忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

性格・人格の質を決定するもの

2012年11月29日 | 無意識の働きをめぐる対話
私が無意識の意識へのかかわりを問題にした意図は、noboru氏が論点整理してくださったように、無意識というものが存在し(それは、ここではまだ明確になっていませんが)、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないかということでした。

これに対してnoboru氏は、まず無意識と深く結びついている「日常的な思考」をとりあげます。
「日常的な思考」とは「散漫でとりとめもない無自覚的な思考(雑念)」で、それが「私たちの心理に影響し、性格を形づくり、人生の方向や質を決定する」ものであるというのです。 
その上でさらにnoboru 氏は、私たちの人生をも決定するこの重要な要素である「日常的な思考・雑念」に人々が気づいておらず、心理学の対象にすらされていないという学問の現状を深く憂いてもおられます(そしてこの雑念に気づかせてくれる瞑想法があることにもふれられ、それがnoboru氏が実践されているヴィパッサナー瞑想というものであると。私にとってはその瞑想法自体興味深く思っているところでもあります。)

さてこの先議論を進めるに当たって、実は思考という用語の用い方についていま少し留意していただければと思うことがあります。と言いますのは、普通「思考」とは思考の対象(現象)を理念や概念と結びつけ、論理的妥当性を求めて概念体系に組み入れる作業を意味します。この思考によってまさに学問が成立し、研究が進められるわけです。また学問の成果は思考が正常にはたらくどんな人にも共有できるものです。さらにその思考は学問だけでなく講演者やそれを聴く聴衆の一人ひとりにも共通にはたらくものであり、また新聞や雑誌を読んだりする際もその思考がはたらいているからこそ理解できるというわけです。
したがってそのような思考は、個人的な諸感情や思いから離れたところにあり、言わば純粋な思考として鋭くはたらきます。言わばこうした純粋思考によって基本的には誰でもが数学を初め諸学問を学び理解することを可能にしているといえるのです。

そこで、思考をひとまずそのように用いる前提で議論を進めさせていただくと、noboru氏の言われるように、たしかに私たちの日常生活では、「実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていく」という側面があります。それをnoboru氏は「日常的な思考」とネーミングされているのですが、私はこの「日常的な思考」という表現をひとまず「日常的な思い」に替えてみたいのです。その理由として、
・生活の何らかの刺激から連想が繰り広げられたり、
・何か気になることにかかわる漠然とした心配や不安
等を、先に述べた論理的妥当性を求める思考とは区別して、ここではひとまず「~の思い」と表現した方が相応しいように思うからです。

実は先の純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです。noboru氏も述べておられる夢の表す世界にはイメージと感情の流れが飛び交っていて、筋書きのつかめぬ内容が展開されていきます。それはこの夢の中に意識内容をコントロールする自我意識、すなわち「私」がいないからだといいます(R.シュタイナーの人智学より)。

シュタイナーによればこの自我意識(「私」の意識・自己意識)こそが人間の中核に据えられるべき存在であるとされています。人間の意識世界(魂)には三つのはたらきがあって、それは感情、思考、意志のはたらきです。そしてその意識世界を統括しているのが自我、すなわち自己意識、「私」という意識存在だというのです。そして三つのはたらきのうち「私」の意識から見て感情は、半透明的なあり方をしているのでコントロールしきれないのだとシュタイナーは言います。意志も暗い部分を持つとされ、思考のみが「私」にとってそのはたらきの始めから終わりまで見通せるものになっているものである、とこのようにシュタイナーは言っています。こうしたシュタイナーの主張は私の胸に落ちるところがあり、さらなる理解を深めようとしているところです。

そこで私は、そのようなシュタイナーの説を踏まえて、少し飛躍するかもしれませんが、人間の性格(人格)の質を何が決定しているかということについて言及してみようと思います。それは人間の「私」の意識を支えるものは何かということと、肝心の無意識と意識のかかわりに迫る上で欠かせない議論になるように思うからです。

noboru氏は性格(人格)の質を決定するものは半ば無意識的に為される「日常的な思い」であるとされているのですが、たしかにそれが性格形成に影響するとしても、性格の質を決定するとまでいえるかについてはいささか疑問があります。なぜなら性格形成の担い手はまさに「私」(シュタイナー的には自我)であり、「私」が人生の大事な局面に出会うたびに真剣に全力で立ち向かうことになり、そのたび重なりの中でその人の性格の核が形成されるとも言えるからです。

