忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

日本的倫理性 2 要約

2018年03月25日 | 日本の原体験

要約

第1章 私は誰であろうか
この章では現代欧米倫理性の近代欧米自我主義の樹立者カントの自我論を扱う。
第1節ではその歴史的経緯を説明している。教会や貴族という支配者達に代わって台頭したブルジャジー達には新しい支配原理が必要であった。それがデカルトのコギトである。何物にも支配されない独立者「我」である。
第2節ではその命題「我思う故に我あり」を分析し、その「我」を詳細に分析している。第1項では3つの「我」に解体された。第2項ではこれらの「我」の関係が分析され、第3項では「我」の実在は「思う」と現象によっているのではないかと指摘され、第4項はこの点がもっと追及され、「我」の実体性が疑われている。そこで「思う」が明晰なのであり、実はデカルトには存在はないのではないかと推断される。ここにデカルトの過ちがある。第5項、にもかかわらずデカルトのコギトには奇妙な魅力がある。その出所の原因はコギトの背後に隠れている(我?)にある。この我は捕えがたく「我1」にスリップしてしまう。「我1」は(我?)の魅力をまとって魅力的にわれわれを欺いている。これを「コギトの幻惑」という。第6項は「コギトの幻惑」を定立的に確認している。
第3節は「思う」は主体を有するのか、またそうだとすればどのような主体なのか、その実状はどうかを問題としている。第1項は「思う」にはデカルト的な意味での主体はなく、先ず現象であり、(我?)を提示しているが、西田幾多郎の場所論をヒントにしたい。それは「思わぬ」ということも含めた何ものかであり、また明晰を求める何ものかである。
第4節では第1項は(我?)のヒントとしてマリオンの存在なき神を示し、第2項ではデカルト的「認識と存在論」をカント認識論へと展開してみた。その結果カントはデカルトの(我?)への可能性を閉じてしまっている。デカルトにはその意味で日本的倫理性への道は開いていたと考える。第3項ではデカルトのコギトから日本的なコギトを思案している。デカルトのコギトは実は西田哲学の純粋経験や純粋意識に接触するものであるが、実体的「我」にスリップしたものであることを指摘し、第4項ではデカルト的「I」は日本的な「我」とは根本的に違っているので、我々はデカルト的コギトにではなく日本的倫理性によって生きていく道があることを言っている。例えば欧米のように自己を外に外在化し、外を変えるのではなく、自己の中に内在化し、中を変えていくという文化傾向などに象徴される。

第2章 ジョン・ロックのタブラ・ラサ
第1節では、タブラ・ラサにはマジカルな力があり、近代以降大きな影響力があるということを言っている。その訳は、私たちの精神が白紙であるということは強いインスピレーションを与えるからである。
第2節では、その白紙状況の実態を調べている。第1項では現実的に私たちが白紙であるというのは立証されているのかという観点から調べると、時間的に初めが白紙であるというわけではなく、精神に感覚や観念が発生するプロセスにおいて白紙であると言っているようである、と言っている。第2項では白紙状況は感覚と理性によって埋められ、第3項ではこの感覚や理性と言う認識能力の発生問題を提起し、第4項でそれらが身体に起因するものだと言っている。ここでロックの理性の位置づけには課題が残ると指摘しているが、課題を残しながら第5項ではその裏付けをしている。第6項はそのロックのタブラ・ラサは知識主義的で環境主義で、そこには私たちの主体的な自我のようなものが見えないと言っている。ロックはデカルトの生得的理性を批判するが、第3節ではこのロックの問題の所在を検討する。
第3節では英国経験論的な認識の構造を検討する。先ず感覚について検討している。第1項では感覚は感覚器官(身体)外部から感覚器官を通してやってくる、つまり対応しているということの検証をする。そうすると第2項では黄色と痛みの感覚の事例から感覚性質は感覚器官の外部のものとは違うということが判明する。そこにはクレパスがあってパラレルがみられる。結果的には感覚性質の所在は不明である。第3項ではこの問題の大きさを指摘し、第4項でこれらの間を埋め合わせているのはワープ現象であると主張している。第5項は言語とここにおける言語の役割を指摘しているが、ここにもパラレルとワープ現象が出てくると言っている。第6項ではこうした直接的な関係を立証できない、パラレルなそれぞれの世界が言語的・感覚的に現象することを認識の場で説明できないかといっている。次いで第7項からは理性ついて同様に検討している。第7項では理性の位置づけから見ると、ロックのタブラ・ラサは現実的には成立しないもので、論理的設定でしかないとわかり、第8項でこうしたロックの理性には行き詰まりがあり、認識と実在の問題の解決に依る必要があると考えている。カントの物自体の問題に波及するが、理性においても認識の場があげられる。
第4節ではロックのタブラ・ラサに提案をする。第1項ではタブラ・ラサはロック的な感覚知覚や理性観念だけがその内容とは限らないので見直せないかというものであり、第2項ではロックの感覚と知覚や理性と観念とがパラレルであるように、知覚や観念とタブラ・ラサの内容ともパラレルであれば、パラレルを解消する場所について考える必要が出てくることになる。第3項ではロック的タブラ・ラッサの呪縛を分析している。白紙状況は日本的倫理性の本質である禅的無我の境地を連想させ、それゆえに強いインスピレーションに魅了されて、いつの間にかスリップして無我の世界を経験的物観念に侵されているという仕掛けになっている。第4項ではその結果の物化した私たちを自覚し、第5項で本来のタブラ・ラサである無を指示し、第6項では日本的倫理性である悟りへの展開を提案している。

