教育談義
 「誰もがわかるような教え方」ができて、初めて一流の先生と呼ばれます。
しかし、一流の先生であっても教えられない生徒がいます。
それは、「学ぼうとする意欲」のない生徒です。
 昔の日本には、「見習い」という制度がありました。
「見習い」とは、「見て習う」という意味です。
今の世の中は、手とり足とり懇切丁寧に教えることが良いことだと考えていますが、
「見習い」の世界では、先輩は新入りの人に何一つ教えません。
下働きといって、先輩の仕事のごく一部を手伝わせるだけです。
それでもみごとな日本の匠の技は、みごとに伝承され発展してきたのです。
「先輩の仕事を手伝わせるだけ」という関係は一見すると、とても意地悪な世界のように見えます。
 しかし、「見習い」の人達は先輩に怒られ続けながらも、わずかな時間を惜しんで先輩の技を盗み取っては、先輩の匠の技を身に付けていったのです。
「学ぶ」とは、「まねる」という言葉から由来しているように、まねることから勉強は始まるのです。
ややもすると最近の生徒たちは、「教え方が悪い」と原因を相手に転化をしがちです。
 しかし、自分の力で「分かろうとする思い」や「マスターしようとする思い」、そうした強い意欲をもっていれば、たとえ何一つ教えてくれない先輩であっても、匠の技が習得できることを「見習い制度」が教えているのです。
物事は、「学ぼう」「習得しよう」という強い意欲が湧き起こったときは、どんな悪い環境の中であっても、その願いが成就できるものです。
「意欲」をもつこそが、勉強の第一歩なのです。


私の原体験⑩(妻の死)

2010年03月25日 | Yutakaの原体験
 昨年の暮れから妻は体調不良を訴えていました。
「今年は体のメンテナンスの年」と本人は明るく言っていました。
年明け、胸に赤いシミのような発しんが現れましたが、私は深刻に考えませんでした。
数日すると赤いシミは消えていました。
 2月に入ると首下のリンパ腺が腫れてきました。
この時もカゼだろうと、妻も私も考えていました。
町医者に診てもらうと、「カゼだと思う」ということでしたが念のために組織検査をすることになりました。
 組織は検査機関に送られました。
3月に入り、組織検査の診断が出ました。
「ガン細胞が見つかった」ということでした。
戸塚の共立病院で検査を受けることになりました。
レントゲンでくまなく調べましたが、ガンは見つかりませんでした。
体のどこからガン細胞がリンパ腺に転移したのか、結局病院では分かりませんでした。
神奈川県立ガンセンターで調べることになりました。
3月一杯、いろいろな診療科で何回も検査が続きました。
最初かかった循環器科で見つからなかったガンが、ペットと呼ばれる画像検査で肺に発見され、原発であることが確認された。
担当医は高圧的な態度で、「すぐに入院しなさい。もうこの段階では手術、放射線治療はできません。化学療法をほどこしても、寿命は1年か1年半の命だ」と言われました。
ガンにかかる前から妻は、抗ガン剤治療を嫌っていました。
治療しても、苦しんだあげくに完治しないケースが多いからだと思います。
妻と私は、医者にあきれられながらも、ガンセンターでの治療を拒否しました。
(つづく)

私の原体験 ⑨ (妻の死)

2010年03月24日 | Yutakaの原体験
 ガンセンターの呼吸器科に私たち夫婦は呼ばれました。
妻は以前より、もし私がガンにかかったら、抗ガン剤治療は受けない。
免疫療法で治す、と言っていました。
 担当医の先生は、大変たかびしゃな印象の方でした。
病名は肺がんです。全身に転移していますので抗がん剤治療しかありません。
抗がん剤治療を行っても余命は1年半ぐらいです。
抗がん剤治療を行わなければ3か月か半年でしょう。
すぐに入院して下さい。という話でした。
 妻はお医者さんの話を聞き終わると「私は抗がん剤治療はしません」
「免疫療法で直したいと思います」とはっきり答えました。
お医者さんは、私の治療方針道理にしていただけないのなら、面倒は見れません。
出て行ってください。というお話でした。
 私たち夫婦がそこから退席しようとすると「旦那さん、ちょっと残ってください」といわれ、私だけ残りました。
お医者さんは「あなたたちは何を考えているんだ。旦那さんは、それでいいんですか?ステージ4の状態なんですよ」と言われました。
私は「妻が言う通りにさせてあげたいと思っています。妻が言うのなら私もそれでけっこうです」と答え、二人でガンセンターを後にしました。
 妻は「お医者さんに私の命の長さを決めさせない。私は私の方法でガンを直す」と沈んだ様子もなく、力強く答えてくれました。
 妻はその日からゲルソン療法と呼ばれる食事療法と針治療を平行して実行していました。
妻よりも私の方がドキドキしていたのかもしれません。
私は妻に「私の知っているホスピス医に連絡をとるから、万が一のときはお願いしないか」と話を持ちかけました。妻は同意してくれました。(つづく)

