忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす

原体験を道徳教育にどのように生かしていくかを探求する。

私のここで言っている「純粋な思考」とは

2013年01月09日 | 無意識の働きをめぐる対話
 いつもながらNoboru氏は、議論全体からいま焦点となっているところを整理して示され、具体例も挟んでの展開は大変わかりやすく、気づいてみると私の議論はNoboru.氏のそれに依存して進めているようなところがあり、だから私の議論は部分に片寄ったように見えるのではないかと思いました。それに、私の議論は具体例にも乏しく不親切なものになっているなと反省しているところです。反省はしても難点を克服した議論ができるかは心もとないですが、出来るだけ努力していこうと思います。
 さて、議論が噛み合わないと感じさせる点は私の説明不足によるのは明らかですが、「純粋な思考」というもののとらえ方に齟齬を来していることも大きいのだと思われます。それではまずその点から説明していこうと思います。

 Noboru氏は、思考が純粋に行われる場合というのは数学や論理学を除いては考えられないと言われます。思考が「個人の欲望や感情や利害や無意識に多かれ少なかれ影響される」からだというわけです。実はその点では無意識を除いてですが私も同じで、具体的な思考のプロセスにおいては思考に欲望や感情等が絡んで影響され、常識的に見たらゆがんだ認識や判断に行き着く場合も多かろうと思っています。同じ講演を聴いても人によってその理解に違いが生じるのも、それぞれの欲望や価値観、それにともなう感情の違いからきていると言えます。そうした理解では両者はほとんど違っていないと最初から思っていました。違っているのは次の点です。

私が言っている「純粋な思考」というのは、利害関係などのバイアスがかからずに展開される思考のことではありません。実際には思考に欲望や利害関係その他が影響しないことなどほとんどないのです。と言うか思考はそれらに影響されるのが当然なのです。しかし、そうなるのは思考が不純なわけでも、思考そのものがゆがんで機能してしまうからでもないのです。どのような思考結果・思考内容が導き出されるにしろ、思考そのものはいつも本来の働きを営んでいるのです。思考は数学を解くときも、自然科学の特定の研究をするときにも、あるいは社会科学を学ぶときにも、変わらず働きます。その本来の思考そのものの働きを、私はたまたま「純粋な思考」と言ったわけです。(ネーミングの仕方はよくなかったかもしれませんが。)

 この点をもう少し具体的に述べてみることにします。思考はもとより言葉だけでなく、イメージ思考もありますよね。何か機械を発明する場合、たとえばエンジンの機能強化を図ろうと工夫しているエンジニアなどの場合、言葉で考えるというよりは改良されるべき所のあるべき形が次々とイメージされ、それと関連か所との望ましいあり方をイメージさせながら考えていくというケースは多いのだろうと思います。
 シュタイナーによれば概念は思考にもともと備わっているといわれ、思考を働かせると同時に概念が獲得され、思考対象に概念が結びつく。思考が展開されているところでは思考によって原因と結果、客観と主観、物質と力、大小、上下、遠近といった様々な概念のうち適切な幾つかの概念が思考対象に結びつき、事柄の関連性や本質が認識されていきます。2つの異なる現象の関連や異なる体験の相互の関係性は思考抜きにはつけられないのです。こうした思考本来の働きを「純粋な思考」と言ってきたのですが、その思考は次のような場合も当然働きます。

 ある悪い心根の人がお金を手に入れたいと思い、その手段として老人からお金を巻き上げることを思いつきます。詐欺の手順が練り上げられます。その人の思考はそうした悪い目的にも働きます。もちろん思考が悪いのではなく、その人の目的が悪いのです。しかしこの場合の思考は、その悪い目的のために奉仕させられているわけです。
 巨額の内部留保を抱えている大企業が、少し景気が悪いからといって人件費を削る算段をし、不当な理由をでっち上げて派遣社員法のギリギリのところで首にしたり、正社員にしなければならない勤続年数3年間の直前で一端やめさせ、その上で新たな派遣社員として採用し低賃金でつなぎ止める、といったことが行われています。ここでも人件費を削るという目的に会社経営者の思考が働いた結果です。思考そのものは能動的で純粋な働きをするのですが、会社の歪んだ目的のために言わば思考は奉仕させられていると見ることができます。

