忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私の原体験 ㉓(妻の死)

2012年07月23日 | Yutakaの原体験
 妻が亡くなってからようやく、2年が過ぎました。
物事を忘れることは、いけないことのように考えていましたが、忘れることも大切なんだと感じています。
 どんなにつらいことが起きても、忘れることで救われることもあります。
記憶が、ゆるやかに溶けていくことが時には必要なことだと思えています。
 同じように、さみしさや悲しみという感情がいけないことのように考え、消そう消そうと今まで努めていましたが、けっして悪い感情ではないように考えるようになりました。
大切な人が亡くなったのですから、さみしくて悲しいことは当たり前の感情であって、けっして悪い感情ではないと考えるようになりました。
このさみしさや、悲しみを心の片隅に置きながら、さみしさ、かなしさと寄り添って生きていくことが大切なんだ、と考えるようになりました。
 毎日毎日妻の部屋で線香を上げ、手を合わせながら妻に語りかけています。
すると、妻が何を言っているのかが伝わってきます。
私の心の中に語りかけてくれる妻は、いつでも今までのように、私を励ましてくれています。
 不思議に、毎日見ている妻の写真が、時には微笑んでくれていたり、泣いてくれている時もあるのです。
妻は肉体が無くなってしまいましたので、姿を見ることや肉声を聞くことが出来ません。そのことがさみしく、悲しく、つらく思うのですが、大きな空を見つめるとき、ふと見あげる新緑の木々や小鳥たちのさえずりを聞いているとき、妻が見守ってくれている感じが体に伝わってきます。
 死んでも、無にはならないということが、感じられるようになりました。

私の原体験 22 (妻の死)

2010年05月20日 | Yutakaの原体験
「困った時には、わらをもつかむ」などと言いますが、
まさにその通りで、私が心の中のさみしさや、悲しみ、
絶望感などを軽くしてくれる所として、
次に見つけ出した所は「日本グリーフケアー」と呼ばれる、
伴侶を失った人を対象としたグループカウンセリングの会でした。

 月に2回程度の割合で会場のある東京に私は通いました。
私の入った会は、10人ほどのグループでした。

 集まっている人は、男女の差はありますが、
すべて伴侶を失った人達です。
 亡くなった当時の様子から、今の心情まで、
色々なことをグループで語り合いました。

 ここで救われたことは、「さみしさや、悲しみ、絶望感などを抱いているのは、
私一人だけではなく、みんなそうなんだ」という思いでした。

 私だけでなく、年齢も性別も関係なく
誰もが伴侶を失うと同じ心の状態になるんだ、という思いでした。

私のいたグループは60代の人が多くいました。
中には70代の人や私のように50代の人もいました。

そこで私がショックを受けたのは、伴侶を失った時が子育ての真っ最中で、
悲しんでいられない忙しさの中で、
いつしか子どもが独立し心に余裕が生まれたときに、
悲しさやさみしさが津波のように襲ってきて、
それでこの会に来たという人の話でした。

分かったことは、何年経っても10年、20年たっても、
一生さみしさや悲しみは消えないということでした。

(つづく)


私の原体験 21(妻の死)

2010年05月18日 | Yutakaの原体験
 カウンセラ-に通って良かったことは、
睡眠導入剤を使わなくても眠れるようになったことです。
薬は毎日のように常用すると、常習化します。
それが恐ろしいのです。
薬を使わないと眠れないのではないか、
という不安から明日の仕事のことを考えると、
薬に頼るようになります。
 カウンセラ-は毎日少しずつ薬の量を減らし、
薬に頼ることなく眠れるようになること。
心療内科でうつ剤をもらわなかったことは良かった、
と言われました。
 また、カウンセリングに来室される人は普通相手の悪口ばかりを
言う人が多いようですが、
あなたの場合は相手の良さばかりを言われるので、
大変うれしい患者だとも言われました。