人生における重要局面と言えば、一般的には進路を決める際や結婚、転職や離婚などを挙げることができるかと思います。こうした重大局面では、ことの性質上無自覚でぼんやりとした意識とは逆に、否応なく鮮明な意識において「私」が決断をし、その結果責任を担うことになります。そこでは「私」が、場合によっては苦悩し苦労することにもなるでしょう。あるいはあふれる喜びを体験することになるかもしれません。いずれにしろ、それこそがその人の性格(人格)形成に資する中核的な要素になるのではないかと思うのです。そこでは「日常的な思い・雑念」は性格形成上脇役的立場にあるように思われるのです。

ところが一方で、noboru氏によれば、日常にくりかえされる「雑念」(日常的な思い・脳内会話)が実は無意識と深いかかわりがあるというのです。しかも本人の意識には隠されている「本人が無意識のうちに執着している何か」であるということです。
それが何であるにしろ、そのような本人が意識できないところで蠢くものがあり、それによって「私」が如何ほどにしろ左右されるのであれば、人間の主体性や自由なあり方にかかわる重大事です。

この無意識及び「日常的な思い」についての私の理解は、noboru氏の述べておられる内容とそれている部分があるかもしれません。あるいは無意識との絡みで人間が持つ本能や欲望、あるいはそれ以外の何かがあるのかもしれません。その当たりについてもさらにお話しいただければありがたいです。(takao)

二つ目の盲点

2012年11月26日 | 無意識の働きをめぐる対話
あまり長くなってしまうのは対話としてふさわしくないし、内容的にも区切りがいいので、私からの発言はとりあえず今回で一区切りとします。

日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味がある書きました。一つは、まさに私たち自身が、自分の脳内独語に充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということでした。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちのあり方を規定し、人格の質を決定しているということです。無意識の思考がエゴを形づくり、強化している。日常的な思考に無自覚に埋没し、それに固執しているのが私たちのエゴの実態ではないでしょうか。半ば無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を、迷いの世界を形づくっているのです。

さて、盲点の二つ目の意味は、学問的なものです。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する現代の学問分野がないのです。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずです。思考心理学というのはあるでしょう。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではないようです。

なぜ、それを研究する学問分野がないのでしょうか。まさに盲点だからなのですが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからでしょう。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてきますが、瞑想などをしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないでしょう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもないのです。

このようなことをかつて別ブログで語ったとき、いくつかのコメントを頂きました。たとえば、初期仏教が日常的な思考を詳しく研究し、これらを「浄心所25種、不善心所14種、同他心所13種に分類している」ということです。もちろん仏教は、「迷いから悟りへ」を目指す以上、迷いの世界の分析にも並々ならぬ情熱を注いできました。ただ問題は、現代心理学が現代の研究成果を参照しながら、私たちの意識の大部分を占めている「日常的な思考」のあり方を、なぜ研究対象としないか、ということなのです。

また、認知行動療法やポジティブ心理学は「日常的な思考」を扱っているのではないかというコメントも頂きました。しかしこれらは、全体として常態での「日常的な思考」を対象とするのではなく、特定の症状の治療や特定の目的という限られた視点から取り扱っているに過ぎないのではないでしょうか。これらを何らかの形で参考にしていくことは、もちろん大切でしょうが。

ということで、私たちの日常的な意識の中心をなす脳内独語を、無意識との関係で追求したいというのが私の関心です。このような視点から意識と無意識の関係に迫ることは、Takao氏の問題意識と交差する面がたぶんにあると思うのですが、いかがでしょうか。

いきなりだいぶ長くなってしまいました。とりあえずここで一段落とさせていただきます。(Noboru)

盲点としての「日常的な思考」

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
「日常的な思考」そのものを研究の対象とする現代心理学の分野はないのではないかと書きましたが、もちろん現代心理学に思考を扱う分野(「思考の心理学」)はあるようです。たとえば、思考についてその論理性を追求する方向から研究することもあるでしょうし、あるいは、思考と言語の関係を考察する研究もあるでしょう。

しかし、日常生活の中で毎日、一瞬一瞬繰り広げられていく日常的な思考を、それがどのような性質をもち、どのように展開する傾向があり、性格傾向や心理的な問題とどのように関係するか、無意識領域とはどのように関係するかなど、その全体的な性格を体系的に研究しようとする現代心理の分野を私は知りません。もしご存知の方があればぜひ教えてください。