第3章 ライプニッツのモナド論について
ライプにチュのモナド論は総合的・体系的でその自我観はユニークで説得力に長ける。
第1節ではモナドについて予定調和を含めて一応の外観をする。第1項はモナドについて、具体的な個である実在で、実体観念であるが、窓がない、しかし一つ一つのモナドそれぞれ宇宙である。これは人間個々人にも当てはまる。疑問はそうしたモナドとモナドの外との関係はどうなっているのかということである。ここでの枠内の論点は重要である。論理的に固定された実在がその論理的説明を満足しながら、しかもその論理を超えて実在しているということであるが、それより重要なのは、モナド論の「モナドには窓はない」の定義がモナド論的にその定義を満足しながら、その定義からはみ出るという、モナド論的不思議世界を描いているのである。第2項ではその関係は予定調和によって説明される。横同士の連絡や情報がないまま宇宙自然現象だけでなく人間社会現象も秩序を以て展開するのはこのあらかじめ神が各モナドに設定してある予定調和によるものである。
第3項から第5項までは上記の説明が先取りして説明した。ただ第5項では予定調和にワープ現象を重ねてみることができるということを述べている。
第2節ではモナドを人間個々人と見なして自我観から考えてみた。第1項ではモナドの特に認識論的意味を英国主観主義特にJ.バークレイの絶対的主観主義と対比した。第2項ではそれを受けて、認識と存在について、モナド論的観点に入る前に、その問題点を説明している。第3項でも同様にカントの物自体問題を認識と物自体の断絶という困難から説明している。であるからモナド論も個人主観の域を出ないということで存在との断絶は解消できなのではないかと言っている。しかし第4項では予定調和によってその難を逃れると言い、第5項で窓がないにもかかわらずモナド間には現象的に窓があるかの如くに共時現象が起こっている。本文ではアナロジーと言っているが、パラレルな世界間でのスリップ現象といっている。このようにしてモナド論は窓がないことを基本としている。そこに欧米的な強固な自我主義があるとみなされる。
第3節ではモナド論から近代的自我観の本質を見ようとしている。第1項ではモナド論の本質は個人が教会や国家の支配の及ばない神に直結した神聖にして侵さざるものというところにあると言っている。それはデカルトやロックと同様な個人観で近代的自我観の樹立と政治的主権獲得にある。第2項ではモナドと個人のパイプについての問題と、窓のないモナドという個人同士での他者との関わりについての問題を扱っている。この他者との関わりはモナド内での他者との関わりではない。第1節第1項を受けてモナド外他者との関わりを論じている。「モナドには窓がない」にもかかわらず、中と外とがここでは行き来しているのである。異なる次元のものが次元を共有することによる矛盾の成立を見る。こうして自我の位置を獲得しているのである。第3項ではこうしたライプニッツのモナド論は実は強固な自我を構築しているが、一方日本人はそうした自我の構築をから遠ざかると言っている。第4項では第3節第2項の「個人と神との交流の仕方」がテーマである。3通り考えられる。ⅰ神が個人を支配する、ⅱ個人が神に溶解する、ⅲ個人が存在しながら神に溶解する、である。ⅲを矛盾的として強固な自我に逆行する矛盾的自我観と考えている。そして第5項ではその先の神問うている。ライプニッツにおいてはキリスト教の、ヤーベの神であり、日本的倫理性に取っては八百万神であり、自然神である。そこに強固な自我と柔らかな自我との違いがあると言っているのである。
第4節では、モナド論が絶対主観的な「モナドには窓はない」というスタートからはじめているが、認識論には大きな落とし穴があることを指摘している。モナド論はこれをかわしているのだが、先ずその落とし穴を見る。第1項では認識論の自己矛盾から来て、自らをがんじがらめにしている構造を見ている。認識の構造は内側と外側にある。内側では、感覚器官外の物⇔感覚器官⇔感覚・感覚現象⇔感覚性質⇔知覚という具合に流れを分析するが、これらの各部分はみな分断されている。認識の外部に関しても同様で他者についてみると、他者の認識は他者のものであるかどうかの確認は難しいのである。ここでも分断されており、認識が成立しがたくなるのである。これを認識の呪縛と言う。認識を確かなものにしようとして却って認識が成立しがたくなるからである。第2項では物自体の幻惑を指摘している。結論から言うとカントの物自体は存在しないものである。根拠の基本とするところは、認識は認識以外のものでは有り得ないということである。従ってすべての認識以外のものは認識されない。これは第1項の認識の呪縛に関わる。ライプニッツのモナド論から見ればすべての認識はモナドの認識の中のものであるから認識できる。他は認識できない。カントの幻惑は物自体が「認識対象でない」ことを「認識できない」とスリップしたところにある。「認識できない」は2義的でこの2つの意味を我々に伝達する。そこで幻惑と言う。そのため物自体存在が存在位置を占めるのである。正確にはカントの言う認識できないという意味での物自体は存在しない。「認識対象ではない」物自体の存在は第4章に譲る。第3項ではモナド論はこの2つの誤りをかわしていることを述べている。
第5節では、西洋的自我の自己同一的、連続的、統一的な自我に比して日本的自我の非同一的、非連続的、非統一的を対比しそこに我々の問題があることをのべている。