 ただ、さみしさや、悲しさということになると、
その答えは私にとっては救われるような答えではありませんでした。
恋愛した相手がいなくなれば誰でもさみしさや、
悲しさが襲ってきます。
新しい恋をすれば、さみしさや、悲しさは消えていく。
それが、答えでした。
それもそうですが、いまあるさみしさや悲しさを、
どうしたら軽減できるのだろうか。
その答えはわかりませんでした。
(つづく)

私の原体験 ⑳

2010年05月05日 | Yutakaの原体験
 生徒達のお陰で学校にいる自分は、以前の自分の精神状態、
言い換えれば、一生懸命に生きている自分に戻っています。
 しかし、まだまだ家では違います。
用事がない休日や、一人でいるとき、妻を思い出すと、
大きな悲しさや、さみしさが襲ってきます。
妻といた頃の安心感や満ち足りた思い、
外出する時に感じたウキウキする感情が、
今は全くなくなりました。
 常に不満足な、常に不安定な、
常にさみしい感情があるのです。
 休日に家にいることが苦痛になりました。
部活がない休日には、
妻が自宅で教えていたトールペイントを他の教室に習いに行ったり、
妻が習った習字の先生に習字を教わりに行くようになりました。
 この「さみしさ」「悲しさ」をとるためにはどうしたら良いのか、
誰か私を救ってくれる人はいないかを模索していました。
 そこで、まずカウンセリングに行ってみました。
1年間に4回から5回程度カウンセリングに通いました。
カウンセラーは牧師であり大学の先生の肩書きを持つ人でした。
(つづく)


私の原体験 ⑲ (妻の死)

2010年04月29日 | Yutakaの原体験
 学校にいる間、生徒と接している間は、
以前の元気がよみがえっていました。
 それは生徒たちのお陰かもしれません。
学校現場では、色々なことが起きます。
楽しみも、苦しみも、喜びも、悲しみも含めいろいろなことが起きます。
感動もあります。
 教職という仕事を選んで良かったと思います。
私の天職なのかもしれません。
 妻の葬式を終え、12月の頭に復帰すると
当時3年生の私のクラスの生徒が私を体育館で呼んでいました。
 体育館に行ってみると、誰もいません。
私が体育館の真ん中あたりまで歩きながらさしかかると、
突然舞台のどんちょうが上がりステージのひな壇の上には、
クラスの生徒がならんでいました。
「文化祭で先生に合唱を聞いてもらえなかったから」と、
私のためにクラス全員で合唱曲を一生懸命に歌ってくれました。
 私は終始、涙が止めどもなくこぼれました。
合唱が終わると生徒達は私の言葉を待っていました。
「姿はありませんが、私の横にいる妻と一緒にみんなの歌を聴かせてもらいました。
本当にありがとう。」と答えたことを覚えています。
 その生徒たちも卒業し、新しい新入生を迎え、
今年は3年生の担任をしています。
 あれから3年が経とうとしています。
(つづく)