私は、先にも書いたようにヴィパッサナー瞑想を少し行い、日常生活の中でも、自分の知覚や思考につねに気づき続けるという「サティ」の訓練をしています。そうした訓練をしていると、ほとんど無自覚に(客観視や対象化されずに)無限に繰り返されていく思考に、自分が縛り付けられているという感じを持つことが多いのです。それで、日常的な思考とはどのような思考なのか、客観的にその構造を明らかにしていきたいという想いがありました。

しかし、現代心理学の中にそのような分野を発見できません。結局、まずは自己観察から出発するほかありませんでした。自己観察は、そのままヴィパッサナー瞑想の修行にはなるのですが、その自己観察の結果を、日常思考のプロセスや構造として概念的に対象化し、構造として記述していくなら、それはひとつの研究分野になるだろうと思うのです。

さて、日常くりかえしくりかえし行っている思考(雑念、脳内のおしゃべり)は、私たちにとって二重の盲点となっていると思います。

私たちは、日常たえず脳内おしゃべりを続けながら、その事実およびおしゃべりの内容にほとんど無自覚です。それが第一の盲点です。

たえず脳内の独り言を続けているという事実そのものに無自覚である場合もあるのですが、たとえその事実に気づいても、その内容についてはほとんど無自覚である場合が多いようです。「そんなはずはない」と思うなら、数分前、いや一分前に自分が考えていたことを思い出してみるとよくわかります。ほとんど忘れている場合が多いのではないでしょうか。

なぜ無自覚の脳内おしゃべりが問題となるのか。それがほとんど受動的に続けられていく習慣性の思考だからです。同じようなことをくりかえしくりかえし考えながら、そのくりかえしに気づいていない。そして何回もくりかえされる脳内おしゃべりにこそ、本人が無意識のうちに執着している何かが隠されているのです。

私たちの日常的な思考、脳内おしゃべりは、なかば夢に似ていると思います。多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していくのです。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。

脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるでしょう。よくあるパターンをひとつあげてみます。

(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出のこと→(3)その思い出にかかわる人物のこと→(4)人物にかかわる別の思い出①→(5)①にかかわる別の思いで②‥‥‥

こんな風に思考が展開していったとしましょう。きっかけはクラクションの音ですがが、そこからなぜ思い出が連想されたのかは、多くの場合、無自覚でしょう。思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれませんが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースでしょう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのです。(3)の人物Xについても同じことが言えます。人物YやZが連想されても不思議ではありませんが、なぜXだったのか。これも無自覚のうちの連想です。

このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めているのです。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ていると言えましょう。

夢と日常的な思考は、似ていない部分もあります。夢はイメージ中心に展開しますが、脳内おしゃべりは、言葉によります。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるでしょう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となります。

結局は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということです。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことです。(Noboru)

「日常的な思考」からの出発

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
さっそく「日常的な思考」と無意識の問題に入っていきたいと思います。私は、瞑想(上座部仏教に受け継がれるヴィパッサナー瞑想)を少し行っているのですが、その関係で気づいたことがあります。

座禅・瞑想などを行っていると誰もが痛烈に感じることと思いますが、何かに集中しようとしても次々に雑念が湧いてきてなかなか集中できないのです。「無」とか「無心」とか言葉でいうのはかんたんですが、実際はそうかんたんではないことがつくづく分かります。

ところで、この「雑念」ですが、何も瞑想中に限らず日常生活のなかでは、実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていきます。そういうとりとめもない思考が、間断なく続いていくのが、私たちの日常的な意識の現実でしょう。まず、私達が日常そういう思考にとらわれていということに気づくことが大切です。

もちろんある特定の目的のために系統的に思考をすることもあるでしょうが、大部分は、その場でたまたま知覚した場面や音からの連想、そこからさらに連想、また別の刺激が入って来て、またそこから連想‥‥などと繰り返しているのです。あるいは、何か気になることについて、同じような思考を何度も反芻したりしています。

時には、自分は誰かにこう思われているのではないか、などという思考が、現実から遊離して妄想となり、悩みや苦しみの原因になったりします。

こういう日常的な思考の集積が、私たちの心理に影響を与え、性格を形づくり、人生の方向や質を決定していきます。

ということは、日常的な思考は、私たちの心についての学問、すわなち心理学にとって重要な要素をなし、あるいは中核的な分野をなすといってもよいはずなのです。しかし、私の知る限り、日常的な思考(散漫でとりとめもない無自覚的な思考)そのものを研究の対象とする現代心理学の分野はないようです。