 もちろん当然ながら思考は前向きの様々な目的のためにも働きます。先ほどの優れたエンジン発明のためや、ips細胞の応用によって心臓疾患等の難病を救う研究も、その目的を自覚する人の思考として働くことによって成し遂げられていくことでしょう。
 Noboru氏も社会科学的な学問上の思考を取り上げて、利害関係のバイアスゆえに研究結果が恣意的にゆがめられる例を上げておられますが、そういうことはいろいろあって、たとえば今日日韓両国の歴史認識の問題で対立が深刻になりつつありますが、「これではいけない!」ということで認識の齟齬を出来るだけ払拭する必要があるという意図を持った場合には、両国の学者が丁寧に事実を調べて出し合うことである、と考えるのもまたその意図所有者の思考の働きの結果であるわけです。
 また、言葉としての概念の理解にズレがあるために議論が進展しないことがわかれば、概念の定義づけを再検討するといったことも、議論を交わす人たちに建設的な目的が共有されているのであれば進められていくはずです。思考は人間に備わった資質・能力であり、それをどう使うかはその人によるわけです。

 そこで、ひとまず上に述べた意味で、思考の働きそのものを「純粋な思考」とし、しかしその思考はそれぞれの人の目的(悪い結論を得るための場合もあるが)に向かって働くわけですから、私はその目的のもとに紡ぎ出された思考結果を「思考内容」として、「純粋な思考」と区別してきたわけです。

 ところで無意識は別として、思考がその人の抱く欲望や利害関係やそれらにもとづく感情にも影響されて具体的に展開していくというのが、思考展開の現象的姿です。しかし、私がこれまで述べてきた思考というのは、その人自身がはっきりとした思考対象を持たなければ、何となく自然に目的もなくはじまっているというものではないと思っているわけです。気分や感情の流れであればそういうことはあるでしょう。いや、たいていはそのようであるのではないでしょうか。
 しかし思考はそうした気分や感情とは違い、大変に能動的な作業であって、思考し続けるにはかなりの集中力が必要で、結構しんどい作業であるわけです。それだけに、どのような思考内容が紡ぎ出されようとも、自我(私)は明確な意識のもとに逐一そこでの思考に立ち会っており、すべてを把握していると言えるのです。だからこそ、自分の思考が何者かによって知らぬ間に遂行されていたなどということはありえず、思考内容は自分が生み出したものと言えるのです。それゆえ思考内容、すなわち思考して生み出した結果については思考主である私が責任を持たなくてはならないし、また持てるのだと思います。

 思考は集中を要する精神作業なので、日常生活においては苦手とする人が多いのです。日常の生活意識においてはあまり考えることはしていないもので、他人の考えに何となく耳を傾けて理解していたり、直近で起きた生活上の出来事の印象をぼんやりと引きずっていたり、もちろん心配事でもあれば、その心配な気分が通奏低音のように心を支配しているといった案配で、全体に日常生活での心のありようは受け身的と言えるものではないかと思います。無意識の働きもそういうところに忍び込むのかもしれません。

 そこで、ここで思考と無意識・潜在意識との関連にふれたいと思います。すでに述べているように、私は思考に無意識が入り込む隙はないと思っています。ですが、そう言う前に、無意識を私がどのように理解しているかについて述べなければなりません。
 さしあたって私の理解する無意識は、意識内容がないという意味ではなく、現在意識に現れていない意識内容ともいうべきもので、つまり記憶です。幼いころからの体験や様々なことで多く学習してきたことの大半は必要に応じて意識化されますが、普段は意識下に沈んでいます。それらは自分の必要に応じて思い浮かべることが出来るものです(この頃はそうもいかなくなってきていますが・・・)。
 それと、フロイトの精神分析学でいう心の中の無意識的なしこり、ヒステリー症状などは抑圧された性欲が原因とされていて、そうした無意識的しこりが人間の行動に影響を与えるというものです。 もう一つ仏教でいう阿頼耶識といって、過去からの業を貯えている深層意識をさすものと、潜在的な自我執着心を意味する未那識のことを、私には無意識というときには気になるものとなっています。しかし、それらが現実に生きる人間にどのようにかかわるのかについては私にはわかっていません。

 それで、そうした無意識が、人間の意識生活だけではなく人生の道程において運命をもともなって作用するようにも聞いていますが、私はこと思考においては、思考の土俵の中に限っては意識されないままに思考そのものに作用することはありえないと考えているわけです。それはおまえがたんに認めないだけで、現実には無意識の作用が及んでいるのだということが真実であるとすると、それはNoboru氏の仰ることでもあり、そうすると、私は自分の思考内容や判断に責任が持てないことになります。自分の言っていることが実は自分が言っていると思っているだけで、実際には自分のその時点で意識していない何らかの作用を受けて、あるいは自分が意識できていない何かの作用に促された結果ということになり、それを自分の考えのように思わされているに過ぎなくなるからです。