私の原体験 ⑱

2010年04月18日 | Yutakaの原体験
 我が家に家計の問題と共に、家事の問題もふりかかってきました。
私は子どもの頃から、料理・洗濯・食器洗いなど
全くやったことがありませんでした。
 ご飯の炊き方から、洗濯機の使い方まで何も知りませんでした。
妻の死後、まず子どもたちと家事の分担をして滑り出したのですが、
毎日がイライラの連続でした。
 食器洗いがしていなかったり、掃除がしていなかったり。
おまけに室内犬の犬がオシッコやうんちをしていたり、
大事なものをかじっていたり。
 子どもや犬を怒鳴ったり、
イライラしている日が続くようになりました。
家計は余裕が無くとも、なんとか生活をしているのですが、
家事の方はイライラの連続でした。
 良いことと言えば、職場の女性とのコミュニケーションが
密になったことです。
 理由は、料理の作り方から食材の買い方、
保存の仕方など、知らないことばかりでしたので、
いちいち教えてもらっていたからです。
 子どもを怒りながらも、ある時私は決心をしました。
「私が家事全部をやろう。私が家事全部をやるのだ、
 と思えば子どもたちがやらなくとも腹は立たない。
 手伝ってくれれば感謝できる。」
その日から毎朝4時半に起きて、掃除機をかけ、
洗濯ものを乾燥機で乾かし、乾いた洗濯物をはかごに入れ、
お弁当を作り、犬の散歩をし(仏壇のお供えも)、
朝食の準備をする日々が始まりました。
 女性の先生から学んだ家事の鉄則、どんなに疲れ夜遅くに帰宅しても、
その日のうちに翌朝のご飯を炊くこと、
洗濯機を回すことを併せて実行していきました。
 それ以後、体は疲れますが、イライラも少しずつ無くなり、
子どもや犬に怒らなくなっていきました。
 子どもに頼る、私の心のずるさに気づいたのかもしれません。
妻が生きていた頃も、こうしたずるさがあったことを思い出しました。
 妻に「これをやっておいてくれない」と優しく頼んでいるようで、
やっていてくれないと妻に腹を立てている自分がそこにいました。
 忙しいからと、周りの人に頼る性格を、
改めて思い知らされたのでした。
 今から思うと、妻にお願いと言うより、
実質的には命令していた自分が情けなく思いました。
 男は仕事だ、とうぬぼれていた以前の私のから、
家事と仕事の両立の生活が始まりました。
 両立といえば格好良いのですが、
職場で夜8時を過ぎるとスーパーで食材が買えなくなることが頭をよぎり、
仕事が中途半端でもスーパーへ向かう今の自分、
今日の料理は何にしようかと職場で考えている自分、
弁当のおかずはどうするか、そんなことを考えている自分、
新しい自分が始まったのです。
(つづく)


私の原体験 ⑰ (妻の死)

2010年04月16日 | Yutakaの原体験
 妻がいなくなると、妻の役割が否応なしに家族に降りかかってきました。
すぐにやらなければならないことは、妻の通帳やら、妻の関係した取引先の整理でした。
 平日業務の私にとって、休日休みの役所や銀行との手続きが終わるまでに半年近くがかかりました。
 妻の収入分の家計の減少や妻の治療代、葬式にかかったお金の整理などなど、妻のいなくなった後の家計の見直しを始めました。
 長男のアドバイスを受けながら、スカイパーフェクトTVをはじめダスキン、有線放送、新聞、有機米といった、妻が生前に契約して今も続いているものの中で、優先順位の低いものから全て契約を打ち切っていきました。
 それまでは家計や家事は、妻がひとりでやりくりしていましたので、私は我が家が1ヶ月にどれくらいの生活費がいるのか、1年間の支払いがどうなっているのか等々、は全くわかりませんでした。
 残された通帳を眺めながら、手探りの状態での新しい家計のやりくりが始まりました。
親友に「俺の給料だけで生活できるのかな。」と聞くと、親友は「おまえの給料で生活できないのなら、国民の半分の人は生活できないよ」と言われ、なんとかなるかとその時始めて思えました。
 妻がいた頃は、家族で毎年旅行やキャンプなどレジャーの多かった家族ですが、妻の死後はレジャーに行くお金などなく、全くどこにもいかない状態になりました。
幸いなことに一番下の子どもも高校生でしたので、子どもたちとは子離れ、親離れの時期に入りつつある時でした。
 また私の精神状態からして、お金の余裕があったとしてもレジャーで楽しめる状態ではありませんでした。

(つづく)by yutaka

私の原体験 ⑯ ( 妻の死 )