しかし、私たちの日常的な思考の集積が私たちの性格や人格、生き方すら決定しているのであれば、これほど重要な研究テーマはないのです。しかも日常的な思考は、無意識と深く結びついています。どのように結びつくかについては、これから徐々に明らかにしていくつもりです。ということで、何回かにわたり私の見方を述べていくつもりですので、よろしくお願いします。(Noboru)

問題提起を受けて

2012年11月25日 | 無意識の働きをめぐる対話
興味深い問題提起、ありがとうございます。このような形で問題提起をいただいて、対話を繰り返していくことは、人間の心の在り方について理解を深めるためにも意義深いと思います。お互い自分のペースで無理をせず、ゆっくり取り組んでいければと思います。よろしくお願いします。

まず、提起していただいた問題を整理すると、三つになると思いますが、いかがでしょうか。

1)無意識とはどのようなものか。

2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

Takao氏の問題提起の根本は、3)にあると思いますが、この問題を考える上では、1)と2)について共通の認識がないと、議論の前提が曖昧になり、かみあった対話ができないということだと思います。私もそう思います。

そこでまず、1)から始めることになると思いますが、1)は2)と絡み合っていて明確に区別しにくく、両方にまたがった対話になるかもしれません。

周知のように無意識の研究としては、すでに膨大な蓄積があります。西洋ではフロイト、ユングによって本格化し、それに続き、精神分析の多くの流派が生まれ、心理学、精神医学の分野での研究も進んでいます。東洋では、大乗仏教の唯識派がすでに4世紀から、深い瞑想体験から得られた知見をもとにして、これもまた膨大な体系を築きあげています。

私には、それらを逐一解説する能力はないし、ここでそれをすることにあまり意味はないと思います。それぞれについて優れた入門書や解説書があるので、必要に応じて参照していただければと思います。

私は最近、「日常的な思考」と無意識の関係という問題に少し興味がありますので、まずはその観点から私なりに無意識の存在を探ってみたいと思います。その上でTakao氏や他のお二人から、いろいろご意見をいただければと思います。(Noboru)

無意識の意識へのかかわりについて

2012年11月23日 | 無意識の働きをめぐる対話
前回の研究会で、ある話題から無意識について若干の議論が交わされたのですが、そのときは何気なく聞いていたのに、あとでとても気になり出したものですから、そのことを問題にしてみます。

それは、われわれの意識的な思考や判断、あるいはそれにもとづく行動の背後に、無意識が絡んでいるという問題です。無意識という意識的人間にとって不透明なものの絡む度合いがどの程度かはわからないとしても、そもそもその程度如何にかかわらず、無意識が私たちの意識における思考や判断にかかわるとすると、私たちは真の意味での主体性を確保できず、物事を主体的に考え判断することはできていないことになります。もしそうならば自分の考えや決断、あるいは行為には責任がとれないことにもなります。

それは論理的には、実生活上での法律上の問題をも含む幅広い深刻な問題を生じさせることになるはずです。

角度を変えて言えば、そのことは人間がほんとうの意味の自由を持ちえないということにもなります。
人間が本質的な意味で自由な存在でないとすると、道徳は成立せず、道徳教育も考えられないことになり、事柄は深刻です。

人間が自由でありうるかという問題は人間の本質にかかわり、道徳教育の成立基盤にかかわる問題です。この意味から無意識と意識の関わりの問題は道徳教育の研究を進める上でも抜き差しならない問題と言えます。

そこで、私たちはそうした観点から無意識というものにあらためて迫ってみてはどうかと思うのです。

さて、この問題をわれわれの間で本格的に議論しようとするとき、まず無意識なるものがどのようなものであるかの共通認識に立つ必要があります。

そこで、無意識とは何かについて、こうした問題に造詣の深いNoboru氏の方からお話しいただくことからスタートしたいと思うのですが、如何でしょうか。よろしくお願いします。(takao)

