忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私の原体験 22 (妻の死)

2010年05月20日 | Yutakaの原体験
「困った時には、わらをもつかむ」などと言いますが、
まさにその通りで、私が心の中のさみしさや、悲しみ、
絶望感などを軽くしてくれる所として、
次に見つけ出した所は「日本グリーフケアー」と呼ばれる、
伴侶を失った人を対象としたグループカウンセリングの会でした。

 月に2回程度の割合で会場のある東京に私は通いました。
私の入った会は、10人ほどのグループでした。

 集まっている人は、男女の差はありますが、
すべて伴侶を失った人達です。
 亡くなった当時の様子から、今の心情まで、
色々なことをグループで語り合いました。

 ここで救われたことは、「さみしさや、悲しみ、絶望感などを抱いているのは、
私一人だけではなく、みんなそうなんだ」という思いでした。

 私だけでなく、年齢も性別も関係なく
誰もが伴侶を失うと同じ心の状態になるんだ、という思いでした。

私のいたグループは60代の人が多くいました。
中には70代の人や私のように50代の人もいました。

そこで私がショックを受けたのは、伴侶を失った時が子育ての真っ最中で、
悲しんでいられない忙しさの中で、
いつしか子どもが独立し心に余裕が生まれたときに、
悲しさやさみしさが津波のように襲ってきて、
それでこの会に来たという人の話でした。

分かったことは、何年経っても10年、20年たっても、
一生さみしさや悲しみは消えないということでした。

(つづく)


すぐに嘘をつく子どもは・・・

2010年05月20日 | 教育談義
 悪いことをしたとき、とっさに「嘘をつく子ども」や、
すぐに「言い訳をする子ども」がいます。
 
 こうした子どもは、再び「悪い行為」を繰り返すことでしょう。
なぜなら、悪い点を自分で見つめていないからです。

そして、いつしか「悪い行為」は日常化し、
エスカレートしていくでしょう。

「嘘をついてはいけない」「言い訳をしない」ということの大切さを、
子どもに身につけてさせていかなければなりません。

 しかし同時に、親や教師は「なぜ子どもが嘘をつくのか」
「なぜ子どもが言い訳をするのか」、
ということについても考えなくてはなりません。

 子どもが「悪いこと」をすれば当然怒られます。
しかしそこに、「殴られる」などという暴力や、
子どもの人格をも否定する怒り方などがあったとすれば、
「殴られる」ことや「怒られる」ことへの「嫌悪感」や
「恐怖感」が子どもに強く残っていきます。

こうした暴力や虐待などが日常的に行われていると、
子どもは自分の身を守るために「嘘をついたり」
「言い訳をする」ことを身につけていきます。

 子どもを叱るときには、
育てる視点から温かい心をもって「叱る」ことが大切です。

感情にまかせて「怒る」ことなどは避けなければなりません。

子どもが本来もっている正直さや、まっすぐな心を大切にしながら、
弱い自分の心にうち勝っていける子どもに育てたいものです。


私の原体験 21(妻の死)

2010年05月18日 | Yutakaの原体験
 カウンセラ-に通って良かったことは、
睡眠導入剤を使わなくても眠れるようになったことです。
薬は毎日のように常用すると、常習化します。
それが恐ろしいのです。
薬を使わないと眠れないのではないか、
という不安から明日の仕事のことを考えると、
薬に頼るようになります。
 カウンセラ-は毎日少しずつ薬の量を減らし、
薬に頼ることなく眠れるようになること。
心療内科でうつ剤をもらわなかったことは良かった、
と言われました。
 また、カウンセリングに来室される人は普通相手の悪口ばかりを
言う人が多いようですが、
あなたの場合は相手の良さばかりを言われるので、
大変うれしい患者だとも言われました。

 ただ、さみしさや、悲しさということになると、
その答えは私にとっては救われるような答えではありませんでした。
恋愛した相手がいなくなれば誰でもさみしさや、
悲しさが襲ってきます。
新しい恋をすれば、さみしさや、悲しさは消えていく。
それが、答えでした。
それもそうですが、いまあるさみしさや悲しさを、
どうしたら軽減できるのだろうか。
その答えはわかりませんでした。
(つづく)

競争はいけない?