2010年04月11日 | Yutakaの原体験
 妻が亡くなった時のショックの大きさは、私の人生の中で味わったことのない大きなものでした。
実の父が亡くなったとき、終始冷静に父の死を受け入れられたのですが、妻の死は全く違っていました。
妻との想い出が次から次に私の頭をよぎり、そのたびに涙が止めどもなく流れてきました。
夜、いつものベッドで寝ようとしても過去の想い出が次から次に頭に浮かび、涙ばかりがあふれてきて眠れませんでした。
寝室を別の部屋に替え、明かりをつけっぱなしで眠るようにしました。
それでも、頭の中には過去の出来事が止めどもなく浮かび、寝付けないままうとうとと夜を過ごしていました。
 親友からのアドバイスを受け、心療内科へ行きました。
お医者さんは、「仕事や家族があって良かったですね。なければうつ病になっていたかもしれません。睡眠導入剤を出しますが、うつ病の薬も出しましょうか。」といわれました。
 うつ病の薬は断り、睡眠導入剤をもらって帰宅しました。
その日から睡眠導入剤を使い、ようやく眠ることが出来るようになりました。
それまでの家での過ごし方は、本を読んだり、勉強したり、テレビを見たり、新聞を読んだりしていたのですが、それら全てが見るのも聞くのも嫌になり何も出来なくなりました。
ただ、ただ、妻の写真を見てはぼんやりとしていました。
 妻とよく行った、鎌倉など想い出の場所へは、絶対に行きたくありませんでした。
夫婦の出てくるテレビや、夫婦ずれの人たちの姿を見るのも嫌になっていました。
(つづく)


私の原体験  ⑮ (妻の死)

2010年04月01日 | Yutakaの原体験
 退院の日、めずらしく妻は朝から一時も眠らず、とても嬉しそうな表情でした。
午前中に退院する予定が、退院手続きが完了するまでに、大変時間がかかり
退院できたのは、午後3時をまわり家に着いた時は夕方になっていました。
看護婦さんが総出で玄関まで出てくれ、自家用車の座席をフラットにし、
布団をひいて、妻と二人で横になっての退院でした。
「おめでとう」の声に、喜んでいいのか、悲しむべきなのか、
複雑でした。
最近の妻は、寝ていることが多い容態だったのですが、
その日は、自宅のベッドに横になっても、まだ起きていました。
1日よくがんばりました。
会話はできませんが、うれしそうな笑顔で、家の中を眺めていました。
 しかし、翌日にはもう寝返りもできない状態になっていました。
日々、スプーンで水や流動食を少しずつ摂取する状態でした。
目を覚ましている短い間に、1日に必要な水分を口から補給させようと、幾分あせっていました。
 点滴をするにも腕や足は細くなりすぎていて、血管は萎縮し、点滴が難しい状況になっていきました。
 時には手のひらから点滴がうたれました。
日々、点滴を看護婦さんに要請するか、しないかで、悩みました。
点滴が意味が無くなりつつあったからです。
栄養を点滴で入れても、体が受けつけなくなっていました。
 そのような状態の中で、すでに会話の力を失っていた妻が、
うわごとで、はっきりとした口調で「がんばるぞ」
と言いました。
そして「がっかり」と言った言葉が耳に焼き付いています。
「がんばるぞ」と言ったときには、私の目から大粒の涙が流れていました。
 妻の容態は、日々悪化の一途をたどっていきました。
足も手も動かすことができなくなっていました。
それでも私は、奇跡が起こることを信じて疑いませんでした。
妻は絶対に良くなる。そう思いこんでいました。
 毎日来てもらっている看護婦さんに、妻の手や足を動かしてもらったり、車いすに乗せもらい、外の景色を見せてもらい、
いつかまた歩ける日のために、リハビリの要請をしつこくお願いしました。
 妻は1日の大半を眠っているようになっていました。
わずかに目をあける短い時間が夜中の時もありました。
 一睡もせずベッドの妻を見つめ、起きている一瞬の間に、水分や薬、流動食を少しで飲んでもらおうと必死になっていました。
 だんだん目を開けても、何も受け付けなくなってきていました。
11月26日小澤先生から、妻の命はここ数日ということを宣告されました。
「これから自分の体に残っているエネルギーをすべて使い尽くすかのように、体温が上昇  し、エネルギーをすべて使い果たすと、体温が下がってきます。
  そして眠るように息を引 き取るでしょう。」
 それが小澤先生の説明でした。
妻の容態は小澤先生の言われたとおり、38度を超える体温が続き、
息づかいが荒くなっていました。
26日の夕方から、家族全員が妻のベッドの周りで見守っていました。
翌日の朝を迎えると、家族全員が不眠不休であったためウトウトしていました。
長女が「お母さんの息づかいが穏やかになっているよ」という声で、家族全員の目が覚めした。
そのわずか後でした、妻の呼吸が穏やかに止まったのは。
午前6時30分でした。
平成18年11月27日午前6時30分、自宅の妻の仕事部屋で、家族みんなに看取られながら私の最愛の妻である鈴木紀子(49歳)は静かに眠るように息を引き取りました。
死因は肺ガンでした。
(つづく)byyutaka