暴力は暴力を生む(yutakaの学級通信:第4話)

2010年03月24日 | 教育談義
第4話 『暴力は暴力を生む』

 子育ては、時として子どもを厳しく叱らなければならない場面があります。
子どもを厳しく叱ることも、時にはとても大切なことです。
 しかし殴られて育てられた子どもは、殴られることを嫌悪しながらも、
暴力をふるう子どもになることが多いように思います。
暴力を、知らず知らずのうちに学習しているからです。
 家庭内暴力や幼児虐待のニュースが時々流れてきます。
幼児虐待や、子どもに暴力をふるう多くの親は、
子どもの頃に同じように親から虐待や暴力を受けていたケースが多いとの研究報告がなされています。
心の深層に知らず知らずのうちに、暴力がすり込まれているからです。
子どもは、親や教師の行動様式を無意識の内に学習します。
 心理学ではモデリングなどと呼びますが、教えてもいない親の行動様式が子どもに伝わる現象です。
子どもは無意識の内に学習しているのです。
「子どもは親の背中を見て育つ」などと言います。
子どもは大人の姿勢を見て学習するのです。
子どもの模範となる姿勢で、親や教師は生活したいものです。

教育談義 「委員だけが評価対象ではない」(yutakaの学級通信)

2010年03月23日 | Yutakaの原体験
第3話
『委員だけが評価対象ではない』

 高校入試に使われる中学校の調査書には、委員会活動や係活動の状況を記入する欄があります。
中学3年生ともなると高校入試を意識するあまり、専門委員選挙で落ちたときなど大きなショックを受けることがあります。
しかし大丈夫です。
 委員になることだけが学校生活の評価対象ではありません。
昔こんな生徒がいました。
 その生徒は毎回意欲的に掃除に取り組みました。
黒板下や棚など汚れている部分のぞうきんがけを進んで行うなど、最後まで陰日向なく一生懸命に取り組みました。
 またこんな生徒もいました。
その生徒は黒板ふき係でした。
毎時間毎時間、授業が終わるたびに黒板をピカピカに拭き続けました。
各教科の先生方が驚きと感心の気持ちを抱いていました。
 これらの生徒が、学校から人間性として高い評価を得たことは言うまでもありません。
これらは委員会活動ではありません。誰もが取り組む係活動なのです。
大切なことは委員になることだけでなく、与えられた仕事に全力で取り組むことです。
大切なことは、ひとつでも良いことを続けることです。
 ある人がこんなことを言っていました。
「私はトイレを入るたびにスルッパをそろえて出ることをやり続けています。
 それは私が死んだとき、閻魔さまにひとつだけですが胸をはって言うためです。」
この人のようにひとつだけで良いです。正しいことをやり続けたいものです。

私の原体験 ⑧ (妻の死)

