私が無意識の意識へのかかわりを問題にした意図は、noboru氏が論点整理してくださったように、無意識というものが存在し(それは、ここではまだ明確になっていませんが)、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないかということでした。
これに対してnoboru氏は、まず無意識と深く結びついている「日常的な思考」をとりあげます。
「日常的な思考」とは「散漫でとりとめもない無自覚的な思考(雑念)」で、それが「私たちの心理に影響し、性格を形づくり、人生の方向や質を決定する」ものであるというのです。
その上でさらにnoboru 氏は、私たちの人生をも決定するこの重要な要素である「日常的な思考・雑念」に人々が気づいておらず、心理学の対象にすらされていないという学問の現状を深く憂いてもおられます(そしてこの雑念に気づかせてくれる瞑想法があることにもふれられ、それがnoboru氏が実践されているヴィパッサナー瞑想というものであると。私にとってはその瞑想法自体興味深く思っているところでもあります。)
さてこの先議論を進めるに当たって、実は思考という用語の用い方についていま少し留意していただければと思うことがあります。と言いますのは、普通「思考」とは思考の対象(現象)を理念や概念と結びつけ、論理的妥当性を求めて概念体系に組み入れる作業を意味します。この思考によってまさに学問が成立し、研究が進められるわけです。また学問の成果は思考が正常にはたらくどんな人にも共有できるものです。さらにその思考は学問だけでなく講演者やそれを聴く聴衆の一人ひとりにも共通にはたらくものであり、また新聞や雑誌を読んだりする際もその思考がはたらいているからこそ理解できるというわけです。
したがってそのような思考は、個人的な諸感情や思いから離れたところにあり、言わば純粋な思考として鋭くはたらきます。言わばこうした純粋思考によって基本的には誰でもが数学を初め諸学問を学び理解することを可能にしているといえるのです。
そこで、思考をひとまずそのように用いる前提で議論を進めさせていただくと、noboru氏の言われるように、たしかに私たちの日常生活では、「実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていく」という側面があります。それをnoboru氏は「日常的な思考」とネーミングされているのですが、私はこの「日常的な思考」という表現をひとまず「日常的な思い」に替えてみたいのです。その理由として、
・生活の何らかの刺激から連想が繰り広げられたり、
・何か気になることにかかわる漠然とした心配や不安
等を、先に述べた論理的妥当性を求める思考とは区別して、ここではひとまず「~の思い」と表現した方が相応しいように思うからです。
実は先の純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです。noboru氏も述べておられる夢の表す世界にはイメージと感情の流れが飛び交っていて、筋書きのつかめぬ内容が展開されていきます。それはこの夢の中に意識内容をコントロールする自我意識、すなわち「私」がいないからだといいます(R.シュタイナーの人智学より)。
シュタイナーによればこの自我意識(「私」の意識・自己意識)こそが人間の中核に据えられるべき存在であるとされています。人間の意識世界(魂)には三つのはたらきがあって、それは感情、思考、意志のはたらきです。そしてその意識世界を統括しているのが自我、すなわち自己意識、「私」という意識存在だというのです。そして三つのはたらきのうち「私」の意識から見て感情は、半透明的なあり方をしているのでコントロールしきれないのだとシュタイナーは言います。意志も暗い部分を持つとされ、思考のみが「私」にとってそのはたらきの始めから終わりまで見通せるものになっているものである、とこのようにシュタイナーは言っています。こうしたシュタイナーの主張は私の胸に落ちるところがあり、さらなる理解を深めようとしているところです。
そこで私は、そのようなシュタイナーの説を踏まえて、少し飛躍するかもしれませんが、人間の性格(人格)の質を何が決定しているかということについて言及してみようと思います。それは人間の「私」の意識を支えるものは何かということと、肝心の無意識と意識のかかわりに迫る上で欠かせない議論になるように思うからです。
noboru氏は性格(人格)の質を決定するものは半ば無意識的に為される「日常的な思い」であるとされているのですが、たしかにそれが性格形成に影響するとしても、性格の質を決定するとまでいえるかについてはいささか疑問があります。なぜなら性格形成の担い手はまさに「私」(シュタイナー的には自我)であり、「私」が人生の大事な局面に出会うたびに真剣に全力で立ち向かうことになり、そのたび重なりの中でその人の性格の核が形成されるとも言えるからです。
人生における重要局面と言えば、一般的には進路を決める際や結婚、転職や離婚などを挙げることができるかと思います。こうした重大局面では、ことの性質上無自覚でぼんやりとした意識とは逆に、否応なく鮮明な意識において「私」が決断をし、その結果責任を担うことになります。そこでは「私」が、場合によっては苦悩し苦労することにもなるでしょう。あるいはあふれる喜びを体験することになるかもしれません。いずれにしろ、それこそがその人の性格(人格)形成に資する中核的な要素になるのではないかと思うのです。そこでは「日常的な思い・雑念」は性格形成上脇役的立場にあるように思われるのです。
ところが一方で、noboru氏によれば、日常にくりかえされる「雑念」(日常的な思い・脳内会話)が実は無意識と深いかかわりがあるというのです。しかも本人の意識には隠されている「本人が無意識のうちに執着している何か」であるということです。
それが何であるにしろ、そのような本人が意識できないところで蠢くものがあり、それによって「私」が如何ほどにしろ左右されるのであれば、人間の主体性や自由なあり方にかかわる重大事です。