 こうしてNoboru氏との議論も、Noboru氏の主張にしたがえば、この議論が真剣であればあるほど、氏の説得力を持った論調の部分でさえ、それを氏自身が私に対して真剣に主張する意味合いが薄れることになりはしないかということです。もしかすると氏が意識できぬ何らかの作用によって思考が展開されているかもしれないからです。そうすると自分の思考に確信が持てず、責任を持って、あるいは信念を持って人に何かを説得することができないことにも、理論上はなるのではないでしょうか。その点をNoboeu氏はどうお考えになりますか。(Takao)

無意識はあるのかという根本問題

2013年01月06日 | 無意識の働きをめぐる対話
今回は、01月03日にご投稿いただいた

「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2

に関しての応答になりますが、これも二つの部分に分けて、まずは前半部分を考えてみたく思います。前半は、Takao氏が「このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない」と「実感」に基づき判断されている、短い部分です。後半は、シュタイナーに即して自我と思考の関係を述べておられる部分です。

まず、前半部分ですが、ここを読む限り、Takao氏と私との間で、無意識についての理解に大きなズレがあるようです。「自分以外の何ものかがいつのまにか(それこそ無意識のうちに)からんでしまっているとしたら」とか、「自分にとってわけのわからないものに憑依されているようには感じずに判断や決断を下しています」(強調Noboru)とかいう表現を用いられていますが、これらの表現では無意識が、まるで自分とはまったく別の他なるもののような印象を与えます。

私にとっては、無意識はきわめて身近なものであり、日々、自分自身の無意識の心の働きに気づいては、「ああ、そうだったのか」と納得したり、少し成長したなと思えたり、ともあれいつも連れ添い、お付き合いしている親しい存在なのですが、上の表現を見る限り、Takao氏にとってはそういうものではないようですね。

さらに「人間にとって私・自我が事態にしっかり向き合って思考を働かせ、有効な判断や問題の解決に導こうとしていても、そこに無意識がからむとすれば、下した判断や解決法に責任が持てないことになります」という認識も、無意識をどのように理解するかで、見方は違ってきます。

また「このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない、という実感が思考のたしかさを示していると言えるように思うのです」と言われますが、無意識はまさに無意識であるがゆえに、自分がそれに左右されているとは気づかない場合が多いのではないでしょうか。実感がない(意識できない)からこそ、無意識なのです。

このような、無意識についてのとらえ方の違いは、最初から感じていたので、まずは無意識をどうとらえるかについて、共通理解をもつ必要を感じたのです。それもあって、

(1)無意識とはどのようなものか。

(2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

(3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

という項目を立て、この順番に議論を進めた方がいいかなと思ったのです。

それで、いちばん根本的な問題を質問しますが、Takaoさんはそもそも、人間に無意識の心の働きがあることをお認めになるのですか、それとも認めないのですか。もし認めるのだとしたら、それをどのようなものとして認めておられるのですか。そして、もし認めないのだとすれば、無意識についてのこれまでの研究の蓄積に対して、どのような態度をとられるのですか。

このような質問をさせていただくのは、これまでのTakaoさんの発言から、最初に「無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定する」という前提があって、その前提から、「だから無意識の存在は認められない」という結論を導き出そうとする姿勢があるように感じるからです。

上の3項目でいうと、まず(3)の問題意識があり、その視点から、無意識の存在を否定しているように見えるのです。私は、そのような視点から自由に、無意識について事実は事実としてきちんと理解していくことが必要だと思うのですが、いかがでしょうか。

Takao氏が、無意識についてどう理解しているかという問題は、前回、私が投げかけた、言語の曖昧性や多義性、解釈の違いをどのように理解するかという問題とも、一部関係すると思いますので、合わせてお答えいただければと思います。

なお、シュタイナーに即しての自我と思考の関係についての議論は、これはこれで大きな問題ですので、何回か後で、議論の展開を見ながらお答えすることになると思います。ご了承ください。(Noboru)