第4章 カントの物自体論
カントの物自体については第3章第4節第2項でかなり立ち入って、結論的に述べた。
第1節では物自体と認識ついてカントの認識論を述べる。第1項では物自体はカントの
超越論的自我も含められるが、落ち着きどころの悪いものであるとされている。第2項では他者を物自体の事例の代表として、認識論的に考察している。この物自体を、つまり本文中の②b「認識は認識であって存在とは別なものである」という認識論の原理を確定して、物自体の認識についての議論に入る準備をしている。第3項では③「存在は認識によって決定される」と④「存在は認識とは別物であり認識は存在問題に侵犯してはならない」の2つの問題を検討している。④は上記②bを踏まえた認識論の原理から来るものであり、認識に上ったものは存在とはされないという主張である。③はその逆で存在は認識によって決定されるというテーゼである。第3章第4節2)の引継ぎの問題である。この④と③の2つは認識と存在にジレンマを持ち込んでいる。第4項は直観を問題にしている。直観についても認識の原理が当てはめられている。直観は表現してしまえばもはや直観とは言えないし、それ以上に直観されたものがもはや他者とは言えないということである。直観内容は存在とは別物であるということである。他者の直観が他者そのものであると断言するなら責任の下に断言されなければならない。第5項では他者認識のための直観の可能性を見ているが、英国常識主義に基づき、直観内容の普遍性、社会的な共有性が見込まれるので直観認識の他者認識の可能性を窺っている。
第2節ではカントの物自体を扱う。第1項では第3章第4節第2項で述べた通りカント
の物自体のようなものは存在しないと言っている。我々は直観を以て認識対象としての現象として可変的な他者を認識しているという主張がなされている。そしてカントの想定する現象的でない、認識対象でない物自体は存在しないと言っている。第2項では物自体の二面性として⑩認識にとって形而上学的存在者であるような他者と⑪第3章第4節第2項で言ってある認識対象としての=現象(第1項では現象とした)としての他者を上げてあるが、⑩の他者は第3章第4節第2項で存在しないとされているのであり、⑪の他者は第4章第1節5項の「⑨直感は個人的のものであるか否か」での共有現象の中で存在すると考えられている。ここでは意識は孤立しているものではなく共有現象である。身体的にも他者認識は可能である。こうした共有現象を西田哲学の「場所論に関連付けてみたいということである。第3項は、認識は必ず対象を必要とするかという逆転の発想を問いかけている。認識は認識対象しか認識しないが、認識対象が無いとき認識は成立しないのか。すると認識の中に対象化したものが認識対象であるということになる。これは時間的には同時現象としても論理的には認識が先んじているのである。これが逆転すると物自体が存在することになるのである。認識の前に認識対象があることは論理的に成立しない。もし認識の前に認識対象があるならばそれはゾンビである。それこそ認識されない認識対象、否、対象⇒物自体である。認識対象は認識なしには現象化できないのである。第4項は「世界の外」と「認識の外」を巡って議論を集約している。ここでは私たちの暫定的な自我や認識対象を仮定的に措定して述べている。でなければすべては非存在で確定できないものとなりその現象と同行するしかなく、論考は表現されなくなる。認識はこの2つの、認識できない、内的無限性と外的無限性の狭間で現象する場である。この説は受入難いかもしれないが、諸々の幻惑や呪縛、スリップを日常的に受け入れている現状でさえ受け入れていることを考えれば、そう難しいことではないと考えられる、と述べている。第5項はコギトから出発した自我は物自体へと追いやられ、虚無化するしかない結果に終わる。デカルトのコギトにはまだ(我?)の余裕やチャンスがあったが、物自体はそのチャンスへの裏切だというのがここでの言い分である。