私の原体験 ⑭ (妻の死)

2010年03月31日 | Yutakaの原体験
 妻のベッドの隣で寝泊まりしながら看病を続けていた時、私は幸せを感じていました。
この生活が永遠に続くことに、かすかな期待感を抱いていました。
 当時食器洗い用に買ったスポンジに、鈴木と名前を書いて洗面所に置いておくと、
妻が珍しく怒ったことがありました。
「どうして名前を書いたの。名前を書いたら他の人が使えないでしょ」
といつもの妻らしく、周りの人たちへの気遣いについてでした。
 10月に入ると、病状はますます悪化していきました。
モルヒネによる痛み止め治療が開始されました.
脳に転移したガンは、意識障害を伴い残尿感、
痴呆の表情が妻を襲うようになってきました。
 数日後担当医に呼ばれ、これ以上の治療に改善の見込みないと
治療の中止を宣言されました。
 他の病院に移るか、ホスピス病棟に移るか、
どちらかを選択してください、ということでした。
 私はホスピス病棟に移ることを妻に伝えました。
11月に入ると、妻は寝たきりの状態になっていました。
話しをすることもできなくなりました。
眠っている時間が、だんだん長くなっていきました。
 話しができた頃は、妻は家に帰りたがっていました。
ホスピス医を辞職した小澤先生が在宅医に移った理由は、自宅で死を迎える人のためでした。
 妻が信頼していた小澤先生にお願いして、自宅に戻り家族で妻の看病をするか、
このままホスピスで看病を続けるか、
家族で話し合いました。
 数日後、家族の総意で在宅看病に切り替える決断をし、
私たちは退院をしました。
(つづく)

私の原体験 ⑪ (妻の死)

2010年03月29日 | Yutakaの原体験
 私と妻は、ガンを直すことをあきらめていたわけではありません。
絶対に治る。
いや、絶対に治す、と2人で確信していました。
 妻は、自身で針治療や食事療法といった免疫療法を選択した訳です。
私は万が一のために、ホスピス医である小澤先生と連絡をとりました。
小沢先生は、道徳学会の講演を依頼して以来の、私が信頼している医師です。
 電話をすると、小澤先生はすぐに承諾してくれ、妻は小澤先生の診断を受けました。
小澤先生は、妻の治療方針に沿って援助してくれることを約束してくれました。
 妻は、その日から小澤先生の勤務する横浜甦生病院に外来患者としてかかることになりました。
 妻は初めて小澤先生に会った時以来、心から小澤先生に信頼を置いていました。
私の親友の母親が、当時やはり肺ガンにかかっており、その際使用していた薬を親友が進めてくれました。
その薬はガン細胞への栄養補給を断つことを目的とした薬でした。
 小澤先生に相談すると、すぐに承諾してくれました。
そこで、イレッサと呼ばれるガン治療薬を5月から使用してみることになりました。
服用するために、妻は1ヶ月近く大部屋の病室に入院しました。
 病院は夜8時が見舞の門限でした。
毎日私は見舞いに病院に通いました。
 学校を7時過ぎに出て、夜8時の門限まで毎日病院にいました。
妻は、病室に着く私の顔を見ると、
必ず片手をあげ、ニコッと笑顔を見せてくれました。
 門限の夜8時にやっと着いて、妻の笑顔を見ると、そのまま帰ることもありました。
妻は、1日だけ私が来なかった日があると後に言いました。
その日は、妻が寝込んでいました。
妻の寝顔をずっと眺めて、門限の時間にそっと帰ったが、
その日でした。
「良く寝ていたから帰ったんだよ」、と言うと
妻は、がっかりした表情を浮かべたことを覚えています。
起こしてもらいたかったのでしょう。
きっと、ずっと私を持っている間に
疲れて寝込んでしまったのでしょう。
後から振り返ると、一期一会の日々でした。
私の判断が、間違っていたのかもしれません。
(つづく)