再度、日常の中で「純粋な思考」は成り立つか

2013年01月04日 | 無意識の働きをめぐる対話
最初にこれまでの議論の展開を整理してみたいと思います。

Takao氏の問題意識は、「無意識というものが存在し、それが意識的人間にそれこそ無意識・無自覚のうちに作用するとなると、人間の本質的特徴である主体的なあり方をそこなってしまうし、そうなると人間は自由ではありえず、みずからの判断や行為に責任を負えぬことになるのではないか」というものでした。

私は、Takao氏が提起してくださった問題を三つに整理しました。

(1)無意識とはどのようなものか。

(2)無意識と意識との関係はどうなっているか。

(3)無意識の存在は、人間の自由や主体性の存在、さらに主体の自己責任の可能性を否定するのか。

問題の根本は、3)にあるけれどこの問題を考える上では、1)と2)について共通の認識がないと、議論の前提が曖昧になるので、まずはそれをはっきりさせようと確認し合いました。

その上でさらにTakao氏は、「純粋で鋭い論理的思考のはたらくところには、その人の自我意識、すなわち私という意識がしっかりと寄り添っています。寄り添うというよりは、まさにその私という目覚めた意識が具体的な思考を展開しているのです」と言われました。純粋な思考には私という目覚めた意識が伴っているので、そこに無意識が影響する余地はないと、Takao氏は主張しておられることを確認しました。

そこで私は、「純粋で鋭い論理的思考」とは、具体的に何を指すかを問題にしました。そして、Takao氏の発言の内容を整理すると、次のようなレベルのそれぞれにおいて「純粋な思考」が成立しているとお考えであることを確認しました。
 
1)数学、論理学の思考
2)自然科学の研究をする科学者の思考
3)人文科学の研究をする科学者の思考
4)科学の成果を共有しようとしている人の思考
5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考

その上で私は、無意識の影響を受けない「純粋な思考」が成り立つとすれば、それは厳密な意味では1)の数学的、論理的思考のレベルのみではないかと指摘しました。これに対してTakao氏は、「思考そのものの働きと思考内容との区別を意識すること」で、私の見解とは違った見方ができると主張されました。

Takao氏は、「数学、論理学の場合は思考が他の要素の干渉を受けず純粋な思考結果を生む」が、一方「2)~6)の場合は多かれ少なかれ他の要素、すなわち既知の知識の量の違い、価値観の違い、利害や欲望等の違いがからむため、思考結果としての思考内容(認識、判断)が人によって異なってくる場合がでてくる」、しかし「いずれの場合においても思考そのものは正常に機能しているのです。つまり、いずれのケースも、思考の対象に対して自我・私が思考を働かせ、概念あるいは理念とそれら相互の結びつきを見出そうとする営みを行っているから」という見解を示されました。

そこで私は「数学や論理学以外で、他の要素がからまない純粋な思考が果たして可能なのだろうか」と問い、人間が言葉を使って思考する以上、言葉の曖昧性、多義性、個々人による概念理解の差異が生じるのは避けられず、そこに無意識に根ざす解釈の違いが不可避に生じるのではないかという私の見解を示しました。これはTakao氏の問題提起の3点のうち(2)「無意識と意識の関係はどうなっているか」という問題の一端に、言葉の概念に焦点をあてて触れたということです。

これに対しTakao氏は、「私には実によくわかるものになっています」とおっしゃられました。しかし、「よくわかる」と言われるのであれば、Takao氏の問題意識からして、どの部分がよくわかり、どの部分が納得できないかを明確にすべきではないでしょうか。

私は、思考が言葉を用いる以上、社会科学的思考も含めたほとんどすべての思考が、個人の欲望や感情や利害や無意識に多かれ少なかれ影響され、純粋な思考は数学や論理学以外あり得ないと主張したのです。

そして、もし仮に数学、論理学以外でも「純粋な思考」が成立するとして、現実には、たとえば講演を聴いていてそれを理解する場合も、あるいは人生の重要局面で重大な決定をする場合でも、ふつうは、他の要素に影響されずに、Takao氏のいう「純粋な思考」を貫徹することなど不可能なのでないか。ほとんどすべての日常的な思考は、多かれ少なかれ無意識を含めた他の要素に影響されており、日常的には不可能な「純粋な思考」を強調することにどれほど意味があるのか。そういう疑問を投げかけました。

その上で、議論を具体的な形で深めるため、日常生活の中での「純粋な思考」の具体例を示して欲しいとお願いしたのです。とすれば、私の議論のこの部分までは「よくわかり」納得できるが、この部分はこういう理由で納得できない、という議論を、具体例を用いながら指摘していただくのが、議論の筋ではないでしょうか。