成長という生涯の課題3

2012年11月18日 | 私が頑張ったこと、時
成長という課題のために私が取り組んだ主なものは、心理療法と瞑想だ。

20代の後半にロジャーズ派のカウンセリング理論に出会い、自分が追い求めているものがここにあると、強い共感を覚えた。クライエントの成長とカウンセラーの成長とが、同じ自己理論、自己受容の理論で語られていた。患者の自己受容が充分でないと周囲の人々や社会環境をバイアスをかけて見てしまい、社会の中で生きずらい。カウンセラーは自己受容が深まるほど、そういう患者のあるがままを受容して聴ける。クライエントもカウンセラーも成長という方向性は同じなのだ。

30代前半までの数年間、多くのワークショップに参加してカウンセリングやそれ以外の心理療法を学んだ。その体験は、高校での教育相談の仕事でも生かし、深めていくことができた。

一方、心理療法に関心をもったころから、その成長理論が仏教でいう「悟り」と一直線上でつながっていることに気づき、仏教への関心も深めていった。仏教でいう座禅、一般的には瞑想が、魂の成長にとって大切な要素であることは知っていたが、本格的な実践はしていなかった。50代の前半になって原始仏教の流れをくむ上座仏教のヴィパッサナー瞑想を知り、その方法論が心理療法と深く共通するという事実に感動した。それ以来5年ほどの間に、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿に7回ほど参加し、日々の生活の中でもかなり集中的に修行をしていた時期があった。

その頃の日々の修行や気づきは、ブログ『瞑想と精神世界』に詳細に書き綴っている。また、瞑想合宿の報告は以下のサイトにまとめてある。

瞑想世界の旅

7回目の合宿中に軽い脳梗塞で倒れ入院したのをきっかけに、それ以後は合宿に参加していない。日常生活の中での修行も以前ほど熱心ではなくなった。しかし瞑想合宿はきわめて中身の濃いもので、参加するごとに大きな気づきや成長があった。成長とは、ある意味で自分の無意識との出会いである。抑圧していた自分の影の部分にどれだけ出会えるかに成長、すなわち自己受容がかかっている。自己受容とは、受け入れがたかった自分の無意識を受け入れていくことだともいえる。ヴィパッサナー瞑想は、抑圧していた自分の無意識への気づきを促す、きわめてシステマティックな優れた方法である。

7回の瞑想合宿の中で体験したことの一部でも紹介できればと、久しぶりに読み返してみた。しかし前後の流れが分からないと、一部だけ取り出して紹介するのは難しいと感じた。一つだけヴィパッサナー瞑想の専門用語なしで語った気づきの部分があるので紹介しておく。合宿の最終日に近い夜中に目覚めた時の体験だ。

「9日目の夜中、午前2時過ぎだったろうか、あるいは3時に近かったかもしれない。足の先が寒くて目覚めた。毛布からはみ出していたらしい。目覚めてとくに何を考えていたという記憶はない。急に何かがこみ上げて来たことだけを覚えている。

『これまでずっとたった一人で苦しんできたんだな』と思った。一瞬、これまでに経験したことのない底冷えるような孤独と辛さを感じた。そして一度だけ嗚咽した。すると体がじわーと弛み、楽になった。ふわーっと溶けていくような感覚だった。気がつくと涙が頬を伝わっていた。何かしら抑圧が解けたという感覚があった。無明の凍りがひとつ溶けた。そのうれしさが弛んだ体に広がっていた。

すでに触れたが、若き日に友人に攻撃されて深く傷ついた。それに関連した別の記憶や、それらに共通した自分の根深い劣等感が見えはじめていたことも触れた。その抑圧の凍りが、ふいに目覚めた夜中の布団のなかで溶解したようだった。」(「天女(2)」

こうした抑圧からの解放という体験が、合宿中、瞑想中に何度か体験されることが多く、それによって自己受容が進んでいく。私自身、読み返してなつかしく、また本格的に瞑想を再開したいという思いが強くなった。(Noboru)

成長という生涯の課題2

2012年11月18日 | 私が頑張ったこと、時
今年8月17日に父が亡くなった。89歳であった。亡くなるまでのほぼ一か月、家族全員で父の介護をした。その間、訪問看護師、往診の医師や看護師、訪問入浴のスタッフの方々にとてもお世話になった。なかでも訪問看護師の方には、ほぼ毎日の訪問で、父の体を拭いたりおむつを交換したりなども含めずいぶんとお世話になった。