2010年03月23日 | Yutakaの原体験
 お正月が終わる頃、妻は肩の下あたりのリンパ腺が腫れ、
体調が悪いのは風邪のせいだと思い込んでいました。
近くの町医者に診察に行くと
「風邪だと思いますが念のためにリンパ腺の組織をとって検査に回しましょう」
とお医者さんに言われました。
 1~2週間の後、お医者さんから「検査の結果、
たちの悪い組織が検出されましたので、
戸塚の共立病院に行ってください」と告げられました。
数日後から共立病院での検査が始まりました。
 共立病院から帰って来た夜、妻の病気はただの風邪だと思い込んでいる私に、
「私ガンになっちゃった」と言うやいなや、暗いベッドの中で泣き出しました。
ガンが分かってから、妻が涙を流したのはこれが、最初で最後でした。
 私は頭の中が真っ白の状態で、妻に「大丈夫、僕がいつも横にいるから」
と抱きしめてあげることが精一杯でした。
数日間いろいろ検査をしました。
そして、「ガンに間違いないのですが、どこが原因のガン(原発)なのかわからない」
という説明でした。
「ガンセンターへ言って下さい」ということで、
今度は二俣川の県立ガンセンターへ夫婦で出かけました。
ガンセンターでの検査が始まりました。
循環器科やら内科やら呼吸器科やら、あちこちの部局をたらいまわしにされ、
最終的に「ペット」と呼ばれる検査を受けることになりました。
 ペットとは、薬を投与した後にガン細胞をレントゲンで写すと、
ガン細胞だけが光って見える検査でした。
妻の肺は夜の星々のように、小さな光があちこちに光っていました。
妻の病名は肺がんでした。
それも全身にガンは転移していました。末期がんと呼ばれるものでした。(つづく)

教育談義(yutakaの学級通信)

2010年03月22日 | Yutakaの原体験
第2話
『踏み出す勇気』

学級活動の中で、
専門委員会や修学旅行実行委員等を決めなければならないときがあります。
そんな時、
意欲のある人に、ぜひ立候補してもらいたいものです。
しかし、委員や係の仕事を「やってみたい」と心で思っていても、
立候補するには勇気がいります。
みんなの前で立候補するのは「てれくさい」ものです。
「選ばれなかったら恥ずかしい」「でしゃばりと思われる」等々の思いもあるのではないでしょうか。
意欲はあっても、やはり周りの人に遠慮して立候補しずらいものです。
しかし、新しい一歩を踏み出すことは、新しい自分を創る第一歩でもあります。
新しい自分作りの始まりなのです。
心に秘めている思いを行動に移し、自分の可能性を伸ばしていってください。
たとえ選ばれなくても、たとえ失敗しても、たとえ笑われても、
良いではありませんか。
成功というゴールだけが目的ではありません。
本当の目的は、前に進もうとする姿勢なのです。


私の原体験 ⑦ (妻の死)

2010年03月22日 | Yutakaの原体験
 私の命が終わるとき、自分の人生を振り返って最悪の出来事は、
きっと「妻の死」だったと、確信できます。
 今でも、夢であってほしいと願う記憶ですが、何日たっても現実に打ちのめされてしまいます。
妻と一緒に生活できた25年間は、本当に幸せでした。
妻がいるだけで、私は満足感と安心感がありました。
 ただ、ほんの少し、こんなに幸せすぎて大丈夫だろろうか、という
かすかな不安がいつもありました。
 4人の子どもも成長し、末娘も高校に入学しました。
ようやく子育ての忙しさから、少しずつ手が離れ、家族みんなで休日を過ごす
スタイルから、夫婦だけで休日を過ごす割合が増えてきました。
 当時私は、老後は妻と2人で北海道で余生を送ることを夢見ていました。
1歳下の妻も、50歳に近づく年になり、
老後に備えて、2人で健康を兼ねたハイキングを2人で始めていた時期でもありました。
 土曜日か日曜日、どちらかの半日は夫婦2人で、朝からリュックを背負い
鎌倉や湘南方面を中心にハイキングに出かけていました。
ハイキングの後は、2人で外食のお店を見ながら、気ままな昼食をすませ、
のんびりと帰宅する生活でした。
 2人で日帰りのパックツアーにも、よく出かけました。
独身時代のデートのように、週末は2人で出歩いていました。
お正月に、当時我が家にホームステイしていたロシア人の母子と、私たち夫婦で、
山梨県の善光寺に日帰り初詣ツアーに参加した後、病気ひとつしたことのない
妻が、今年は体のメンテナンスの年にしようと、
言ったことを覚えています。
当時妻は、高校のPTA会長職をしており、心労、ストレスが貯まっていました。
そんなことも相まって、私は何の気にも、留めていませんでした。
しかし、相当具合が悪かったのだと、
後からわかるのです。
(つづく) by yutaka