Takao氏は、日常生活の中でも「純粋な思考」が働いている事例として、ちょっと先の草むらで草が揺れ、音がしているという現象に対して、なぜかと疑問をもち、溝の中でカラスが羽ばたいていたという原因を知るという例を挙げておられます。この事例で述べられていることは、私たちには因果性の概念がアプリオリに備わっており、この思考能力が純粋に働くかぎり、私たちは無意識なるものによって曇らされず、自律的に思考でき、人間の主体性や自由を失うことはない、ということだと理解しましたが、よろしいですか。

これは一例に過ぎないのでしょうが、もし仮に私たちに因果性の概念がアプリオリに備わっているとしても、私たちの日常的な思考においては、それどころか社会科学的な学問上の思考においても、原因と結果を、利害関係などのバイアスがかかった状態で、かなり恣意的に結びつけたり結びつけなかったりすることが多いのではないでしょうか。私は、思考と言葉の概念との関係で、そういう主張をしたはずです。これが、前回提示した疑問の主旨でした。

そこで、もう一度、同趣旨の質問を繰り返すことになりますが、

5)新聞や雑誌を書いたり、講演をしている人の思考、またそれを共有しようとしている人の思考
6)人生の重要局面で、どう生きるかの責任を負うような決断をするときの思考

という、Takao氏がおっしゃる日常的なレベルで、「思考そのもののはたらき」「純粋な思考」がどのように働いているのか、具体的なあり方を示していただけないでしょうか。それが、議論がかみあっていく前提となると思います。

無意識と人間の思考の自律や自由という問題を考えるとき、私たちの日常の思考こそを問題とすべきだと思います。私たちが、毎日の生活の中で行っている思考がどのようなものであるかどうかを問題にしない限り、自由や主体性も問題をいくら議論してもほとんど意味がないと思うからです。

だからこそ、日常的な思考の中での「純粋な思考」の具体例を示していただきたかったのです。たとえば、人生の重要な決定をなす場合の、両者の区別はどのようにしてなされますか。もし区別されたとして、そのことが人間の思考の自律や主体性、自由とどのようにかかわりますか。そこが具体的に説明されないかぎり、人間の主体性や自由がいかに成立するかを説明することはできないと思うのです。その前に、こうした議論の前提となっている問い、(1)「無意識とはどのようなものか」、(2)「無意識と意識との関係はどうなっているか」についても、話を深められないと思うのです。

(以上は、Takao氏の「「純粋な思考」とは具体的に何をさすか」への応答として書きました。「「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2」への応答については追って書きますので、お待ちください。Noboru)

「純粋な思考(思考そのものの働き)」とは Part2

2013年01月03日 | 無意識の働きをめぐる対話
 人間にとって私・自我が事態にしっかり向き合って思考を働かせ、有効な判断や問題の解決に導こうとしていても、そこには自分以外の何ものかがいつのまにか(それこそ無意識のうちに)からんでしまっているとしたら、下した判断や解決法に責任が持てないことになります。
 しかし一般的にいえば、日常の感覚において、酔っぱらっていたり、神経に影響を与える薬を服用していたりするのでなければ、自分にとってわけのわからないものに憑依されているようには感じずに判断や決断を下していますし、判断の後も原因不明の作用によってその判断等に納得のいかないものが感じられる、といったことはないものです。

もちろん後で明確な理由により判断ミスをしてしまったと気づく場合はありますが。その場合は自分の責任として受け入れられるものです。このように日常における大事な判断や決断場面での実感からも、その判断がいかなる作用ともしれないものや無意識等によって左右されるものではない、という実感が思考のたしかさを示していると言えるように思うのです。

 ここでは、いま少し論理的に、私がたまたま名づけた「純粋な思考」すなわち「思考そのものの働き」について述べさせていただこうと思います。
どんな存在の仕方が考えられるにしても、その存在をとらえるにはまず思考という形式をとらなければならないというのは真実であると思います。その思考が人間には備わっている。そして思考には他の魂の営みとは重要な違いをもっています。それは思考活動の場合だけが、「自我(私)」はどんな活動においても、自分と活動者が同一存在であることを知っているということです。