私の原体験⑩(妻の死)

2010年03月25日 | Yutakaの原体験
 昨年の暮れから妻は体調不良を訴えていました。
「今年は体のメンテナンスの年」と本人は明るく言っていました。
年明け、胸に赤いシミのような発しんが現れましたが、私は深刻に考えませんでした。
数日すると赤いシミは消えていました。
 2月に入ると首下のリンパ腺が腫れてきました。
この時もカゼだろうと、妻も私も考えていました。
町医者に診てもらうと、「カゼだと思う」ということでしたが念のために組織検査をすることになりました。
 組織は検査機関に送られました。
3月に入り、組織検査の診断が出ました。
「ガン細胞が見つかった」ということでした。
戸塚の共立病院で検査を受けることになりました。
レントゲンでくまなく調べましたが、ガンは見つかりませんでした。
体のどこからガン細胞がリンパ腺に転移したのか、結局病院では分かりませんでした。
神奈川県立ガンセンターで調べることになりました。
3月一杯、いろいろな診療科で何回も検査が続きました。
最初かかった循環器科で見つからなかったガンが、ペットと呼ばれる画像検査で肺に発見され、原発であることが確認された。
担当医は高圧的な態度で、「すぐに入院しなさい。もうこの段階では手術、放射線治療はできません。化学療法をほどこしても、寿命は1年か1年半の命だ」と言われました。
ガンにかかる前から妻は、抗ガン剤治療を嫌っていました。
治療しても、苦しんだあげくに完治しないケースが多いからだと思います。
妻と私は、医者にあきれられながらも、ガンセンターでの治療を拒否しました。
(つづく)

私の原体験 ⑨ (妻の死)

2010年03月24日 | Yutakaの原体験
 ガンセンターの呼吸器科に私たち夫婦は呼ばれました。
妻は以前より、もし私がガンにかかったら、抗ガン剤治療は受けない。
免疫療法で治す、と言っていました。
 担当医の先生は、大変たかびしゃな印象の方でした。
病名は肺がんです。全身に転移していますので抗がん剤治療しかありません。
抗がん剤治療を行っても余命は1年半ぐらいです。
抗がん剤治療を行わなければ3か月か半年でしょう。
すぐに入院して下さい。という話でした。
 妻はお医者さんの話を聞き終わると「私は抗がん剤治療はしません」
「免疫療法で直したいと思います」とはっきり答えました。
お医者さんは、私の治療方針道理にしていただけないのなら、面倒は見れません。
出て行ってください。というお話でした。
 私たち夫婦がそこから退席しようとすると「旦那さん、ちょっと残ってください」といわれ、私だけ残りました。
お医者さんは「あなたたちは何を考えているんだ。旦那さんは、それでいいんですか?ステージ4の状態なんですよ」と言われました。
私は「妻が言う通りにさせてあげたいと思っています。妻が言うのなら私もそれでけっこうです」と答え、二人でガンセンターを後にしました。
 妻は「お医者さんに私の命の長さを決めさせない。私は私の方法でガンを直す」と沈んだ様子もなく、力強く答えてくれました。
 妻はその日からゲルソン療法と呼ばれる食事療法と針治療を平行して実行していました。
妻よりも私の方がドキドキしていたのかもしれません。
私は妻に「私の知っているホスピス医に連絡をとるから、万が一のときはお願いしないか」と話を持ちかけました。妻は同意してくれました。(つづく)