2010年05月18日 | 教育談義
 学校生活の中にも、たくさんの「競争」があります。
合唱コンクールや体育祭、球技大会などです。
高校入試などは最も大きな競争かもしれません。

「競争」は「争い」ですから、必ず勝ち負けがあります。
勝ち負けという「優劣」をつけることは、
人間を序列化し選別することですから教育上良くないことです。
 したがって「教育活動の中ではいっさい優劣をつけるような競争はしてはいけない」
という考え方もあります。
 例えば、運動会のかけっこで順位をなくした小学校があるそうです。
かけっこの苦手な子どもが劣等感を抱かないための配慮なのでしょう。
では、かけっこで1等をとることを目標に「努力」することは
いけないことなのでしょうか。

 私は「競争」というものは、社会の必要悪だと考えています。
「競争」による優劣の結果を人間の評価として捉えることには大反対ですが、
子どもの能力や良さを伸ばすためであれば、賛成します。
かけっこで1等をとることはすばらしいことです。
 しかし、例えビリでも人間として決して劣っていることではない、
ということです。

大切なことは「目標」をもって「前向き」に生活していることです。
「競争」はどちらが優れているかを調べるためではなく、
共に前向きにがんばるために行われなくてはならないと考えています。



責任を自覚させるかかわり

2010年05月05日 | 教育談義
 子どもたちが大人に向かって、「お母さんのせいだ」
「お父さんのせいだ」「先生のせいだ」などと言うとき、
私達は子どもへのかかわり方を見つめ直す必要があります。
 その原因が本当に大人の側にあるのか、
それとも子どもの問題なのかです。
 子どもに原因がある場合、
この言葉の奥にある子どもの心に問題があります。
「僕のせいではない」という、
自分を見つめる気持ちがないことです。
 遅刻しそうになると決まって
お母さんに文句を言う生徒がいました。
「なぜもっと早く起こしてくれなかったんだ」
と常にお母さんを責めます。
 自分が毎日遅くまで起きていることの反省など、
みじんもありませんでした。
こうした姿勢は中学生の時期までで終わることなく、
高校生になっても大人になっても続くことがあります。
 原因は、
子どものときからの過保護であり過干渉にあります。
親の手助けを、子どもが当たり前と考えているからです。
いつまでも親にとっては子どもは子どもなのですが、
親が手を出しすぎれば、それだけ子どもの自立は遅れ、
依存する心が身についてしまうのです。
大人になるとは、年齢や体格ばかりではなく、
心を成長させなければなりません。
子育てにおいては、勉強ばかりに目を奪われることなく、
心の成長や生活面においても自立できるように育てることが
大切なのではないでしょうか。


私の原体験 ⑳

2010年05月05日 | Yutakaの原体験
 生徒達のお陰で学校にいる自分は、以前の自分の精神状態、
言い換えれば、一生懸命に生きている自分に戻っています。
 しかし、まだまだ家では違います。
用事がない休日や、一人でいるとき、妻を思い出すと、
大きな悲しさや、さみしさが襲ってきます。
妻といた頃の安心感や満ち足りた思い、
外出する時に感じたウキウキする感情が、
今は全くなくなりました。
 常に不満足な、常に不安定な、
常にさみしい感情があるのです。
 休日に家にいることが苦痛になりました。
部活がない休日には、
妻が自宅で教えていたトールペイントを他の教室に習いに行ったり、
妻が習った習字の先生に習字を教わりに行くようになりました。
 この「さみしさ」「悲しさ」をとるためにはどうしたら良いのか、
誰か私を救ってくれる人はいないかを模索していました。
 そこで、まずカウンセリングに行ってみました。
1年間に4回から5回程度カウンセリングに通いました。
カウンセラーは牧師であり大学の先生の肩書きを持つ人でした。
(つづく)