この無意識及び「日常的な思い」についての私の理解は、noboru氏の述べておられる内容とそれている部分があるかもしれません。あるいは無意識との絡みで人間が持つ本能や欲望、あるいはそれ以外の何かがあるのかもしれません。その当たりについてもさらにお話しいただければありがたいです。(takao)
これに対してnoboru氏は、まず無意識と深く結びついている「日常的な思考」をとりあげます。
「日常的な思考」とは「散漫でとりとめもない無自覚的な思考(雑念)」で、それが「私たちの心理に影響し、性格を形づくり、人生の方向や質を決定する」ものであるというのです。
その上でさらにnoboru 氏は、私たちの人生をも決定するこの重要な要素である「日常的な思考・雑念」に人々が気づいておらず、心理学の対象にすらされていないという学問の現状を深く憂いてもおられます(そしてこの雑念に気づかせてくれる瞑想法があることにもふれられ、それがnoboru氏が実践されているヴィパッサナー瞑想というものであると。私にとってはその瞑想法自体興味深く思っているところでもあります。)
さてこの先議論を進めるに当たって、実は思考という用語の用い方についていま少し留意していただければと思うことがあります。と言いますのは、普通「思考」とは思考の対象(現象)を理念や概念と結びつけ、論理的妥当性を求めて概念体系に組み入れる作業を意味します。この思考によってまさに学問が成立し、研究が進められるわけです。また学問の成果は思考が正常にはたらくどんな人にも共有できるものです。さらにその思考は学問だけでなく講演者やそれを聴く聴衆の一人ひとりにも共通にはたらくものであり、また新聞や雑誌を読んだりする際もその思考がはたらいているからこそ理解できるというわけです。
したがってそのような思考は、個人的な諸感情や思いから離れたところにあり、言わば純粋な思考として鋭くはたらきます。言わばこうした純粋思考によって基本的には誰でもが数学を初め諸学問を学び理解することを可能にしているといえるのです。
そこで、思考をひとまずそのように用いる前提で議論を進めさせていただくと、noboru氏の言われるように、たしかに私たちの日常生活では、「実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていく」という側面があります。それをnoboru氏は「日常的な思考」とネーミングされているのですが、私はこの「日常的な思考」という表現をひとまず「日常的な思い」に替えてみたいのです。その理由として、
・生活の何らかの刺激から連想が繰り広げられたり、
・何か気になることにかかわる漠然とした心配や不安
等を、先に述べた論理的妥当性を求める思考とは区別して、ここではひとまず「~の思い」と表現した方が相応しいように思うからです。
実は先の純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです。noboru氏も述べておられる夢の表す世界にはイメージと感情の流れが飛び交っていて、筋書きのつかめぬ内容が展開されていきます。それはこの夢の中に意識内容をコントロールする自我意識、すなわち「私」がいないからだといいます(R.シュタイナーの人智学より)。
シュタイナーによればこの自我意識(「私」の意識・自己意識)こそが人間の中核に据えられるべき存在であるとされています。人間の意識世界(魂)には三つのはたらきがあって、それは感情、思考、意志のはたらきです。そしてその意識世界を統括しているのが自我、すなわち自己意識、「私」という意識存在だというのです。そして三つのはたらきのうち「私」の意識から見て感情は、半透明的なあり方をしているのでコントロールしきれないのだとシュタイナーは言います。意志も暗い部分を持つとされ、思考のみが「私」にとってそのはたらきの始めから終わりまで見通せるものになっているものである、とこのようにシュタイナーは言っています。こうしたシュタイナーの主張は私の胸に落ちるところがあり、さらなる理解を深めようとしているところです。
そこで私は、そのようなシュタイナーの説を踏まえて、少し飛躍するかもしれませんが、人間の性格(人格)の質を何が決定しているかということについて言及してみようと思います。それは人間の「私」の意識を支えるものは何かということと、肝心の無意識と意識のかかわりに迫る上で欠かせない議論になるように思うからです。
noboru氏は性格(人格)の質を決定するものは半ば無意識的に為される「日常的な思い」であるとされているのですが、たしかにそれが性格形成に影響するとしても、性格の質を決定するとまでいえるかについてはいささか疑問があります。なぜなら性格形成の担い手はまさに「私」(シュタイナー的には自我)であり、「私」が人生の大事な局面に出会うたびに真剣に全力で立ち向かうことになり、そのたび重なりの中でその人の性格の核が形成されるとも言えるからです。
人生における重要局面と言えば、一般的には進路を決める際や結婚、転職や離婚などを挙げることができるかと思います。こうした重大局面では、ことの性質上無自覚でぼんやりとした意識とは逆に、否応なく鮮明な意識において「私」が決断をし、その結果責任を担うことになります。そこでは「私」が、場合によっては苦悩し苦労することにもなるでしょう。あるいはあふれる喜びを体験することになるかもしれません。いずれにしろ、それこそがその人の性格(人格)形成に資する中核的な要素になるのではないかと思うのです。そこでは「日常的な思い・雑念」は性格形成上脇役的立場にあるように思われるのです。
ところが一方で、noboru氏によれば、日常にくりかえされる「雑念」(日常的な思い・脳内会話)が実は無意識と深いかかわりがあるというのです。しかも本人の意識には隠されている「本人が無意識のうちに執着している何か」であるということです。
それが何であるにしろ、そのような本人が意識できないところで蠢くものがあり、それによって「私」が如何ほどにしろ左右されるのであれば、人間の主体性や自由なあり方にかかわる重大事です。
この無意識及び「日常的な思い」についての私の理解は、noboru氏の述べておられる内容とそれている部分があるかもしれません。あるいは無意識との絡みで人間が持つ本能や欲望、あるいはそれ以外の何かがあるのかもしれません。その当たりについてもさらにお話しいただければありがたいです。(takao)