妻が亡くなってからようやく、2年が過ぎました。
物事を忘れることは、いけないことのように考えていましたが、忘れることも大切なんだと感じています。
どんなにつらいことが起きても、忘れることで救われることもあります。
記憶が、ゆるやかに溶けていくことが時には必要なことだと思えています。
同じように、さみしさや悲しみという感情がいけないことのように考え、消そう消そうと今まで努めていましたが、けっして悪い感情ではないように考えるようになりました。
大切な人が亡くなったのですから、さみしくて悲しいことは当たり前の感情であって、けっして悪い感情ではないと考えるようになりました。
このさみしさや、悲しみを心の片隅に置きながら、さみしさ、かなしさと寄り添って生きていくことが大切なんだ、と考えるようになりました。
毎日毎日妻の部屋で線香を上げ、手を合わせながら妻に語りかけています。
すると、妻が何を言っているのかが伝わってきます。
私の心の中に語りかけてくれる妻は、いつでも今までのように、私を励ましてくれています。
不思議に、毎日見ている妻の写真が、時には微笑んでくれていたり、泣いてくれている時もあるのです。
妻は肉体が無くなってしまいましたので、姿を見ることや肉声を聞くことが出来ません。そのことがさみしく、悲しく、つらく思うのですが、大きな空を見つめるとき、ふと見あげる新緑の木々や小鳥たちのさえずりを聞いているとき、妻が見守ってくれている感じが体に伝わってきます。
死んでも、無にはならないということが、感じられるようになりました。
物事を忘れることは、いけないことのように考えていましたが、忘れることも大切なんだと感じています。
どんなにつらいことが起きても、忘れることで救われることもあります。
記憶が、ゆるやかに溶けていくことが時には必要なことだと思えています。
同じように、さみしさや悲しみという感情がいけないことのように考え、消そう消そうと今まで努めていましたが、けっして悪い感情ではないように考えるようになりました。
大切な人が亡くなったのですから、さみしくて悲しいことは当たり前の感情であって、けっして悪い感情ではないと考えるようになりました。
このさみしさや、悲しみを心の片隅に置きながら、さみしさ、かなしさと寄り添って生きていくことが大切なんだ、と考えるようになりました。
毎日毎日妻の部屋で線香を上げ、手を合わせながら妻に語りかけています。
すると、妻が何を言っているのかが伝わってきます。
私の心の中に語りかけてくれる妻は、いつでも今までのように、私を励ましてくれています。
不思議に、毎日見ている妻の写真が、時には微笑んでくれていたり、泣いてくれている時もあるのです。
妻は肉体が無くなってしまいましたので、姿を見ることや肉声を聞くことが出来ません。そのことがさみしく、悲しく、つらく思うのですが、大きな空を見つめるとき、ふと見あげる新緑の木々や小鳥たちのさえずりを聞いているとき、妻が見守ってくれている感じが体に伝わってきます。
死んでも、無にはならないということが、感じられるようになりました。