第5章 西田哲学に見る日本的倫理性
日本的倫理性への本格的叙述を始める。日本的倫理性とは人間の実在問題であり、西田哲学はそれに取り組んだ代表的な哲学者である。
第1節はこの西田哲学に見られる問題点をとりあげている。第2節では西田哲学の分かり難いと言われる問題を上げている。第1項では分かり難いという理由を整理している。①西田自身と言うより、戦前や明治以前の精神構造や表現が現代では通用できなくなっているということがあげられる。②そこで日本的倫理性への回帰、より戻しが必要であると主張されている。③西田の表現は深い内の瞑想を表現しようとするものであり、その意味では素晴らしいものであるが、それは体験世界であり、表現はメタファーなものになりがちである。それが物足りなく我々には思えるのである。④理解の仕方には主語論理的理解と述語論理的理解との2つある。日本的倫理性は主語論理的理解では理解し辛いと言っている。⑤この主語論理とはアリストテレスに由来する西洋的論理で、近代的自我論の世界である。日本的倫理のように私と自然とが一体になることはない。日本的倫理性の述語論理とはこの自然と一体になる体得の世界であり、場所の理論に結びつく。
第2節では西田哲学が求めたものを見ている。西田哲学は「神」を求め、「神」に触れ、「神」を見ることを求めている。私は神を掴むと理解する。ここに日本人の倫理性がある。主語的倫理が自己理解を外に求め、外に展開するのに対して、つまり法を作り倫理法則を作り社会制度を緻密に体系化するが、我々は心を済まし、心の中に声なき声を聴き、見えないものを見ようとする。自己は心深くに潜水し、自己を無化してそこを自己とする。
第3節では西田哲学と西洋哲学を対比し、デカルト、ライプニッツ、カント、ソクラテスの哲学を西田的な視点から批判し、日本的倫理性を追求する。第1項では西田はデカルト的コギトが主語的論理に陥る前のところに戻ろうと主張している。そこは西田の言う矛盾的自己同一の世界にも続く岐路点である。第2項では西田の無の世界について考察している。私が(我?)という世界を西田の無に見ている。そして場所論に続いていく。第3項では西田のカント批判を見る。カントの物自体については第3章第4節第2項や第4章第2節でだいぶ考えたことを踏襲している。西田はカントの認識主観に基づいて哲学を始めるが、そこからの脱却を追求する。そのため主語と述語の論理を突き詰め、極限的主語と超越的述語面により、この超越的述語面を「無の場所」とする。この「無の場所」は(我?)に類似させて述べている。カントは、主語的方面に事態を置いたデカルトの反対の述語的方面に行くが、屈折してその述語面を主語化させてしまった。これは形式主語を要する欧米言語文化のせいであろう。どうしても近代的自我に引き戻されるのである。そこにカントの物自体というものを生み出した幻惑がある。第4項では西田はカントの物自体を「絶対意志の自由」とし、カントが統覚つまり意識によって統一しようとした世界を意志の面から統一しようとしたことが述べられている。これによって西田は自然に「絶対自由の意志」をみ、自然のいのちを吹き返すのである。しかしこの西田の物自体はおよそカントの主観から疎外された物自体とは違い、自由な意志によって現象を続ける自立した自然そのものである。第5項では西田の場所について意識の面から解釈している。場所は、意識が単なる主観に閉塞されたものから純粋意識に広まり、現象することに見る。第6項では場所論を存在論的に解釈している。述語論理の観点から見ると、述語(一般者)は主語(個物)を対象として自己限定する、そして自らは非対象であるというのが述語論理である。