彼女は訪問看護師として300人もの末期患者を看取ってきた。その経験の中で人間としても、訪問看護師としても大きく成長したという。その彼女にとっての「成長」は、私が生涯の課題とする「成長」の意味と深く重なりあうものであった。

高齢の患者に対するときに、まずしなければならないのは患者が何を訴えようとしているのかを一心に聴き取ることだ。そのとき自分の側に何らかの思い込みや囚われがあると、患者の訴えを正しく受け取れない。自分へのこだわりから限りなく自由になって聞こうとしないと、患者の本当の声が聞こえてこない。

患者ばかりではない。訪問看護は、介護で疲れたり悩んだりしている家族の訴えを聴くのも大切な仕事だという。そんなときも自分のなかに何らかのわだかまりがあると、話を誤解してしまったり、感情的にもつれてしまったりすることがある。彼女も患者と家族、あるいは介護する家族間のトラブルに巻き込まれたりして辛い思いをしたことも少なくなかったようだ。

そんな経験を重ねる中で彼女は、自分の心が次第にピュアになっていくのを感じたという。自分へのこだわりや囚われから自由に患者や家族に接することができるようになった。そうすると、患者や家族の言葉に腹を立てることもほとんどなくなり、仕事が苦痛というよりは、自分をさらに成長させる貴重な体験、そのような意味で大きな喜びへと変わっていったという。

実際、私自身が彼女と接して感じたのは、彼女の前では何も警戒する必要がなく無防備で安心して語ることができるということだった。ふつう私たちは、よほど親しい家族や親友でもないかぎり、人と接するときどこかで警戒したり防衛したりしている。彼女の前では、初対面のときからそれをほとんど感じなかった。自分があるがまま受容されているという安心感があった。

これは、私が求める精神的な成長のひとつの具体的な姿であろう。おそらく彼女は「私」への囚われから限りなく自由に人を受けいれることができるようになったのだろう。それは同時に「私」という自己イメージによる壁を作らずに真実の自分を受け入れることと、表裏一体なのだろう。そのような受容性の増大こそ、私がこれまで追い求めてきたことなのだ。(Noboru)

成長という生涯の課題1

2012年11月18日 | 私が頑張ったこと、時
前回の原体験の会(11月10日実施)で「自分の人生で頑張ったこと、時」というテーマで各自かんたんにまとめたものを持ち寄って話した。私も頑張ったことはいろいろあるが、とくにこれを書きたいというものがなかった。少し視点はずれるが、「これまでの人生で一貫して求めてきたこと」ということでなら書いてみたいと思った。以下は、そのまとめである。

ある時に集中的に「頑張った」というわけではないが、私が生涯の課題としてきたことがある。それを一言でいうなら「心の成長」、「魂の目覚め」ということになるだろう。振返ると確かにそれをずっと追い求めていた。満足な成果を得られたとはとても思えない。ほんのわずかしか成長していない思う。むしろ残されたこれからの時間でどれだけ飛躍できるかという期待の方が大きい。

精神的な「成長」といっても、この言葉から何を思い浮かべるかは人それぞれだろう。私自身は、かなりはっきりした意味で理解している。一言でいえば、自己と他者とをどれだけ受容できるようになったかだ。通常私たちは、自分をあまり受容できていないのだが、それに気づいていない。いわゆる無意識の世界とは、自分で受容できずに意識から排除してしまった自分だともいえる。自分の嫌な部分、見たくない部分をどれだけ受容できるかに、精神の成長がかかっている。可能な限り自己が受容され尽くされたとき、それが「魂の目覚め」のときだともいえる。

他者受容は、自己受容と表裏一体だ。自分を受容できていないと、それだけ他者を受容することもできない。一般的にいって人は、自分と同じような嫌な部分を持っている人を激しく嫌う。自分に隠しておきたい嫌な部分を他人の中に見てしまうから、自己嫌悪を相手に投影してしまうのだ。私は若いころ「カッコつけるやつ」が大嫌いだった。それだけ自分がイイカッコシーで、無意識にそういう自分を嫌っていたからだ。今は、カッコつける人を見ても微笑ましいくらいなのは、そうした自分については少なくとも受容できたからだろう。人は、自分を受容できる程度にしか他者を受容することもできない。受容とは自分のあるがままを愛することだともいえる。だから人は、自分を愛する程度にしか他者を愛することもできない。成長とは、自分の一切をどれだけ受け入れ、愛しうるかにかかっている。(Noboru)