 「思考においてこそ、そこで何かが生じるときには、必ずわれわれ自身がそれに立ち会っている。そしてまさにそのことが大切なのである。」とシュタイナーは言います。したがって「思考そのものの中に見いだせないものは思考の本質とは見なせないということであって、(ひとたび)思考の領域から離れてしまったら、思考を生み出すものが何であるかに思い至ることはできない。」とのシュタイナーのこの指摘は、私もことのほか重要であると思っています。思考だけは、それがどのようにして作られるかを知っている。われわれは思考の働きを自分で生み出す。だからこそその過程の特徴を知り、その働きの行われる仕方を理解しているのだと思います。

 「思考を観察してまず第一に気づくのは、それが通常の精神活動の中では観察の対象になっていないということである。その理由は、それがわれわれ自身の生産活動だからである。自分で生み出さないものだけが、対象として、私の視野の中に入ってくる対象を考察するとき、私の目差しはそれに向けられている。私の注意が向けられているのは私の活動ではなく、活動の対象である。思考する私は、自分が生み出す思考にではなく、思考対象に目を向けている。」

 「思考以外の精神活動はすべて、外界の事物同様、観察の対象になる。しかし思考活動(思考内容を生み出す働き)だけは、もっぱら観察する方の側に留まり、自分を観察の対象にはしない。」

 「思考は思考する存在(「自我」・私)を通して働くものである。概念と観察が出会い、互いに結び合うのは人間の意識という舞台においてである」

 こんなふうにシュタイナーは人間の意識・自我と思考とのかかわりや特徴を明確にしていて、そこから彼の哲学をスタートさせているのです。それがシュタイナー哲学に信頼を寄せる人たちのひとつの大きな根拠にもなっていると私は思っています。

 ところで、これまで哲学者はいろいろ基本的な対立概念から出発しています。それらは観念と現実、主観と客観、現象と物自体、意識と無意識などというようにです。だけれどもシュタイナーは、これら全ての対立に先行しているものとして観察と思考の対立を挙げなければならないと述べています。
というのも「私たちがどんな原理を打ち立てようとも、それはどこかでわれわれによって観察されたものであることが証明されねばならず、そしてまた他の人が後から辿ることのできる思考形式をとって明瞭に述べられなければならないもの」だからだというのです。

 ここで、シュタイナーの世界観獲得のプロセスについてふれると、そのプロセスを彼はいかなる概念によってもまだ規定されていない直接的に与えられた世界像から出発しています。そこでは物質と精神、意識と無意識といった対立はまだ生じていないのです。認識のスタート時点ではすべてが現象です。魂の中に現れてくるものもそうですし、意識そのものもそうです。この直接的に与えられた世界像の中にひとつの固定点が、つまり、他のすべてのものとは本質的に異なったある領域が求められるというのです。それが思考であると。思考は、われわれ自身によって産出されるという点で、他のすべてのものと異なっているものなわけです。われわれの内部にある表象、感覚、感情、衝動はわれわれの関与なしに存在しているが、思考だけは例外をなしているというのです。思考はわれわれ自身の活動を通してのみ生じるからです。さらに、思考にはもう一つの特徴があって、思考は、世界内容から切り離されたそれ自体において意味を持つ活動によって形作られるのではなく、思考を形成する活動の中には全世界内容が含まれているというのです。思考とは「世界内容そのものを取り入れる」活動であると。こうしてシュタイナーにあっては、カントによってその境界が鋭く区別された主観と客観の世界領域は、思考によって結合されていくのです。

さらにシュタイナーは、「思考は世界現象の原初のカオスに秩序をもたらし、形成し、形態を賦与する原理である。思考のこうした形成作用を経てはじめて現実が成立する。世界はわれわれには不完全な形で現れるが、その不完全な形態は人間の思考によって改造される。」と述べ、「世界法則は、普段はすべての存在を支配しながら、自ら存在として現れることは決してない。この世界法則を、現象する現実の領域へ置換すること、これが人間の使命である。客観的現実のうちには決して見いだせない世界根拠を表現すること、これが知識の本質である。われわれの認識活動とは、比喩的にいえば、世界根拠へと絶えず肉薄しようとする行為である。」 こんなふうに述べて、人間精神の中で思考の占める独自性、不可欠性を主張しているのです。

 先の「純粋思考」の説明だけでは理解困難であるように思われ、説明を付けたしたつもりですが、かえってややこしくなったかもしれません。こうした思考のとらえ方にはNoboru氏から見ると決定的な欠陥があるのであれば、ご指摘いただけたらと思います。(Takao)