そこで一般者が無限の自己限定によって自己限定する個物という対象が無い、つまり主語がない状況を絶対無と言う。神は何者にも限定されない。欧米的にはこの状況は主語論理的にみるから主語が無数の述語を持つという意味で一者としての存在である。日本的倫理性としては一般者が自己限定する対象を無化した〇の絶対無である。これを理論的にではなく境地として実践的にいえば「見るものなくして見る」という西田の表現になる。第7項では西田のライプニッツ批判を検討する。①ではすでに第3章で述べたモナド論の解釈に基づいて、ライプニッツのモナド論が西欧近代的自我論の基本である主観認識からどう解放されようとしたかを見ている。予定調和説はその解決として巧妙で説得力の高い世界観である。その不思議な世界観は、モナドの中の表象や意志が窓の外の分断されている自然世界と共時現象化していることは理論として納得できるといことだけにとどまらないで、そこを超えてつまり意識が意識外のことを意識しているという、カントの物自体の幻惑を晴らしてしまうことが解決されているという世界である、ということである。そこで②ではこのトリッキーな世界観を調べていく。ⅰデカルト的二論の克服は精神も身体もモナドに含まれて一元化されることで実施される。ⅱその克服原理は予定調和説による。池田氏の「包まれ包む」の予定調和の説明を参考に①でのトリッキーさが解消され納得できる。モナドと神との関係は神の「包み包まれる」表象(欲求)の表出をモナドが「包まれ包む」ことによって意識とし、モナドの表象を世界に表出する、というメカニズムである。③これは説得力の高い理論である。西田的にはそこには「私の有様が見えない」、西欧特有の自我の外化に止まる態度でしかない。日本的倫理性では、西田は予定調和の中に身を置いて、宇宙自然の「包みに包まれ」、西田の「包まれ包む」という、日常の禅定に生きていた、というところに自分の身を置くのである。第8項では、こうしたライプッツへの物足りなさで、ベルグソン哲学に惹かれていくということを述べている。①ベルグソン哲学は直観に基づく。西田の純粋持続はこの直観により現実味を帯びる。そこで初めて物そのものをそのうちから知ることができる、という西田の主張が述べられている。②純粋持続とは連続的創造の事であり、そこには緊張と弛緩があり弛緩すると自己は希薄になるが、緊張によって自己のいのちは盛んになる。心身共は共に純粋持続から出ており、閉塞的な近代意識から解放されながら、意識の世界の自立性は保持されている。②しかしベルグソンにも問題が残っている。それは「否定」観の違いによる。ベルグソンの否定は肯定と対立し連続して契機する弁証法的領域にある。西田の否定は肯定と縄目的に交差しながら出滅を展開する。これを別角度からは刹那と表現でき、場所に関係する。それはまた時間・空間の発信源である。第10項では第7章のソクラテスに西田との日本的倫理性に関する共通性を見る。ソクラテスの世界は「無知の知」にあるが、西田や日本的倫理性との共通性は、そこからのソクラテスの転回に見ることができる。そこからソクラテスは神のみが知恵者であるという伝統的ギリシア精神世界に入り、人間としてはその神の完全なる世界を愛求する(エロス)ことが本文の生き方であると主張して啓蒙活動に入る。このソクラテスの世界には自己否定と自己肯定が自己矛盾的に展開していると見ることができる。


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