教育談義 「委員だけが評価対象ではない」(yutakaの学級通信)

2010年03月23日 | Yutakaの原体験
第3話
『委員だけが評価対象ではない』

 高校入試に使われる中学校の調査書には、委員会活動や係活動の状況を記入する欄があります。
中学3年生ともなると高校入試を意識するあまり、専門委員選挙で落ちたときなど大きなショックを受けることがあります。
しかし大丈夫です。
 委員になることだけが学校生活の評価対象ではありません。
昔こんな生徒がいました。
 その生徒は毎回意欲的に掃除に取り組みました。
黒板下や棚など汚れている部分のぞうきんがけを進んで行うなど、最後まで陰日向なく一生懸命に取り組みました。
 またこんな生徒もいました。
その生徒は黒板ふき係でした。
毎時間毎時間、授業が終わるたびに黒板をピカピカに拭き続けました。
各教科の先生方が驚きと感心の気持ちを抱いていました。
 これらの生徒が、学校から人間性として高い評価を得たことは言うまでもありません。
これらは委員会活動ではありません。誰もが取り組む係活動なのです。
大切なことは委員になることだけでなく、与えられた仕事に全力で取り組むことです。
大切なことは、ひとつでも良いことを続けることです。
 ある人がこんなことを言っていました。
「私はトイレを入るたびにスルッパをそろえて出ることをやり続けています。
 それは私が死んだとき、閻魔さまにひとつだけですが胸をはって言うためです。」
この人のようにひとつだけで良いです。正しいことをやり続けたいものです。

私の原体験 ⑧ (妻の死)

2010年03月23日 | Yutakaの原体験
 お正月が終わる頃、妻は肩の下あたりのリンパ腺が腫れ、
体調が悪いのは風邪のせいだと思い込んでいました。
近くの町医者に診察に行くと
「風邪だと思いますが念のためにリンパ腺の組織をとって検査に回しましょう」
とお医者さんに言われました。
 1~2週間の後、お医者さんから「検査の結果、
たちの悪い組織が検出されましたので、
戸塚の共立病院に行ってください」と告げられました。
数日後から共立病院での検査が始まりました。
 共立病院から帰って来た夜、妻の病気はただの風邪だと思い込んでいる私に、
「私ガンになっちゃった」と言うやいなや、暗いベッドの中で泣き出しました。
ガンが分かってから、妻が涙を流したのはこれが、最初で最後でした。
 私は頭の中が真っ白の状態で、妻に「大丈夫、僕がいつも横にいるから」
と抱きしめてあげることが精一杯でした。
数日間いろいろ検査をしました。
そして、「ガンに間違いないのですが、どこが原因のガン(原発)なのかわからない」
という説明でした。
「ガンセンターへ言って下さい」ということで、
今度は二俣川の県立ガンセンターへ夫婦で出かけました。
ガンセンターでの検査が始まりました。
循環器科やら内科やら呼吸器科やら、あちこちの部局をたらいまわしにされ、
最終的に「ペット」と呼ばれる検査を受けることになりました。
 ペットとは、薬を投与した後にガン細胞をレントゲンで写すと、
ガン細胞だけが光って見える検査でした。
妻の肺は夜の星々のように、小さな光があちこちに光っていました。
妻の病名は肺がんでした。
それも全身にガンは転移していました。末期がんと呼ばれるものでした。(つづく)